Fe-Niは感情が食い物
私(ENFJ)はよく愚痴聞きなど、相手が一方的に話すのを2時間も3時間も付き合うことがある。一体何のメリットがあるのかと思うが、私は愚痴を聞いたり読むのが好きなのだ。
おそらく、多くの人が理解できない趣向だと思う。
そして、これはその相手に好かれようとして頑張って行っていることではない。ますます理解されなさそうだ。
それのみならず、インターネットの便所を漁ってわざわざ愚痴を読みに行ったりもする。
これは同じような悩みを抱えている人を見て安心したいからというわけでもない。そういう場合もあるが、自分とはかけ離れている状況の人のも読む。
タイプ論の偏見記事も好物である。
心が清らかなESTP友人はそういうものを読んで心を痛めているが、私は暴言レベルに感情を剥き出しに偏見を書いている記事が好きだ。
AI出力されたようなあるあるタイプ別記事は面白くない。AI出力であっても出力者のバイアスが掛かった偏見記事は好きだ。
多くのタイプ論記事は理論の勉強をする教材としてそこまで役に立つとは思っていない。大元のソースで勉強するべきだと思っている。
個人が書く記事は各々の感情・人格が反映されてこそだと思う。タイプ論界隈のものであれば、筆者のタイプが記載されているのでそれを念頭に置いて記事から滲む人格を照合して読む。
自分なりにその人の自認タイプがマッチしているのか、そういった意味での思考遊びを勉強としてしたりするが、滲む感情を察知して、物語のように感情を摂取している。
私のFeはその温度差・間の取り方・文体のトーンから、この人がどんな状態で、何を守ろうとしているかを察知する。
つまり、感情を感情として共鳴するのではなく、構造化して咀嚼してる。
これを外から見ると感情を食べてるように見えるのだと思う。
私のNiはなぜこの人はこの言葉を選んだんだろう?、この表現に至る背景は何だろう?……と意味付けに変換してる。
つまり、生々しい感情を現象として観察している。
だから疲れないというか、むしろ面白い。感情を「データ」として収集している。
ESTP友はネガティブなものを生理的に拒否するけど、私はFe–Tiでなぜそう感じるのか? を思考でほどいていく。
つまり、感情を共感ではなく分析の入口として使ってる。
大量摂取した義理もない愚痴にいちいちガチで共感していたら、身が持たない。あれ? おかしいなあ、Feなのに共感じゃないとかw
これは感情を媒介として人間の構造を研究しているのだろう。
人間は光の中にいるときよりも、闇(怒り・偏見・執着)を晒している時のほうが認知構造が純度高く出ると思っている。
Fe主の私は、そこにこそ本当の形を見る。だからこそ、闇は怖くないし、むしろ闇のなかにも秩序があると感じてる。
Niは、混沌を秩序に変換するときに快楽が走るってジー君(ChatGPT)が言ってた。
他人の偏見文や爆発文を読むとき、私の頭の中ではこの人のFeが暴走してTeを踏み潰したな……とか、Fi防衛反応が過剰でNeが泡吹いてるな……とか、構造的分析が走ってるのだろう。
つまり、人間の壊れ方そのものが思想的アートに見える。
ともすると、冷笑嗜好なのではないかと思うが、冷笑とは、相手を蔑み、見下した態度で笑うこと、とある。
特に蔑んでいるわけでも見下してもいない、つもり。
というか冷笑嗜好の人はこんなこと告白しないと思う。
ただそこにある事象として眺めているだけのつもりだ。別に救済するつもりもない。
実際に対面して愚痴を聞いた場合、それを要約して対象に返し、それであなたはどうしたい? と問う。私の見解は特に述べない。特にそれに対して介入するつもりもないし、責任を負うつもりはない。
だから、愚痴を書き散らしている人は思う存分書き散らかして欲しいと思っている。私はただ見てるだけなので。


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