「形式というキャンバス──課題曲マーチと芸術の可能性」
──形式芸術からみる課題曲マーチ論
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規
たった十七音の中に、風景と行為と響きが封じ込められている。
この俳句を読んだとき、私は「なんでもないことが、なぜこんなに美しく感じられるのだろう」と不思議に思う。柿を食べただけのこと、法隆寺の鐘が鳴っただけのこと。なのに、なぜか胸の奥が静かに揺れる。
いま、私はこの句の構造に、課題曲マーチと共通する詩のかたちを感じている。
正直語り尽くされているだろうが、自分の意見の整理として書いておく。
「どれも同じに聴こえる」
「課題曲マーチ」というジャンルがある。吹奏楽コンクールで演奏される課題曲の中でも、とくに「マーチ」と呼ばれる形式の作品群だ。
課題曲マーチは、似たような形式や雰囲気を持ち、教育的な配慮も求められる。そのため、「芸術性に欠ける」「音楽として面白くない」といった批判にさらされることもある。
正直なところ、私も昔は少し似たような感覚を持っていた。コンクールではB編成での参加が多く、課題曲そのものと縁が薄かったこともある。
特に積極的に課題曲を聴こうとは思っていなかった。もちろん毛嫌いしていたわけではないし、「K点を越えて」のように口ずさみたくなるほど好きな曲もあったけれど、自分から進んで課題曲マーチを探すことはなかった。
そんな私が課題曲マーチの面白さに気づくきっかけになったことが、大きく分けて3つある。
1つ目は、自分で作曲を始めたことだ。
実際に「作る側」に立ってみると、音の一つひとつにどれほど多くの意図や工夫が込められているかを思い知らされた。
旋律や和声の選び方、フレーズの収め方、展開のタイミング──すべてが、意識的または無意識の判断に支えられている。
そして自分が作曲するときにも、知らず知らずのうちに「差異」をつくろうとしていた。
「このコード進行はよくあるから、ちょっと転調してみよう」
「ここはシンコペーションで意表を突いてみよう」
──そんなふうに、どこかで既存のものとは違う表現を模索していた。
決して実験的な音楽を書いているわけではない。むしろ、吹奏楽オリジナルというある種の作法の中で作っているという自覚もある。でもその中でも、「型の中でどう違いを生むか」は、私にとって大切な創作の軸になっていた。
2つ目は、作曲家の近藤悠介さんと親しくなったことだ。
以前、モンスターハンターの曲を演奏する機会があり、私と近藤さんでそれぞれ一曲ずつ編曲を担当した。そのとき、彼の譜面の完成度に驚かされた。そこから彼に興味を持ち、課題曲マーチ「エイプリル・リーフ」を聴いてみた。すると、課題曲マーチらしからぬ色彩感のある響きに触れ、大きな感動を覚えた。
──ただし、ここで言う「課題曲マーチらしからぬ」という言葉は、当時の私がこのジャンルを深く理解していなかったことによる評価である。
3つ目は、吹奏楽の強豪校で副顧問として働いたことだ。
こうした学校では、課題曲に本気で取り組み、短い期間で素晴らしい演奏に仕上げていく。それを間近で見て、聴いたことは、私の考えを大きく変える体験になった。「勝つための音楽」であっても、そこに本気の表現と工夫があることを、目と耳で知ることができたからだ。
定型の中にある詩
課題曲マーチのような「定型芸術」には、はっきりとした構造がある。
構成や拍の流れは明瞭で、展開も整っている。
旋律や和声にも、いわゆる「課題曲らしさ」が前提としてある。
そんな構造を耳にしたとき、私が思い浮かべるのは、俳句や短歌の定型詩だ。
俳句は五・七・五、短歌は五・七・五・七・七。
限られた文字数の中で、どれだけ豊かな世界を描けるかを競う芸術である。
たとえば俳句では、すべてを語ることはできない。風景も感情も背景も──たった十七音では描ききれないからこそ、「どこを語り、どこを語らないか」がすべてを決める。そして、その「語られなかった部分」こそが、読む人の想像力を呼び起こす。
課題曲マーチは、それとは少し違う。マーチは、むしろ「語るべきことをきちんと語る」音楽だ。旋律は明確に提示され、構成はしっかり整えられ、展開もわかりやすく進んでいく。
それでも私は、そこに「詩」を感じる瞬間がある。
俳句や短歌が「語らなさ」の中に詩を宿すとすれば、マーチは「語りきったその先」に詩がにじむ。構成が整い、旋律や和声も無理なく流れていく中で、「なぜここでこの和音?」「なぜこんな雰囲気に?」と感じるような、小さな選択の数々。
それらは、はっきりした感情や物語として語られるわけではない。だけど、音楽が語り終わったあと、ふと聴き手の中で何かが響き始める──そんな感覚がある。
俳句が「十七音の沈黙」に詩を託すなら、課題曲マーチは「3分ちょっとの整った語り」の中に、ごく自然なかたちで「余白」を生む。そしてその余白こそが、詩のはじまりなのだ。
マーチには、そうした「染み出し」がある。
むしろ、形式がきっちり整っているからこそ、その裏側ににじむ祈りや想いが、そっと立ち上がってくる。
定型とは、表現を縛る鎖ではなく、表現を描くためのキャンバスなのだと思う。
型に従いながらも、そこに詩が生まれる──俳句も、短歌も、そして課題曲マーチも、そんな「定型の中に宿る詩の系譜」に連なっているように、私は感じている。
ギリシア悲劇と「型を知る快楽」──物語が語られるとき、私たちはすでに知っている
古代ギリシアの悲劇は、観客があらすじをすでに知っている物語だった。
登場人物の運命も、結末も、あらかじめ共有されていた。
それでも人々は劇場に足を運び、「知っているはずの物語」に涙したという。
ここには、定型芸術ならではの「型を知っているからこそ味わえる快楽」がある。結末がわかっているからこそ、「どう語られるか」が大切になる。観客は「何が起こるか」ではなく、「それがどう起こるのか」を見届けるのだ。
たとえば、ソフォクレスの『オイディプス王』
観客は、主人公が父を殺し、母と結ばれてしまうという運命を最初から知っている。けれど、その事実がオイディプス自身に「どのように明かされるのか」、舞台の中で「どのように語られていくのか」によって、物語は深い感動をもって迫ってくる。
これは、課題曲マーチを聴く体験にも通じている。
聴き手は、いわゆる「課題曲マーチっぽい構成」をすでに知っている。だからこそ、それを作曲家がどう展開し、どこで少しだけ逸れ、どのように着地させるか──その語り口の違いによって、音楽の意味が立ち上がってくる。
アリストテレスは『詩学』の中で、「優れた悲劇は予想外の転換(ペリペテイア)を含んでいる」と述べている。まさにそれだと思う。
形式とは、創造を押さえつけるものではない。
それは、創造のかたちを与えるものだ。観客や聴衆は、あらかじめ定められた枠の中にある間やずらし、抑制を感じ取ることで、こう思うのだろう
──「結末はわかっていたはずなのに、なぜか涙が出る」と。
ギリシア悲劇も、課題曲マーチも、型を知っている者にしか見えない「微かな違いの光」を宿している。
だからこそ、それらは一見すると似たような作品に思えても、決して同じではない。
「違いが見えにくい」からこそ、そこにこそ創造が静かに響いているのだ。
コンクールは勝つための音楽だ──形式と葛藤する音楽の可能性
課題曲マーチには、よくこんな批判がある。
どれも同じような曲に聞こえる
個性がない
予定調和
勝つために整えられている
とくに、吹奏楽コンクールという“競う場”の中では、「音楽としての表現」よりも「演奏効果」や「審査基準への適合」が優先されているように見える。そうした構造が、芸術性を損ねているのではないかという指摘だ。
このような見方は、20世紀ドイツの哲学者テオドール・アドルノが展開した「文化産業論」と重なる部分がある。
アドルノは、映画やポピュラー音楽のような大衆文化に対して、「本質的には同じようなものが大量生産されており、ほんの少しずつ“違うように見せかけて”売られている」と批判した。それによって、人びとは「選んでいるつもり」になるが、実際には中身はあまり変わらないものを消費させられている。
彼はこの構造を「擬似個性化」と呼び、
「本当の自由や創造は失われている」と警鐘を鳴らした。
たしかに、課題曲マーチもある程度の型があり、「教育的であること」「審査しやすいこと」が前提とされる。そのため、あまりに奇抜な表現や極端な個性は出しにくい。形式もある程度決まっている。
でも、だからといって、すべてがアドルノの言う「擬似個性」なのだろうか?私はそうは思わない。
アドルノ自身、形式に従った芸術を一律に否定していたわけではない。
むしろ、彼が評価したベートーヴェンやシェーンベルクといった作曲家たちは、厳しい構造の中で葛藤し、形式そのものと向き合いながら、そこに自分の意志を宿らせていった人たちだった。
重要なのは、「形式に従っているか」ではなく、「形式とどう関わっているか」だ。
課題曲マーチの作曲家たちもまた、与えられた条件の中で、「どこを動かせば、より良い音楽になるか」を真剣に考えている。
たとえその目標が朝日作曲賞での入選だったとしても、その中には確かな創意がある。
そこには、素材と形式の対話がある。制度に従いながら、制度の内側から問いかけていくようなつくり方がある。
それは、アドルノが語った「否定性」──形式にあらがうことで生まれる真の創造性──にも通じるものだと思う。
つまり、課題曲マーチの中にも、ただ型に従うだけではない、形式と静かに格闘するような音楽がある。その音を感じ取れたとき、私たちは「似ているけれど、決して同じではない」音楽と出会うことができる。
芸術とは、音楽とは、作家と聴衆との対話である
芸術とは、一方的に届けられるものではない。
そこにはいつも、「受け取る側」がいる。
音楽は、鳴らされた瞬間に終わるのではない。
誰かがそれを聴き、意味を感じ、心を動かすことで、初めて作品になる。
私にとっての「課題曲マーチの再発見」は、まさにそのことを教えてくれた体験だった。
「課題曲なんて、どれも同じ感じじゃないか」「音楽的につまらない」という批判には、首肯はしかねるもののある程度の論理はあるとは思ったこともある。
でも今になって思う。
その言葉は、まるでこう言っているようなものだった。
「柿食って、鐘が鳴っただけ? それが何だっていうの?」
正岡子規のあの俳句に、何も感じ取れないとしたら──それは作品単体の問題ではなく、きっと読む側の知識や感受性がまだそこに届いていないだけだ。
似ているように見える形式の中にこそ、表現は息をひそめている。
それを感じ取るには、「型」を知っている耳が必要だし、少しの変化に敏感になる感受性が育っていなければならない。
それがないうちは、昨今の課題点マーチが「同じようでつまらない音楽」に聴こえても無理はない。
けれど、そうと言ってしまう人には、もしかしたらこう問い返してもいいのかもしれない。
「それ、本当に「つまらない音楽」なんですか? それとも、「違い」を聴き取る準備がまだできてないだけじゃないですか?」と。
芸術は、双方向の行為だ。
たとえそれが一方通行のように見えても、音はいつも、「わかってくれる誰か」に語りかけている。
受け手が耳を傾けた瞬間に、芸術は初めて起動する。
課題曲マーチという形式も、ただ整えられた音楽ではない。
そこには「伝えようとした形」があり、「感じ取ってくれるかもしれない誰か」に向けた小さなサインがある。
作り手がすべてを語らなくても、聴き手がそれに応答することで、意味は生まれる。そしてその応答の中にこそ、芸術の本質がある。
おわりに──私が課題曲マーチを聴き直す理由
私はようやく、ほんの少しだけ、その対話に加われるようになった気がしています。
きっと音楽は、ずっと前から私に何かを語りかけていたのだと思います。
それに気づけなかったことが、今ではただただ恥ずかしく思えます。
もし、かつての私と同じように課題曲マーチを「どれも同じ」「退屈だ」と感じていた方がいらっしゃれば、これを読んだうえでぜひもう一度、耳を傾けてみてください。
「いつもの形式」の中に、思いがけない詩のきらめきが、そっと隠れているかもしれません。
その音楽が、あなたにだけ語りかけてくる言葉が、きっとあるはずです。
ちなみに今回の話は「課題曲マーチ」だけでなくいわゆる一般的な「吹奏楽オリジナル曲」にもそのまま適用できる話かと思います。
【余談】
今年度の朝日作曲賞に応募しました。1次審査くらいは通るといいなあと思いつつ、まぁおそらく落選なので、また収録したいですね。
近藤悠介さんのエイプリル・リーフ
私も作曲してます
去年度の収録作品↓
今年も試演会・収録会やりますのでぜひ
新曲試演会(関西)
【日時】 2025年5月17日(土)9:00〜17:00
【会場】 キセラ川西プラザ キセラホール(兵庫県)
【曲】
吹奏楽のための交響詩「石垣の夢、天守の輝き」
モンスターハンターポータブル3rdより ユクモ村&ジンオウガ
奏者募集中! 応募はこちら↓
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