【阪神90周年企画】「タイガースばあさん」に届いた戦地からのはがき

[ 2025年7月26日 05:15 ]

「タイガースばあさん」と呼ばれた田野ゑいさん(中)と話す阪神・金田正泰選手。中央の少年は元オリックス・スカウト部長の堀井和人さん。右端は祖父・堀井清太郎さん。昭和30年ごろ、大阪球場にて=堀井さん提供=
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 昔、甲子園に「タイガースばあさん」がいた。阪神球団創設時から甲子園球場に通った熱狂的な女性ファンだった。選手たちにごちそうし、住まいも提供するなどチームを支えた存在だった。このほど、出征した選手が戦地から「ばあさん」宛てに送ったはがきも見つかった。球団創設90周年、戦後80年の節目に、その人物像に迫ってみた。 (編集委員・内田 雅也)

 「タイガースばあさん」は名を田野ゑい(エイ)といった。甲子園球場から徒歩5分ほど、甲子園九番町に暮らす女性だった。

 球団創設初年度1936(昭和11)年で57歳。当時なら「ばあさん」と呼ばれる年代だろう。同年6月、初の朝鮮遠征に旅立つ前、球団会長・松方正雄主催の壮行会が甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で開かれた。<とくに熱心な数名のファンも招待された。この中にタイガースばあさんもいた>と初代主将、後に監督も務めた松木謙治郎が著書『タイガースの生いたち』(恒文社)に記している。

 後の40年7月の満州遠征壮行会(甲子園ホテル)にも参加し、満州まで同行した。恐らく阪神間の知名士を招いた36年3月25日の球団結成披露宴(同)にも出席していたろう。

 「ばあさん」は財産家で、タイガースの選手たちの面倒をよくみていた。球団の有力な後援者、いわゆるタニマチ的な存在だった。

 若林忠志、藤村富美男ら選手を自宅に呼んで、すき焼きを振る舞った。自宅近くに4軒の借家を建て、門前真佐人、堀尾文人(ジミー堀尾)ら選手を住まわせた。ハワイ・マウイ島出身の日系2世だった堀尾は若林の仲介で阪神入り。妻アイリーンがいたため、2階家を用意した。

 後に宝塚に転居。同じく宝塚・売布で暮らす球団会長・松方と交流が深まった。甲子園球場から<帰途は松方夫妻と同伴して帰って行くこともあった>と松木が記している。

 「ばあさん」の孫・浜子が戦後、南海(現ソフトバンク)外野手で中軸を打った堀井数男と結婚。以後は「南海ばあさん」となって大阪球場に足しげく通うようになった。

 堀井夫妻の息子が南海外野手で引退後は南海・ダイエー、近鉄・オリックスで長年スカウト幹部を務めた和人(77)である。

 2020年、94歳で他界した浜子から生前、祖母の思い出話を聞いていた。もともと相撲や歌舞伎が好きだったが、30(昭和5)年ごろから野球ファンになった。「職業(プロ)野球ができ、いっそう好きになりました。『野球ほどおもしろいものはない』と甲子園に連日通うようになって。大雨でも『中止かどうか確かめてくる』と向かいました」

 「ばあさん」が野球にのめり込む要因となった一戦がある。33(昭和8)年夏の全国中等学校優勝野球(今の高校野球選手権)大会準決勝、地元兵庫代表の明石中(現明石高)と中京商(現中京大中京高)による延長25回の激闘だ。0―1で敗れた明石中の全選手を自宅に招き、すき焼きで健闘をたたえた。

 メンバーで「世紀の剛球投手」楠本保や25回を投げた中田武雄が慶大に進むと、東京六大学野球を観るため春秋と神宮まで通った。知人の影響で法大ファンとなった。鶴岡一人(後の南海監督)に「ツルちゃん、しっかり~」と声を飛ばした。

 その法大に先の明石中三塁手だった松下繁二がいて特にかわいがった。松下は法大卒業後の41(昭和16)年、阪神入りする。松木は先の書で<入団はタイガースばあさんの推薦>と書いている。

 同年、新人ながら63試合に出場した。12月8日には日米開戦。松下は召集を受けた。

 そして戦死した。出征先も命日(没年月日)も不明のままだが、プロ野球選手の戦死者を弔う「鎮魂の碑」に名前が刻まれている。

 ところが先ごろ「ばあさん」のひ孫にあたる堀井和人が大阪・阿倍野の自宅を整理していると「大変なものが出てきた」と驚いた。

 松下が戦地から「ばあさん」に送った軍事郵便はがき2通だ。1通は娘・勝子宛てだが宛名は「勝」。女所帯で物騒だと男名をかたっていたそうだ。

 発信地は「満州国浜江省阿城」とある。ハルビンに近く、今の中国黒竜江省の南部である。所属は「一二一九部隊松岡隊」だった。

 <おばあちゃん、大変暑くなりましたね>とある。42年夏だろう。達筆だ。<僕が宝塚の家を出たあの日の事を思ひますと、皆さんに御心配をかけた事が今でも申し訳なさで胸一杯です>とある。「ばあさん」一家が松下の壮行会を開いたのだろう。別れのつらさが伝わってくる。<皆さんに対する僕の氣持は絶対不変のものです。今更(いまさら)こんな事を申すと他人の様ですね>。家族同然の付き合いだったことがわかる。

 <浜子ちゃんも此の頃はとても偉くなられた様で喜んで居ります>。浜子は当時16歳前後。「法政の兄ちゃん」と慕っていた。

 野球、そして阪神への愛情もにじみ出る。<好きな野球とも別れて居りますが、此(こ)の頃の阪神軍の調子はよろしいですか。遠い満州の一端から常に阪神軍の優勝を御祈りして居ります>。42年の阪神は若林が兼任監督に昇格、11人が兵役で戦列を離れるなど苦しいシーズンで3位だった。

 <然(しか)し乍(なが)ら隊内でも時々野球をやって居ります。軍隊で鍛錬したその精神でやれば、自分もやがては今迄より一層頑張れると思ひます>。夢見た阪神への復帰もかなわず、大陸で散ったのである。

 はがきを読んだ和人は「涙が出てきた」と言う。「松下選手のご遺族にお見せしたい」と捜すが、まだ見つかっていない。明石中・高同窓会事務局によると、在籍、卒業は確認できたが、遺族の連絡先は不明だという。

 「ばあさん」は戦中戦後を生き抜き、61年2月10日、老衰のため83歳で永眠した。晩年は球場通いがかなわず、テレビでの観戦を楽しんでいたそうだ。

 阪神90周年、戦後80年。「ばあさん」の情熱と功績をたたえる夏である。 =敬称略=

 ≪巨人・沢村栄治とも親交≫
 「タイガースばあさん」は巨人・沢村栄治とも親交があった。44年1月、巨人から解雇通告を受け、妻の実家のある関西で過ごした。3度目の召集を受けた後、故郷の三重・宇治山田(現伊勢市)から大量の伊勢エビを手に訪ねてきた。

 「おばあちゃん、またいくことになった。今度は生きて帰れないと思う。これが最後だ」「栄ちゃん、死ぬなんて言うたらあかん。生きて帰っておいで」

 涙で別れを惜しんだ光景を浜子は忘れられないと話していた。同年12月2日、台湾沖で乗った輸送船が撃沈され不帰の人となった。

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