5月7日(木)出雲大社の見学を終えた私たちは、出雲大社の正門から300m位の所にある、島根県立古代出雲歴史博物館を訪れた。
やはり、出雲の歴史・高層神殿「雲太」や、かつてこの地方の主要産業であった「たたら製鉄」のことをもっと知りたいと思ってやってきた。

島根県立古代出雲歴史博物館
島根県立古代出雲歴史博物館 (http://www.izm.ed.jp/)
開 館 時 間 9:00~18:00(11月~2月は9:00~17:00)
料 金(一般) 600円
〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東99番地4
Phone: (0853)53-8600 Facsimile: (0853)53-5350
※関連する展示写真や文章は博物館HPより引用。

古代出雲歴史博物館の入り口
真新しい、近代的な博物館で、受付で600円と展示コーナー毎にガイドをしてくれるイヤホン代 500円を支払って入場する。
広々とした館内には、古代から近代まで出雲にまつわる歴史や文化、当時の施設や物が、模型や絵図、写真などを使って分かりやすく展示してある。
考古学や歴史の専門の方々、一般、学生それに海外などの、幅広い分野で興味のある方が訪れているようである。
私たちは時間の関係もあって、興味のあるものを中心に見学する。
それにしてもおびただしい程の資料が展示され、内容的にも奥行きが深く、一級の博物館であることがわかってくる。
今回は主だったものを博物館内の資料から紹介さしていただきます。

出雲大社の創建や編纂された書物として日本書紀と共に紹介されている「古事記」
※古事記=現存する日本最古の歴史書、3巻からなり712年に成立。
稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗記したものを元明天皇が太安麻侶(おおのやすまろ)に命じて記録されたもの、天地の始まりから推古天皇までの天皇の系図や古い伝説・歌謡などによって天皇制の成立が語らている。
※日本書紀=奈良時代に出来た我が国最古の勅撰の正史、神代から持統天皇までの漢文の歴史書、天武天皇の時から編纂が行われ、720年(養老4年)舎人(とねり)親王が完成さしている。
ここでの古事記については、以下のように説明されている。
「出雲大社の創建やその壮大な姿は、『古事記』『日本書紀』などの8世紀に編纂された書物の神話に詳しくみえます。
国譲り神話がその代表です。
すなわち、「大国主神が治めてきた葦原中津国(あしはらのなかつくに)を…」 と紹介されています。

出雲国大社之図(江戸時代)
出雲大社に集まった神様たちが、木の札にそれぞれ男女の名前を書き、相談してカップルを決めたあと、男女の札を結びつけて「縁結び」をしているところです。
このようにして縁が結ばれると考えられていたのでしょうか。
人数が多くて神様も大変です。

朝酌(あさくみ)の渡し場と市の一画の復元模型(平安時代)
『出雲国風土記』には、当時の人々の暮らしが描かれています。
ここでは、島根郡朝酌郷(しまねのこおりあさくみのさと)の朝酌促戸(あさくみのせと)を舞台に、出雲国内のさまざまな人々の生業、暮らしをと等寸大で復元されています。

須恵器窯と作業復元模型 (平安時代)
この模型は今から約1300年前の須恵器造りの様子を再現したものです。
時代は奈良時代にさかのぼります。
現在の松江市東部に位置する朝酌郷(あさくみのさと)大井地区では、古墳時代 から平安時代まで約400年間続いています。

ロビーに展示してある巨大な柱 高さ48mの古代神殿を支えていた宇豆柱(うずばしら)
出雲びとの大きな心のより所となってきた出雲大社。
この出雲大社境内から平成12年に発見された、「宇豆柱(うづばしら)」が展示されています。
平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。
これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古代神殿がここに建てられていた事を実証しています。

平成12年に境内遺跡などから想像されて造られた出雲大社本殿復元模型(鎌倉時代)
これは平成12年に出雲大社境内遺跡から、突然姿を現した鎌倉時代前半、13世紀の本殿建築にともなうものです。
それでは、この巨大柱は一体どのような建造物であったか幾つかの想像模型が各々の研究者によって発表されています。

出雲高層神殿「雲太」の完成想像模型 当時の出雲大社境内模型
10世紀に、「雲太」ともよばれる高さ16丈(約48m)という日本一高大な本殿があったという学説に基づく模型です。
中心の柱(心御柱)の直径は約3.6m、階段の長さは約109m。
当時の境内は、戦国大名「尼子経久」造営の三重塔(兵庫県名草神社に現存)や鐘楼をはじめとする堂宇がたちならび、仏教色の濃い景観となっている。
本殿は出組を用い、南側の妻に雲龍の彫り物がはめ込まれていた。
柱は板で柱を厚く包む矧柱で、外面は黒く塗られ、内側は朱で彩色されている。 また、現在の本殿にみられる礎石や床下の羽目板、階隠などはこの時の造営から採用されている。
高さは6丈5尺4寸(約20m)に縮小されていたが、この時期にも独自の建築様式(大社造)や建築の巨大性は保持されていた。

弥生時代の青銅器の一つである「銅鐸」 三角縁神獣鏡(古墳時代)[出土・採集地] 雲南市 神原神社古墳
三角縁神獣(重要文化財)
神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されている。
邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、全国でわずかに二例が知られるのみである。

大社縁結図(江戸時代)
旧暦10月、全国の神々が出雲に集まると伝承され、それ故に、この月は神無月と呼ばれます。
逆に、神々が集まる出雲では、この月を神在月(かみありつき)と呼ばれています。

芳年武者無類 天秤ふいご体験模型(明治時代)
芳年武者無類は、『日本書紀』によれば、垂仁7年7月7日、大和の當麻蹴速と出雲の野見宿祢が天皇の御前で「すまひ」を取ったとされます。これが、一般に相撲の起源の一つとされています。
天秤ふいご体験模型
模型のモデルは、明治時代に操業されていた島根県江津市価谷たたらの天秤ふいご。
この分野で優れた功績のあった冶金学者の俵国一博士が残した詳細な図面をもとに再現した。
頻繁な使用を考慮して、駆動部分などごく一部に現代の部品を取り入れたところもあるが、基本はこの記録を忠実に再現したものである。
梯子を上り踏み台を踏むと、前方に取り付けた装置の炎が舞い上がる。
壁面にはたたら操業時の写真パネルが貼ってあり、燃えさかる炉の炎を見ながら、送風作業が疑似体験できる。
天秤ふいごの従事者は「番子(ばんこ)」といわれ、その作業は大変な重労働であったとされる。
交代交代で仕事を進めることを「代わり番こ」というが、この言葉はたたら操業の番子が起こりとも言われている。
(参考)
たたら製鉄は砂鉄と木炭を混ぜながら土で造った炉の中で鉄をつくる日本古来の製鉄技術。
江戸時代に最も盛んとなり、最盛期には島根県は全国の生産量の半分以上を占めたとされている。
天秤ふいごは炉への送風装置であり、17世紀の終わり頃に発明されて、鉄の生産量を飛躍的に高めた画期的な装置であった。

たたら製鉄炉の変遷模型
たたらでは砂鉄を溶かして鉄を作りますが、地下に湿気があると製鉄炉の温度をあげることができません。
製鉄炉は古代から中世、近世にかけて拡大しますが、炉が大きくなるほど地下の湿気を防ぐ仕掛けも大規模なものが必要となります。
古代の地下構造は、炉の下を浅く掘って木炭を敷くといった簡単なものですが、中世以降は次第に複雑で大規模な地下構造へと発展していきます。
たたら製鉄進化の秘密は、地下の隠された部分にあるといえるでしょう。
やはり出雲の歴史は深く、接すれば接する程、歴史の深さを感じる。
高層神殿「雲太」も発掘されてからの年月も浅く、今後の研究が進めば、色々と明らかな面も出てくると思われ楽しみである。
たたら製鉄はもっと知りたいと思ったが、今回はそれが出来なくて残念であるが、次回にたたらに関係する専門の施設を訪れたいと思う。
島根県立古代出雲歴史博物館の見学を、一時間程度で終えた私たちは、愛車をとめている道の駅「大社ご縁広場」に戻り、近くにあるJR旧大社駅に向かった。
大社駅は出雲大社参拝客の輸送の為に造られた駅である。
かつては「お召し列車」の送迎、急行いずも号(大社~東京)などの直通運転をはじめ、戦後の最盛期には、年間の団体臨時列車は280本を数えたといわれている。
しかし、戦後の復興と共に、参拝客の多くがバスを利用するようになり、乗降客が激減し、78年の歴史を閉じたのである。

神社様式を取り入れた格調ある純日本風のJR旧大社駅
大社駅の開業は明治45年6月で、この駅舎は大正13年に改築されたものである。
宮殿風つくりのこの駅舎は、全国でも珍しい神社様式を取り入れた格調のある木造建築である。 平成16年には国の重要文化財に指定されている。
この大社駅は、平成2年3月一杯のJR大社線の廃止と共に駅としての使命を終える。
しかし、建築のすばらしさと、長い間 町民と共に生きてきたこの駅舎の姿を残し、町民のために、また、この町を訪れるすべての人のためにに往時をのまま保存、活用している。

平成16年国の重要文化財に指定された「JR旧大社駅」

天井高く広々とした和風建築の大社駅構内、時刻表、運賃表も当時のままである。

木造建築の細かい細工が、出雲大社参拝のイメージを壊さないように造られた大社駅構内

雑草が無ければ現役の駅のように感じる大社駅プラットホーム

山陰線開通以来走り続けたD51形蒸気機関車、その姿を後世に残すために最後に走ったD51型774号機が駅に保存されている。
この機関車は日本を代表するD51形蒸気機関車で「デコイチ」の愛称で呼ばれていた。
我が国の機関車発展史上ぼ最盛期にふさわしく、昭和11年に1号機が生まれた。
以来輸送量の増加に対応するために、昭和21年までに1115両が製造された。
しかし、雨の日も風の日も一日も休むことなく、力強く走り続けた蒸気機関車も昭和49年11月を最後に姿を消すこととなった。
そして、最後に走ったのがこの機関車である。

ホームに保存されているD51型蒸気機関車 賑やかだった当時を偲ばす大社駅前の風景
当時を偲ばす歴史ある旧大社駅社や、D51型蒸気機関車の見学を終えた後、私たちは次の訪問地で、出雲大社西北に位置する日御碕方面に向かって行った。
やはり、出雲の歴史・高層神殿「雲太」や、かつてこの地方の主要産業であった「たたら製鉄」のことをもっと知りたいと思ってやってきた。
島根県立古代出雲歴史博物館
島根県立古代出雲歴史博物館 (http://www.izm.ed.jp/)
開 館 時 間 9:00~18:00(11月~2月は9:00~17:00)
料 金(一般) 600円
〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東99番地4
Phone: (0853)53-8600 Facsimile: (0853)53-5350
※関連する展示写真や文章は博物館HPより引用。
古代出雲歴史博物館の入り口
真新しい、近代的な博物館で、受付で600円と展示コーナー毎にガイドをしてくれるイヤホン代 500円を支払って入場する。
広々とした館内には、古代から近代まで出雲にまつわる歴史や文化、当時の施設や物が、模型や絵図、写真などを使って分かりやすく展示してある。
考古学や歴史の専門の方々、一般、学生それに海外などの、幅広い分野で興味のある方が訪れているようである。
私たちは時間の関係もあって、興味のあるものを中心に見学する。
それにしてもおびただしい程の資料が展示され、内容的にも奥行きが深く、一級の博物館であることがわかってくる。
今回は主だったものを博物館内の資料から紹介さしていただきます。
出雲大社の創建や編纂された書物として日本書紀と共に紹介されている「古事記」
※古事記=現存する日本最古の歴史書、3巻からなり712年に成立。
稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗記したものを元明天皇が太安麻侶(おおのやすまろ)に命じて記録されたもの、天地の始まりから推古天皇までの天皇の系図や古い伝説・歌謡などによって天皇制の成立が語らている。
※日本書紀=奈良時代に出来た我が国最古の勅撰の正史、神代から持統天皇までの漢文の歴史書、天武天皇の時から編纂が行われ、720年(養老4年)舎人(とねり)親王が完成さしている。
ここでの古事記については、以下のように説明されている。
「出雲大社の創建やその壮大な姿は、『古事記』『日本書紀』などの8世紀に編纂された書物の神話に詳しくみえます。
国譲り神話がその代表です。
すなわち、「大国主神が治めてきた葦原中津国(あしはらのなかつくに)を…」 と紹介されています。
出雲国大社之図(江戸時代)
出雲大社に集まった神様たちが、木の札にそれぞれ男女の名前を書き、相談してカップルを決めたあと、男女の札を結びつけて「縁結び」をしているところです。
このようにして縁が結ばれると考えられていたのでしょうか。
人数が多くて神様も大変です。
朝酌(あさくみ)の渡し場と市の一画の復元模型(平安時代)
『出雲国風土記』には、当時の人々の暮らしが描かれています。
ここでは、島根郡朝酌郷(しまねのこおりあさくみのさと)の朝酌促戸(あさくみのせと)を舞台に、出雲国内のさまざまな人々の生業、暮らしをと等寸大で復元されています。
須恵器窯と作業復元模型 (平安時代)
この模型は今から約1300年前の須恵器造りの様子を再現したものです。
時代は奈良時代にさかのぼります。
現在の松江市東部に位置する朝酌郷(あさくみのさと)大井地区では、古墳時代 から平安時代まで約400年間続いています。
ロビーに展示してある巨大な柱 高さ48mの古代神殿を支えていた宇豆柱(うずばしら)
出雲びとの大きな心のより所となってきた出雲大社。
この出雲大社境内から平成12年に発見された、「宇豆柱(うづばしら)」が展示されています。
平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。
これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古代神殿がここに建てられていた事を実証しています。
平成12年に境内遺跡などから想像されて造られた出雲大社本殿復元模型(鎌倉時代)
これは平成12年に出雲大社境内遺跡から、突然姿を現した鎌倉時代前半、13世紀の本殿建築にともなうものです。
それでは、この巨大柱は一体どのような建造物であったか幾つかの想像模型が各々の研究者によって発表されています。
出雲高層神殿「雲太」の完成想像模型 当時の出雲大社境内模型
10世紀に、「雲太」ともよばれる高さ16丈(約48m)という日本一高大な本殿があったという学説に基づく模型です。
中心の柱(心御柱)の直径は約3.6m、階段の長さは約109m。
当時の境内は、戦国大名「尼子経久」造営の三重塔(兵庫県名草神社に現存)や鐘楼をはじめとする堂宇がたちならび、仏教色の濃い景観となっている。
本殿は出組を用い、南側の妻に雲龍の彫り物がはめ込まれていた。
柱は板で柱を厚く包む矧柱で、外面は黒く塗られ、内側は朱で彩色されている。 また、現在の本殿にみられる礎石や床下の羽目板、階隠などはこの時の造営から採用されている。
高さは6丈5尺4寸(約20m)に縮小されていたが、この時期にも独自の建築様式(大社造)や建築の巨大性は保持されていた。
弥生時代の青銅器の一つである「銅鐸」 三角縁神獣鏡(古墳時代)[出土・採集地] 雲南市 神原神社古墳
三角縁神獣(重要文化財)
神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されている。
邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、全国でわずかに二例が知られるのみである。
大社縁結図(江戸時代)
旧暦10月、全国の神々が出雲に集まると伝承され、それ故に、この月は神無月と呼ばれます。
逆に、神々が集まる出雲では、この月を神在月(かみありつき)と呼ばれています。
芳年武者無類 天秤ふいご体験模型(明治時代)
芳年武者無類は、『日本書紀』によれば、垂仁7年7月7日、大和の當麻蹴速と出雲の野見宿祢が天皇の御前で「すまひ」を取ったとされます。これが、一般に相撲の起源の一つとされています。
天秤ふいご体験模型
模型のモデルは、明治時代に操業されていた島根県江津市価谷たたらの天秤ふいご。
この分野で優れた功績のあった冶金学者の俵国一博士が残した詳細な図面をもとに再現した。
頻繁な使用を考慮して、駆動部分などごく一部に現代の部品を取り入れたところもあるが、基本はこの記録を忠実に再現したものである。
梯子を上り踏み台を踏むと、前方に取り付けた装置の炎が舞い上がる。
壁面にはたたら操業時の写真パネルが貼ってあり、燃えさかる炉の炎を見ながら、送風作業が疑似体験できる。
天秤ふいごの従事者は「番子(ばんこ)」といわれ、その作業は大変な重労働であったとされる。
交代交代で仕事を進めることを「代わり番こ」というが、この言葉はたたら操業の番子が起こりとも言われている。
(参考)
たたら製鉄は砂鉄と木炭を混ぜながら土で造った炉の中で鉄をつくる日本古来の製鉄技術。
江戸時代に最も盛んとなり、最盛期には島根県は全国の生産量の半分以上を占めたとされている。
天秤ふいごは炉への送風装置であり、17世紀の終わり頃に発明されて、鉄の生産量を飛躍的に高めた画期的な装置であった。
たたら製鉄炉の変遷模型
たたらでは砂鉄を溶かして鉄を作りますが、地下に湿気があると製鉄炉の温度をあげることができません。
製鉄炉は古代から中世、近世にかけて拡大しますが、炉が大きくなるほど地下の湿気を防ぐ仕掛けも大規模なものが必要となります。
古代の地下構造は、炉の下を浅く掘って木炭を敷くといった簡単なものですが、中世以降は次第に複雑で大規模な地下構造へと発展していきます。
たたら製鉄進化の秘密は、地下の隠された部分にあるといえるでしょう。
やはり出雲の歴史は深く、接すれば接する程、歴史の深さを感じる。
高層神殿「雲太」も発掘されてからの年月も浅く、今後の研究が進めば、色々と明らかな面も出てくると思われ楽しみである。
たたら製鉄はもっと知りたいと思ったが、今回はそれが出来なくて残念であるが、次回にたたらに関係する専門の施設を訪れたいと思う。
島根県立古代出雲歴史博物館の見学を、一時間程度で終えた私たちは、愛車をとめている道の駅「大社ご縁広場」に戻り、近くにあるJR旧大社駅に向かった。
大社駅は出雲大社参拝客の輸送の為に造られた駅である。
かつては「お召し列車」の送迎、急行いずも号(大社~東京)などの直通運転をはじめ、戦後の最盛期には、年間の団体臨時列車は280本を数えたといわれている。
しかし、戦後の復興と共に、参拝客の多くがバスを利用するようになり、乗降客が激減し、78年の歴史を閉じたのである。
神社様式を取り入れた格調ある純日本風のJR旧大社駅
大社駅の開業は明治45年6月で、この駅舎は大正13年に改築されたものである。
宮殿風つくりのこの駅舎は、全国でも珍しい神社様式を取り入れた格調のある木造建築である。 平成16年には国の重要文化財に指定されている。
この大社駅は、平成2年3月一杯のJR大社線の廃止と共に駅としての使命を終える。
しかし、建築のすばらしさと、長い間 町民と共に生きてきたこの駅舎の姿を残し、町民のために、また、この町を訪れるすべての人のためにに往時をのまま保存、活用している。
平成16年国の重要文化財に指定された「JR旧大社駅」
天井高く広々とした和風建築の大社駅構内、時刻表、運賃表も当時のままである。
木造建築の細かい細工が、出雲大社参拝のイメージを壊さないように造られた大社駅構内
雑草が無ければ現役の駅のように感じる大社駅プラットホーム
山陰線開通以来走り続けたD51形蒸気機関車、その姿を後世に残すために最後に走ったD51型774号機が駅に保存されている。
この機関車は日本を代表するD51形蒸気機関車で「デコイチ」の愛称で呼ばれていた。
我が国の機関車発展史上ぼ最盛期にふさわしく、昭和11年に1号機が生まれた。
以来輸送量の増加に対応するために、昭和21年までに1115両が製造された。
しかし、雨の日も風の日も一日も休むことなく、力強く走り続けた蒸気機関車も昭和49年11月を最後に姿を消すこととなった。
そして、最後に走ったのがこの機関車である。
ホームに保存されているD51型蒸気機関車 賑やかだった当時を偲ばす大社駅前の風景
当時を偲ばす歴史ある旧大社駅社や、D51型蒸気機関車の見学を終えた後、私たちは次の訪問地で、出雲大社西北に位置する日御碕方面に向かって行った。