自ら整備した戦闘機、旅立つ兵士に何も言えず…「神風特攻隊」を見送った整備兵が語る悲劇の記憶
「本当は調理師に」顔忘れられず
整備を担当した中で、特に印象に残る隊員がいた。自分と年齢が近い22歳で、約1メートル80という高身長の美男子だった。 出撃の前日に自己紹介をして、「河津」と名乗った。何かを話したい様子だったので、「何かありますか」と聞いてみると、河津君は「調理が好きなんだ。ゆくゆくは調理師になるのが夢だった。だけどこういう時代だから……」と吐露し、その後は何も言わなかった。 翌日、飛行機から右手を軽く上げて、ニコッと笑いながら出撃した。その優しそうな顔が、今でも忘れられない。
山中を敗走、ぼろぼろの服で投降
特攻のための飛行機すら底をつき、ついに航空隊は陸戦部隊として再編成された。 45年3月26日、米軍がセブ島に上陸した。米軍の迫撃砲に対して、こちらにあるのは旧式の三八式小銃と、軍用機から外した7・7ミリ機関銃が数台だけ。戦力差は歴然だった。迫撃砲を受けた死体と、腐敗して腹が膨らんだ死体に囲まれ、川手さんは「自分もいつ死ぬか分からない」と感じながら戦った。 8月には「終戦になる」という話も聞いたが、山の中を敗走するうちに連絡は途絶えた。戦争終結を知ったのは8月28日。セブ島全域の日本軍に対して大命による終戦が伝えられた。 敗戦は予想していたが、「悔しさと悲しさ、安堵が交錯した複雑な気持ち」で投降した。ぼろぼろの服で、どこから見ても敗残兵という哀れな姿だった。
捕虜にアイスクリーム
捕虜収容所では、アメリカの国力を感じた。食事はバイキング形式で10種類くらいの料理があり、山盛りのアイスクリームまで食後に用意されていた。施設整備などの作業後には、米軍の下士官がコーラをふるまってくれたこともあった。 復員は46年12月18日。到着した名古屋は工業都市だったはずが、工場が一つもない焼け野原と化していて、惨めな気持ちになった。
記憶を整理、涙止まらず
川手さんは長らく、親族などにも戦争の体験を話すことはなかった。100歳を前にした3年前、読売新聞に投書を送って取材を受けることにしたものの、前日に記憶を整理しようと息子に語っていて涙が止まらなくなり、一回、取材を断ったこともある。 それでも3年越しに取材を受けることに決めたのは、世界各地で戦火がやまないためだ。「戦争で残るのは人間の死とがれきの山だけ。いまの若者に、あの悲劇を絶対に体験させてはいけない」。悲惨な記憶を呼び起こしてでも、伝えていかなければならない言葉があると信じている。(牟田口輝)
※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です ※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました