自ら整備した戦闘機、旅立つ兵士に何も言えず…「神風特攻隊」を見送った整備兵が語る悲劇の記憶
「玉砕まで島を守る」若手兵の覚悟
44年3月にパラオ諸島・ペリリュー島(当時は日本の委任統治領)に移動したが、そこでの滞在もわずか3か月ほどで、日本が占領していたフィリピン・セブ島に移ることになった。ペリリューを離れる前日、川手さんは陸軍の若い上等兵に呼び止められた。 「明日、フィリピンに転戦するんですね。海軍の航空隊は米空軍が大量に来るようになると遠くに行ってしまう。どういうことなのか」 島に残る彼らの心境を思うと、川手さんは返答に窮した。「遠くから航空機で戦うのも作戦の一つです」と何とか答えると、陸軍の若い兵士は覚悟を決めた様子でこう言った。「近いうちに敵の上陸があると思う。私たち守備隊はここで最後の玉砕まで守らなければなりません」。死ぬ覚悟を固めている兵士を前に、それ以上何も言えず別れた。 川手さんが去った3か月後の9月15日、ペリリューに米軍が上陸し、日本軍はゲリラ戦で2か月余り抵抗した末に「玉砕」。日本軍の戦死者は約1万人で、生き残ったのは捕虜になった人と、戦後までジャングルで潜伏を続けた34人だった。言葉を交わした上等兵がその後どうなったのか、川手さんは今もあの顔を思い出す。
特攻隊が予想上回る成果
川手さんたちの航空隊は、セブ島に移動した後も、米軍の攻撃によって損害を広げていった。同10月、セブ島の東に位置するレイテ島に迫った米軍に対し、小磯国昭首相(当時)は「天王山」と位置づけ、戦艦大和など海軍の残存するほぼ全戦力を投入。史上最大の海戦とも言われるレイテ沖海戦が幕を開けた。 第201航空隊が編入されていた第1航空艦隊の司令長官に就任した大西滝治郎中将は、「零戦に250キロ爆弾を抱かせて、体当たりをやるほかに確実な攻撃法はない」と言い、特攻隊が編成された。10月25日午前10時45分、最初の「神風特攻隊」は米護衛空母群に突入し、護衛空母セント・ローを撃沈するなど、予想を大きく上回る成果を上げた。
冗談を言っていた搭乗員、寡黙に
これを機に「全軍特攻」が始まった。川手さんも特攻隊のための機体整備が主な仕事になり、20人ほどの特攻隊員を見送った。それまでは冗談を言っていた搭乗員が、特攻隊員になると寡黙になった。「特攻に反対しているのではないか」「弱虫だ」などと言われた人もいたため、余計なことは話さないようにと自然と口数が少なくなっていたのだろう。 特攻隊員と一緒に過ごした時間はわずかで、名前もほとんど思い出せない。それでも、一人ひとりの顔は今でも鮮明に覚えている。年齢の近い青年たちが次々に出撃していくのを、川手さんは「自分の分身が特攻するような気持ち」で見送った。「私にはどうすることもできません。1時間後には死んでいる特攻隊員に、送る言葉なんて出てきませんでした」。帰還することのない彼らのことを思うと、眠れない夜が続いた。