自ら整備した戦闘機、旅立つ兵士に何も言えず…「神風特攻隊」を見送った整備兵が語る悲劇の記憶
1944年10月、東京都国分寺市の川手市郎さん(102歳)は、第201海軍航空隊の整備兵としてフィリピンにいた。大日本帝国海軍が「神風(しんぷう)特別攻撃隊」を創設し、航空機による敵艦への体当たり攻撃を始めた時期。川手さんは自分が整備した戦闘機で特攻に飛び立つ兵士を何人も見送った。「1時間後には死んでいるだろう隊員に、送る言葉なんて出てこなかった」。特攻する飛行機が底をついてからは陸上部隊に加えられた。圧倒的な戦力差を前に敗走し、隠れ潜んだ山の中で終戦を伝えられたとき、感じたのは悔しさと安堵だった。 特攻機による攻撃を受ける米空母(米海軍所蔵)=1944年10月25日
「軍に入るなら1年でも早く」
1941年12月8日の真珠湾攻撃で日本とアメリカの戦争が始まると、川手さんの周囲でも年上の若者たちが次々に軍に召集されていった。「どうせ軍に入ることになるなら、1年でも早く志願したほうが下士官にも早くなれる」。そう考えた川手さんは42年5月、19歳で横須賀第2海兵団へ入隊した。 約1年半の厳しい教育課程を受けた後、第201航空隊に整備兵として配属され、43年12月にニューブリテン島・ラバウル(現在のパプアニューギニア)に着任した。ラバウルは前年1月に日本が占領し、陸海軍の大軍を配置して要塞(ようさい)化していたが、43年以降は連合国軍に補給線を断たれて孤立していた。防衛に当たっていた第201航空隊も、川手さんが着任したときにはすでに撤退が決まっていた。44年1月、戦争を続けるために不可欠な防衛エリア「絶対国防圏」の一角であるサイパン島(当時は日本の委任統治領)へと移動した。サイパン島陥落の半年ほど前のことだった。
サイパンで食べた甘いバナナ
川手さんはサイパン島で外出許可を得て、日本人移民によって「南洋の東京」と呼ばれるほど発展したガラパンなどの街を訪れた。 穏やかな気候に恵まれ、甘いバナナを食べた。「こんないいところはない」と思っていたが、次第に激しい空襲を受けるようになった。飛来する米軍機の多さに、川手さんは「アメリカが本腰を入れてきた」と危機感を募らせた。度重なる攻撃を受け、航空隊の機体は次々に撃ち落とされていった。