この映画「学校行ったことなかったの」に全てを賭けすぎだろ【チェンソーマン レゼ篇】
タイトルの話だけしたくてnote開いてますしその話したらさっさと帰りますね。
イントロ:原作読んだ時はJANE DOEが見えなかった
チェンソーマン第1部は連載リアタイで追いかけてレゼ篇もジャンプで読んだんですよ。レゼ篇はデンジの初恋物語として当時から好きで「これ映画になったら面白いだろうなぁ」と思ってました。特にパワー(日常)の離脱と入れ替わりでレゼ(非日常)が現れてラストにパワーが戻って日常が戻る構成が完璧で、Cパートでパワーが戻るとこやってくれねぇかな~って。本当にやってくれた、すごい。
そんな原作勢なんですけど、レゼの中にJANE DOEがいるなんて微塵も思ったことなかった。「レゼ」は「レゼ」としか見ていなくて、「レゼ」の奥に誰かがいるなんて、この映画で初めて気づいたんですよ。「あ、言われてみれば原作からいたわ」「ちゃんと名も無い子供が育てられてるって岸辺隊長が言ってたわ」「なんで気づかなかったんだろ」って。もう本当に思いつきもしなかった。なんならこの時点で、観る前からこの映画に負けてた気がする。
前説:「学校行ったことなかったの」→エンディング→スタッフロールのコンボが強すぎる
じゃあ原作読んどきながらJANE DOEの存在を思いつきもしなかったマヌケがじゃあなんで気づけたかって言うと、
「デンジ君 ホントはね 私も学校行ったことなかったの」
「あ、レゼじゃないわ」と脳が直で気づきました。理屈ではなく大袈裟でもなく「ここだけ別の方が演じてるんだな」ぐらいには思った。もちろんレゼはずっと上田麗奈さんなんですけど。
比喩表現なく、私の中に“レゼじゃない誰か”が生まれた瞬間でした。声優さんってすごいですね。今まで思っていた「声優さんってすごいですね」はなんだったんだ? 腐っていたのか?
「まるでこの世界で二人だけみたいだね」
「なんて少しだけ夢を見てしまっただけ」
からのエンディング歌いだし。一瞬で劇場を埋め尽くす芳醇な米の香り。やめろ米津ー!!!!! いま私の中に生まれた“レゼじゃない誰か”をすぐに言語化するなー!!!!!
「ジェーンは教会で眠った」
流れるスタッフロール。
飛び込む文字列。
“死”を予感する。
「JANE DOE」
やめろ米津ー!!!!!!!!!
いま私の中に生まれたばかりの“レゼじゃない誰か”に名前を付けるなー!!!!!!
「米津玄師、宇多田ヒカル」
本当に米津玄師なのかよ。
宇多田ヒカルもいるのかよ。
うーん……じゃあやっぱ(こっちが)殺されるしかねぇな。
かくして私が発見した“レゼじゃない誰か”は秒でJANE DOEと勝手に名付けられましたとさ。こちらが彼女の存在に気づいた直後に“答え”が追突してくるの何もかも見抜かれてて本当に怖かった。
本題:この映画学校行ったことなかったのに全てを賭けすぎだろ
ようやくこの話できるとこまで来ました。
この映画「学校行ったことなかったの」でJANE DOEに気づけなかったらどうなるんだろう?
帰りにくら寿司食いながら考えました。結末からエンディングの歌いだし、スタッフロールまでの流れのすべてがレゼではないJANE DONEへの花束としか思えなかったから。私は原作で彼女に気づけなかったし、映画でも件のシーンまで彼女の影すら踏めていません。
「学校行ったことなかったの」
本当にこのひと言で、ふと彼女の顔に気づけて良かったです。おかげでその顔をまじまじと見る暇もなく「JANE DOE」とデカデカ書かれたクソデカ名刺をクソ痛出力でぶん投げられnoteを書かされるほどうろたえています。
もし最後までJANE DONEに気づけなかったらどんな映画体験になっていただろうか?「なんか途中でサメ映画始まらなかった?」なんて連載当時擦りすぎて手垢にまみれたネタでこの映画を消費していたかもしれない。気づかせてくれた上田麗奈さんの演技、畳みかけてくる「まるでこの世界で~」とかいう歌いだし、曲名による答え合わせ、全てが美しく噛みあっていたこの映画は、スタッフロールが余韻ではなくもっとも強烈に感情を揺さぶってくる体験をくれました。
「学校行ったことなかったの」でJANE DOEに気づけるかどうか。
私のチェンソーマン レゼ篇はそこに全てを賭けすぎていた。そしてノーベル賞に残る大勝ちをした。本当に紙一重で、稀有で、最高にイカす映画です。


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