206.第6章「平成の東映」
第10節 東映の不動産事業
1951年4月、東映が創設され社長に就任した大川博は、東映の経営が少し安定するや否や全国の主要都市に土地や劇場を確保し直営映画館設立を積極的に進めました。
1953年11月、渋谷に直営劇場「渋谷東映」「渋谷地下劇場」2館を新築。今後の直営モデル劇場として地下に「サントリーバー」と「喫茶トーエー」を開店させます。
これが直営館関連事業の先駆けとなり、以降、拡大する東映直営館を利用した関連事業や不動産テナント事業へと発展して行きました。
1961年9月、多角化経営を目指した大川は、京都撮影所内に子会社東映不動産(株)本社、西銀座にある東映本社内に東映不動産東京支店を置き、不動産事業に進出します。
1960年代、戸建て住宅団地の開発を積極的に進めた東映不動産は、1970年代に入り、高層住宅部門であるマンション開発にも乗り出しました。
1970年6月、東映分譲マンション第1号「片瀬東映マンション」(41戸)が完成します。
このマンションは人気物件として50年以上たった現在でも一戸8000万円台前後で売買されています。
今節では、1970年代以降バブル崩壊まで、マンション販売を中心に東映の不動産事業を紹介いたします。
1. 事業部の不動産賃貸業
1960年代、直営館だけでなく映画館の再開発事業としてボウリング場も数多く新設した東映は、1970年代に入り事業部、興行部、技術本部が一体となって購入した不動産物件の有効利用を目指しました。
1971年1月、技術本部長の田中弘毅が事業本部長を兼任、事業部長に取締役の飯野義勝が就任します。
土地所有の大事さを知る大川は、引き継いだ直営館2館の他、東映社長在任中に52館を買取もしくは新築。再開発案件も含めボウリングセンター25場を新設しました。
1971年8月の大川急逝後、これらの土地建物資産は長きにわたり再開発や売却を通じ、厳しい時代の会社経営を支えます。
2. 不動産賃貸業、観光不動産事業部に
1972年3月、取締役の保坂啓一が事業部長を委嘱されました。
6月11日、全社的な機構改革が行われ、事業部は観光不動産事業部とスポーツ事業部に分かれます。
常務で事業本部長の田中弘毅が観光不動産部長、事業部長だった保坂がスポーツ事業部長に就任しました。
3. 観光不動産部、遊休地を活用しマンション「ハイラークシリーズ」展開
1973年2月、東映は「宅地建物取引業」の免許を取得。以降、マンションの建設販売や宅地造成・建売住宅の販売、別荘地開発のほか住宅・宅地・土地の仲介斡旋など広くハウジング事業を展開して行きます。
(1)「ハイラーク高島平」(2)「ハイラーク西軽井沢」(3)「ハイラーク双ヶ丘」
1973年、東映は、東京、京都、軽井沢にある社有地を活用し「ハイラーク高島平」(104戸)、「ハイラーク西軽井沢」(60戸)、「ハイラーク双ヶ丘」(24戸)と3カ所のマンション開発計画を発表しました。
5月に発売開始した「ハイラーク高島平」は発売2時間で完売します。
(4)「ハイラーク谷塚」
続いて観光不動産事業部は、埼玉県草加市に「ハイラーク谷塚」(58戸)を建設しました。
4. 観光不動産事業部、下に観光部と不動産部及び観光不動産開発室新設
1974年8月、東映は非映像部門の組織を改編し、観光不動産事業部の下に、観光部と不動産部、観光不動産開発室を設けます。
常務取締役の田中弘毅が観光不動産事業部担当、取締役の保坂啓一が観光不動産事業部長兼観光部長に就任しました。
〇「稲毛東映マンション」東映不動産
1974年8月、東映不動産は千葉市稲毛海岸に、「片瀬東映マンション」に続く高層マンション「稲毛東映マンション」(142戸)を売り出します。
1975年12月、常務取締役の田中弘毅が逝去。田中は東映の直営館、ボウリングセンター開発の中心人物でした。
(5)「ハイラーク八雲」
東映不動産部は、目黒社員寮跡地に高級分譲マンション「ハイラーク八雲」(22戸)を開発。1976年1月に販売を開始します。
1976年10月発行の社内報『とうえい』では、ハウジング事業の特集が組まれ、観光不動産事業部長の保坂は売上目標50億円を掲げました。
特集では、部長の池田をはじめ不動産部スタッフが現状報告と意気込みを語っています。
(6)「ハイラーク五反田」
続いて1976年10月には五反田東映を再開発し、2劇場と「ハイラーク五反田」(66戸)の建設に着手しました。
1977年12月に「ハイラーク五反田」と劇場が完成します。
五反田東映劇場と五反田東映シネマの2館と66戸の高層マンションに生まれ変わりました。
(7)「ハイラーク田無」
1977年4月、東京東映ボウリングセンター跡地に「ハイラーク田無」(50戸)の建設を始めます。
1977年10月に発売を開始すると即日で完売しました。
〇「メゾン宝塚」住友商事共同事業
12月には、住友商事と共同で宝塚にファミリーマンション「メゾン宝塚」(120戸)の分譲を決定します。
4月に発売開始し、8月に完売しました。
(8)「ハイラーク浦和」
1978年3月からは、初めて土地購入から開発した「ハイラーク浦和」(156戸)の受付を開始します。
「ハイラーク浦和」は5月に完売しました。
1978年5月には、社内報『とうえい』でマンションだけでなく一戸建て販売も好調な不動産部の特集が組まれます。
(9)「ハイラーク舞鶴」
1978年6月、福岡東映ボウリングセンター跡地を開発しハイラークシリーズ第9弾「ハイラーク舞鶴」(232戸)の開発を発表しました。
11月には、協力会社16社との情報交換、親睦を図るため「不動産東映会」を立ち上げます。
5. 保坂啓一常務取締役就任
1978年11月28日、観光不動産事業部長の保坂啓一が常務取締役に昇進しました。
観光不動産事業部長の保坂啓一は、1979年の年頭あいさつで、売上100億円台確保を目標に掲げました。
(10)「ハイラーク明石」
1979年1月、明石東映ボウリングセンター跡地に「ハイラーク明石」(120戸)の建設を開始します。
「不動産東映会」には新たに2社加入しました。
1979年2月9日、保坂啓一は東映不動産の専務取締役、池田友三が常務取締役に就任しました。
4月1日に受付を開始した「ハイラーク明石」は、即日完売します。
(11)「ハイラーク船堀」
続いて江戸川区にこれまでで最大規模総戸数509戸の「ハイラーク船堀」を発表しました。
6月1日に地鎮祭を挙行します。
8月31日に第1期販売を開始した「ハイラーク船堀」は、公開抽選日に250戸成立しました。
9月28日には第2期販売を開始し好調に推移します。
「ハイラーク船堀」は1980年2月に完売しました。
1979年6月、観光不動産事業部は、規模の拡大に伴い不動産部を建売住宅部とマンション部に分割、新たに不動産管理室を設けました。
(12)「ハイラーク武蔵小杉」東映不動産
1979年9月、子会社の東映不動産が川崎市で「ハイラーク武蔵小杉」(47戸)を販売を開始します。
ファミリータイプの分譲マンション「ハイラーク武蔵小杉」も、即日完売しました。
1979年9月発行の社内報『とうえい』でも、絶好調の不動産事業が特集されました。
(13)「ハイラーク川口」
1979年11月、「ハイラーク川口」(74戸)を1980年3月下旬に販売開始することを発表します。
(14)「ハイラーク横浜本牧」東映不動産
また、東映不動産は、1980年3月の「ハイラーク横浜本牧」(91戸)の分譲開始を公表しました。
1980年1月、年頭あいさつで保坂は150億円の売上目標を掲げました。
1980年1月に「ハイラーク舞鶴」も竣工。「不動産東映会」も改組され会員も拡大、36社となります。
1980年2月には社内報「とうえい」が、好調に推移する東映不動産の特集を組みました。
(15)「ハイラーク博多駅前」(16)「ハイラーク川越」
1980年6月、東映マンション部は「ハイラーク博多駅前」(134戸)と東映不動産との共同事業「ハイラーク川越」(114戸)の建設を発表します。
(17)「ハイラーク富士駅前」
続いて静岡県富士市に「ハイラーク富士駅前」(102戸)の建設分譲も決定します。
完売した「ハイラーク船堀」も竣工、入居がはじまりました。
(18) 「ハイラーク南浦和」
1980年9月に登録受付を開始した「ハイラーク南浦和」(58戸)は、将来駅前となる好立地により即日完売します。
(19)「ハイラーク芦花公園」東映不動産
1980年11月、東映不動産は世田谷区粕谷に初めて等価交換方式による分譲マンション「ハイラーク芦花公園」(17戸)を発売しました。
6. 池田友三取締役就任。マンション部、企画開発室新設
11月28日、株主総会で池田友三建売住宅部長兼マンション部長が取締役に就任します。
12月1日、観光不動産事業部はマンション部内に企画開発室を新設しました。
(20)「ハイラーク戸塚」東映不動産
1981年1月、東映不動産は「ハイラーク戸塚」(28戸)を発売します。
(21)「ハイラーク天満橋」東映不動産
1981年4月には「ハイラーク天満橋」(23戸)を発売しました。
(22)「ハイラーク川崎」東映不動産(23)「ハイラーク東陽町」東映不動産
1981年6月、東映不動産は「ハイラーク川崎」(18戸)、10月には「ハイラーク東陽町」(25戸)を発売しました。
(24)「ハイラーク西京極」東急建設共同事業
1981年10月、東映マンション部は、東映タクシー跡地を利用して事務所を併設したファミリータイプマンション「ハイラーク西京極」(88戸)を東急建設と共同で開発、販売を開始します。
(25)「ハイラーク横浜白山」
1981年12月、東映マンション部は横浜市内に初めてファミリータイプのマンション「ハイラーク横浜白山」(211戸)を開発しました。
(26)「ハイラーク双ヶ丘弐番館・参番館」
1982年2月には「ハイラーク双ヶ丘」の隣接する社有地を活用し、「ハイラーク双ヶ丘弐番館・参番館」を販売します。
(27)「ハイラーク浦和 参番館」東映不動産
1982年5月、東映不動産は浦和市で東映グループ3番目のマンション「ハイラーク浦和 参番館」(73戸)の分譲を開始しました。
(28)「ハイラーク大島」東映不動産
東映不動産は、続いて1982年10月に江東区大島で「ハイラーク大島」の発売を開始します。
(29)「ハイラーク千葉」
1982年11月には東映マンション部の大型マンション「ハイラーク千葉」(422戸)の分譲を開始しました。
(30)「ハイラーク木場」
1983年2月、続けて江東区で「ハイラーク木場」(136戸)の発売を始めます。
(31)「ハイラーク武蔵野滝山」東映不動産 (32)「ハイラーク蕨」東映不動産
東映不動産は、1983年4月に東京都小平市で「ハイラーク武蔵野滝山」(30戸)、5月に埼玉県蕨市に「ハイラーク蕨」(30戸)の販売を開始します。
(33)「ハイラーク三郷」
東映マンション部は、1983年9月から埼玉県三郷市にて「ハイラーク三郷」(90戸)を分譲しました。
(34)「ハイラーク江ノ島」東映不動産 (35)「ハイラーク青梅」東映不動産
東映不動産も、1983年12月「ハイラーク江ノ島」(24戸)、1984年2月「ハイラーク青梅」(84戸)の売り出しをかけます。
(36)「ハイラーク金沢文庫」 (37)「ハイラーク深大寺」
東映マンション部は、1984年1月から横浜市にて「ハイラーク金沢文庫」(33戸)、3月から調布市にて「ハイラーク深大寺」(30戸)を分譲しました。
〇「市谷仲之町ビル」
1985年1月からは、住宅だけでなく都心部での販売用ビル「市谷仲之町ビル」の建築販売も手掛けます。
1985年2月1日、東映不動産㈱は映画館をを経営する東映興業㈱と合併し東映興業不動産㈱となりました。
(38)「ハイラーク新赤羽」
1985年4月、東映マンション部は「ハイラーク新赤羽」(122戸)の分譲を開始します。
「市谷仲之町ビル」、「ハイラーク新赤羽」ともすぐに買い手がつきました。
(39)「ハイラーク上大岡」 (40)「ハイラーク大船」
1985年5月には横浜市港南で「ハイラーク上大岡」(82戸)を、その後「ハイラーク大船」(36戸)の販売を開始します。
7. 保坂啓一常務退任
1986年11月28日に開催された株主総会で、保坂啓一常務が任期満了で退任しました。
(41)「ハイラーク荻窪 サウスヒル」
1987年、荻窪駅徒歩6分の好立地で「ハイラーク荻窪 サウスヒル」(9戸)を分譲します。
(42)「ハイラーク戸田公園」
1987年5月には埼玉県戸田市で「ハイラーク戸田公園」(128戸)を売り出しました。
高倍率の抽選となり、即日完売します。
社内報で即日完売の記事が掲載されました。
(43)「ハイラーク田園調布」
この年、高級住宅地の田園調布で賃貸マンション「ハイラーク田園調布」を手がけます。
(44)「ハイラーク新宿三栄町ビル」
また、新宿では「ハイラーク」の名前を冠したオフィスビル「ハイラーク新宿三栄町ビル」を建設しました。
(45)「ハイラーク入間」
1987年10月、埼玉県入間市で「ハイラーク入間」(203戸)の分譲を開始します。
バブル景気もあり、第1期、第2期とも即日完売しました。
(46)「ハイラーク若葉」
1988年5月には埼玉県にて「ハイラーク若葉」(67戸)の抽選登録を開始します。
この物件も即日完売しました。
この時点でもまだバブル期の勢いは残っており、安く土地が確保でき続けて開発分譲に成功した状況の中で行われた1988年7月の社内報『とうえい』でのインタビューでしたが、バブルの終焉への不安が現れています。
(47)「ハイラーク大倉山」
東横線大倉山駅から歩いて10分の高台にある「ハイラーク大倉山」(29戸)は、東映初の全戸億ション販売となりました。
1989年7月1日から抽選を開始します。
今回も、即日完売で4連続となりました。
勢いに乗る観光不動産事業部は1990年1月1日付で東関東不動産営業部を新設します。
(48)「ハイラークみずほ台」
1990年2月、埼玉県東武東上線みずほ台駅近くに建設した「ハイラークみずほ台」(110戸)を販売します。
この物件で5連続即日完売となりました。
(49)「ハイラーク一橋学園」
1990年5月、続けて西武多摩湖線一橋駅学園近くで「ハイラーク一橋学園」(31戸)を販売します。
8. 池田友三常務就任
1990年6月28日、株主総会後の取締役会にて池田友三が常務取締役に昇進しました。
(50)「ハイラーク溝の口」
1991年2月、東急田園都市線溝の口駅徒歩6分の「ハイラーク溝の口」(32戸)を分譲します。
(51)「ハイラーク高崎」
1991年6月には、群馬県高崎市に「ハイラーク高崎」(103戸)の発売を開始しました。
〇「TOEI三宿ビル」
1991年4月には三宿の独身寮を開発した「TOEI三宿ビル」が竣工します。
ここでバブルがはじけました。
(52)「ハイラーク香椎」
1993年6月、福岡県にてボウリングセンターを再開発した「ハイラーク香椎」を販売します。
この物件は、好立地で即日完売しました。
(53)「ハイラーク保土ヶ谷」
1994年6月、JR横須賀線保土ヶ谷駅の「ハイラーク保土ヶ谷」(53戸)を売り出します。
(54)「ハイラーク太秦」
1995年2月には太秦の撮影所社員寮を再開発した「ハイラーク太秦」を分譲しました。
(55)「ハイラーク若葉 マロニエアベニュー」
1995年3月、東武東上線若葉駅に「ハイラーク若葉 マロニエアベニュー」(65戸)を販売します。
9. 池田友三常務退任
1996年6月、常務取締役の池田友三が退任。後任には、専務取締役で映画事業部担当の鈴木常承が兼任しました。
(56)「ハイラーク田無本町」
1998年、田無市に「ハイラーク田無本町」を売り出します。
「ハイラーク田無本町」の販売を持って東映マンション「ハイラークシリーズ」は休止しました。
10. 20世紀、東映不動産事業の総括
大川博は、映画黄金期にその収益を撮影所や直営館、その他施設の購入に投入し、多角的に事業を展開します。
映画の斜陽から直営館の活用で始めたボウリング事業でも多くの施設を作りました。
不動産事業は、高度成長期の住宅獲得の波に乗り東映の経営を支えます。
映画館経営、ボウリング場経営が苦しくなった岡田茂社長時代、その活用策として始まったのが高層マンション「ハイラークシリーズ」事業で、その中心となったのが、田中弘毅、保坂啓一、池田友三、三人の重役でした。
バブル時代、土地の価格が高騰し新たな土地確保が難しくなり東映のマンション販売事業の拡大が止まります。
そしてバブルが崩壊し、大川時代に購入した土地も少なくなったこともあり、資金のかかるマンション開発事業から撤退しました。
これまで、そして現在も東映の経営の大きな柱が大川が始めた不動産事業です。

