時計の針が15時に差し掛かろうというころ、シャーレには静かな時間が流れていた。
カタカタというタイピング音に、降りしきる雨音が入り混じる。いつしか雨が降りはじめていたことに、先生はようやく気がついた。
ぐぐっ、と身体を伸ばす。かれこれ二時間以上は注視していたPCから目線を外し、雨粒に覆われた窓ガラスを見やる。
「お疲れ様です。先生、そろそろ休憩なされてはどうですか。お昼ごはん、まだ食べていませんよね?」
声をかけるタイミングを見計らっていたかのように、書類作業に勤しんでいた少女──トリニティの救護騎士団に所属する鷲見セリナが、優しい口調で提案した。
「ああ……そうだね、もう15時か。まだ昼くらいのつもりだったけど」
「実は、お弁当を作ってきたんです。栄養満点ですから、ぜひ召し上がってください」
「ありがとう。いただくよ」
セリナがそそくさと取り出した楕円型のお弁当は、家庭的な温かみに満ちていて、しっかりと栄養バランスも考えられたものだった。主食・主菜・副菜がバランスよく揃えられ、色彩も被りがないように工夫されている。
「もぐもぐ……うん、おいしいねこれは……」
「疲労回復にはやはりビタミンです。中でもビタミンB群にはエネルギー代謝を高めて、疲労感への解消効果があります。今回はそれらの栄養素を中心に……」
ぴんぽーん。セリナがお弁当の品目説明を始めようとしたところで、シャーレ玄関の呼び鈴が鳴った。
「もぐ……あれ、お客さんかな」
「では、私が応対してきます。せっかく一息ついたところですから、先生はそれを召し上がってください」
セリナがぱたぱたと玄関口に向かうのを見送って、先生は再び箸の動きを再開した。
上手に味付けされた豚の生姜焼きを口に入れながら、ふと壁にかけられた時計を見やる。
(チハヤは15時までに帰ると言っていたけれど、遅いな……連絡もなし、か……)
シャーレで勾留中の八重垣チハヤは、基本的には真面目な生徒だ。
たまに暴走するが、注意すれば素直に聞くし、約束はきっちり守る。根の部分がとても真面目なのだろう。そんな性格からか、チハヤは自分で決めた門限の30分前には帰ってくるのが常だ。
(あと三分で15時を回る。それでもチハヤが帰らないようなら、こちらから探しに出た方がいいな……)
カイザーPMCに目立った動きがないことは、アビドスの生徒に協力を仰いで確認したもらっている。
だが、万が一ということがあるかもしれない。そんなことを考えていると、オフィスに元気な声が響き渡った。
「せんせー!」
聞き覚えのない、幼い声だ。
思わず振り返ると、オフィスの扉からこちらに走ってくる小さな人影があった。
「あ、ま、待ってください……! 走ったら危ないですよ……!」
「ねーねー、あなたがせんせー?」
白い髪に、薄青色の瞳をした少女だ。背丈は120センチほどだろうか、見るからに高校生ではい。
その少女は疑いを知らぬ綺麗な瞳で、こちらをじっと見つめて問いかけた。
「うん、私が先生だよ。君はどうしてここに?」
「わたしね、雪峰コフユ。お姉ちゃんを探してD.U.に来たんだけど、見つからなくて困ってて……そんな時に偶然会ったチハヤお姉ちゃんが「先生」を頼れって、ここを紹介してくれたの!」
「なるほど、チハヤが……」
コフユと名乗った少女は、簡潔にここに来るまでのあらましを語ってみせた。
さっきまで心配していたチハヤの名前が出て、思わずオフィスの扉に視線を向ける。が、一向に彼女は姿を見せない。どうやら、コフユと一緒に帰ってきたわけではないらしい。
「その、コフユちゃん。チハヤにここに来るように言われたそうだけど、そのチハヤはどこに?」
「途中まで私と一緒だったんだけど、用事があるって言ってはぐれちゃった……」
その言葉に、わずかな違和感を覚えて先生は眉を顰めた。
責任感のあるチハヤが幼い少女を置いて、自分の用事を優先するようなことがあるだろうか、と。
「……ちなみに、チハヤは何か言ってなかったかな?」
「あ、そうだ。せんせいに「廃工場で待ってます」って伝えてって言ってたよ。そんなことろで何するのか知らないけど」
その言葉に、先生は心中で燻っていた「嫌な予感」が確信へと変わったのを理解した。
時計の針は既に15時を回っている。ここら近辺の廃工場といえば目星は付くが、何もない廃墟に、コフユを置いてまで立ち寄る理由があるとすれば……。
「──────────!」
チハヤが危ない。
思考回路が一つの結論を弾き出したとき、先生は思わず立ち上がっていた。
「ごめんね、コフユ。君のことは必ず助けるけれど、その前に、チハヤを迎えに行く必要がありそうだ。大人しく、ここで待っていてくれるかな?」
言い終えてから、先生は素早くセリナに目配せした。
それだけで緊急事態を察してくれたのか、セリナは真剣な面持ちで頷き、卓上にあった救急箱を手に取った。
「わかった……もしかして、チハヤお姉ちゃんに何かあったの?」
「ううん、大丈夫だよ。チハヤを連れて、必ずここに戻ってくるからね」
不安げにこちらを見上げるコフユに優しく声をかけて、頭を撫でる。コフユが素直に頷いてくれたのを確認してから、先生は足早にシャーレの出口へと向かった。
◆
「また会ったね。八重垣チハヤ」
D.U.の片隅に捨て置かれた、かつては工場だったであろう廃墟の中。
その薄氷のような瞳を見つめ返して、私は柄を握りしめる両手に力を込めた。
「私の名前は、
彼女は私の構えた刀を指差して、はっきりとそう言った。
やはり、ブラックマーケットで出会った時から意思は変わっていないらしい。彼女はカイザーPMCの尖兵として、私が持つ「彼岸白雪」を追い求めている。
そして、彼女は同時に「雪峰」とも名乗った。それはまさに、ついさっき出会った少女と同じ苗字だ。やはり彼女は、コフユが語っていた「姉」で間違いない。
「あなたは……やはり、コフユちゃんの……」
「そうよ。あの子は私の妹」
あっさりと答えた彼女にやや面食らったが、気を取り直して続ける。
「あなたの正体は分かりましたが……どうしてあなたは、私の刀を狙うんですか!?」
ミフユは、私の問いかけに細い眉をぴくりと動かした。
コフユが語っていた内容によれば、彼女は一人で学校と生徒たちを守っているような、立派な人物のはずだ。とてもカイザーの言いなりになって、悪事を働くような人間だとは思えない。
私の内心を読み取ったように、ミフユはあっさりと答えた。
「あなたの持つソレは、莫大な価値を有する過去の
「過去の……おーぱーつ……?」
「そう。かつて世界の主だった司祭たちが王女へと残した、一対の古代兵器……本来の名を「ザババの
あまりに突飛な話が突然飛び出して、私は思わず目を瞬かせた。
この「彼岸白雪」の秘密に迫る大事な話だというのに、話が難解すぎて頭に入ってこなかった。
理解を諦めずに、彼女の言葉を頭の中で整理してみる。過去の遺物。無名の司祭。古代兵器。本来の名を、「ザババのなんたらかんたら」……。
「はあ。ごめんなさい、難しく話し過ぎたかしら」
私が無数の疑問符を頭から散らしているのを察したのか、ミフユは見せつけるように溜息をついた。
まるで私がバカで私が悪いみたいな態度に、私はムッとして睨みつける。
「あなたにも理解できるように言うなら……「二つ揃えば、このキヴォトス全てを容易く支配できるような超兵器」とでも思っておいて」
「私の刀に、そんな出自が……」
私は、思わずこの「彼岸白雪」を見つけ出したときのことを思い出した。
目の前の少女を探してさすらう旅の途中、私はこれを見つけたのだ。風化し、朽ち果てた何らかの遺跡の最奥にひっそりと安置された、この一振りの刀を。
それはまるで誰かを待っているかのように、崩壊した遺跡の中にあって傷一つなく、美しくも寂しい風景だと感じたのを覚えている。
あの遺跡から連れ出した刀の正体が、忘れ去られた遺物であるというのなら──突飛な話ではあるが、納得がいくように思う。
「やっと話が見えてきました。私とあなたの刀を揃えて、カイザーはよからぬことを始めるつもりなんですね?」
「でしょうね。もっとも、私はただの雇われだし。カイザーの企みにも、この遺物の正体にも、私には一切興味がない。ただ、カイザーが与えてくれる莫大な報酬さえあればいいの。だから……」
そう言って、ミフユはゆっくりと刀を──いや、正確には「ザババの双杖」と呼ばれる古代兵器──を、見せつけるように鞘から引き抜いた。
「あなたのソレを頂くわ。大切なものさえ守れるのなら、世界のカタチがどうなろうと知ったことではないの」
大切なもの。
ミフユが口にしたその言葉を、私は無視するわけにはいかなかった。
「……それは、コフユさんや、あなたが一人で支えているという学校のことですか?」
その問いかけに反応して、ミフユが不快げに顔を顰める。まるで、自分の心中に、他人がズカズカと入ってくるのを嫌うように。
でも、ここで対話を止めてはだめだ。
理由なんて無いに等しい直感だが、彼女の本心はまだ知れていない。私は、「彼岸白雪」の正体以上に、この少女のことを知らねばならないという予感がする。
「コフユさんはあなたを心配していました! あなたの帰りを待つ人たちだって、ミフユさんのことを心配しているはずです! いくらお金が必要だからって、カイザーなんかの下につくのは間違って────」
「何も知らない部外者が、偉そうな口を叩かないでくれる?」
全てを言い終わらないうちに、震えあがるような怒気が私の言葉を中断させた。
今の言葉は、ミフユにとって聞きたくないものだったのか。ミフユはその美しい顔に怒りを浮かべ、より一層目線の鋭さを増して私を睨みつけている。
「八重垣チハヤ。あなたこそ
怒りの滲んだ声で、ミフユは私を断罪するように言った。
「あなたは、立派なサムライになるという夢を抱いているそうだけど。その夢が最初から間違っていることに、まだ自分でも気付かないの?」
「わ……私の夢の、何が間違っているって言うんですか!?」
「気付いていないなら教えてあげる。それは夢でもなんでもない。あなたはただ、弱い自分を覆い隠せる「サムライ」という仮面が欲しいだけよ」
彼女が言った、その言葉は。
まるでライフルの弾丸みたいに、私の心を一撃で貫いた。
くらり、と眩暈がして上体が揺らぐ。まるで、目を背け続けていた醜い自分を切り取って、目の前に突きつけられたみたいな気分に吐き気がする。
呆然とする私に、ミフユは淡々と言葉を続ける。
「八重垣チハヤ。あなたについて、色々調べさせてもらったわ。あなたが中学生だった頃は、それはひどい状況だったみたいね」
「な……」
「学校でイジメに遭っていたのね、あなた。だから、進級できるギリギリの出席日数だけを満たして、家に引きこもってばかりいたんですって?」
まるで私の全てを見てきたかのような口ぶりに、私は思わず言葉を失った。
彼女の言葉は、正しい。
まだサムライではなかったころの私は、ドジで無力で、友達もできず、何をしても上手くいかなくて、どこにも居場所がなかった。そんな邪魔者が、いじめのターゲットになるのは当然の結果だった。そして、いつしか学校も休みがちになり、部屋に閉じ篭もるようになって……。
「でも、あなたは私に出会って、「サムライ」という存在に目をつけた。弱い自分を変えたくて、誰にも見てもらえない現状を変えたくて、サムライになることを決めた」
そうだ。いじめられていた私は、サムライになると誓った時から変わったのだ。
決断してからは早かった。私は家に閉じ籠るのをやめて、サムライを名乗るために必要な武器を追い求めた。そしてキヴォトス中を彷徨って、ようやくこの「彼岸白雪」を手に入れてから、私は変わった。
学校にも通うようになった。いじめられることもなくなった。私はサムライになって、憧れていた強い自分になれた。
そして今よりも立派なサムライになって、もっと強く、もっと……。
「でも、その本心は憧れでもなんでもない」
ミフユの言葉は、身を防ぐように構えた刀をすり抜けて、ざくざくと私の胸中を切り刻んでいく。
「あなたはただ、弱くて無価値な自分から目を逸らすことができればそれでよかった。サムライごっこを続けている間なら、あなたは別人になれる。強い人間だと思い込む事ができる──」
「違う!!」
私は思わず、大声でその言葉を遮っていた。
だが、それから反論の言葉が出ない。まるで幼児みたいに、違うとしか言葉にできない。
それは暗に、彼女の言葉こそが正しいことを証明していた。
「なにも違わない。あなたが「サムライ」だと自分を定義するのは、自分から目を逸らすための嘘に過ぎない。立派なサムライになるという夢だって、強固にその仮面を塗り固めたいという願望の言い換えでしかない」
「ち、が……」
「あなたはサムライでもなんでもない、無価値な「八重垣チハヤ」のままなのよ」
吐き気が堪えきれず、私は思わず口に手を当ててえずいた。喉元まで競り上がってきた胃液を意地だけで飲み込んで、荒い呼吸を繰り返す。
ちゃんと立っているはずなのに、足がふらふらしておぼつかない。
まるで、私をずっと支えていた見えない柱が、綺麗さっぱり無くなってしまったみたいに。
「ちがう、私は……私は、そんなこと……」
「はあ。もういいわ」
茫然自失に陥りかけている私を見て、ミフユは憐れむような瞳で言った。
「その微睡みから目を覚まさせてあげる。その遺物さえなくなれば、無意味な虚勢も張れないでしょう」
ゆっくりと、ミフユは手にした刀を振り上げた。
あり得ない行動だ。まだ私との間には十メートルもの距離がある。とても一歩では踏み込めない距離、銃器を持っているならともかく、刀を振ったところで攻撃は届かない。
だが、ミフユは構わないとばかりに柄を握り締め、上段に構えた刀を振り下ろした。
「──────────っっ!!!?」
悪寒に従って跳んだ直後、それは来た。
ミフユが刀を振り下ろした軌道に沿って、眩い赤色の閃光が疾り──背後にあった工場棟の壁面が、その軌道にあわせて
まるでバターナイフを入れたかのような切れ込みが、金属製の壁に深々と刻み込まれる。
「斬撃が……飛んだ……っ!?」
光の斬撃。振り抜いた軌道上にある物体を全て切り裂く、恐るべき力。これが「ザババの双杖」が秘める、本来の能力なのか。
息を呑む私を見ながら、ミフユはその兵器を構え直す。
「容赦はしない。あなたが、それでもサムライという仮面にしがみつきたいのなら、その「カタナ」で抗ってみせなさい」
ミフユは踊るように刀身を振るう。右に左に、その度にあの武器が唸りを上げて、カマイタチみたいな斬撃が飛んでくる。
途方もない威力を持っているくせに、
あれはもう、「兵器」なんて言葉が生ぬるく感じるほどの「何か」だ。
「は、づ……っ!!!?」
ばつん!! という轟音が鳴り響いた。赤い斬撃の雨を掻い潜れなくなって、閃光が左腕を直撃したのだ。
たった一撃で、頑丈な皮膚が裂けてばっくりと開いた。ぶしゃあ、っと見たこともないくらいの鮮血が吹き出して、灼熱する激痛が走り抜ける。響き渡った音は、私の肉が裂け千切れた音だ。
(き、斬られた……!? そんなのありえない! 先生ならともかく、私たちの体は刃物なんて通すはずがないのに……!)
怯んで、もつれそうになる足を必死に動かす。
弾丸だってロケット弾だって、キヴォトスの人間をそう易々と傷つけることはできないはずなのに。アレは、こんなに易々と人体を壊し、
「ふっ──────!!」
畳み掛けるように、ミフユは横薙ぎに刀を振るった。戦車を容易く輪切りにする閃光は、紙一重で避けた私の頭上を通過し、工場の壁を真一文字に引き裂く。
何度も攻撃を受け止めた壁がついに崩壊し、外からの風雨が吹きつけてきた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……!?」
だが。雨に濡れる体に意識を払う余裕もなく、私は目の前の少女から視線を外せなかった。
呼吸が荒い。まだ大して身体を動かしていないのに、飢えた犬みたいに夢中で空気を吸い込んでしまう。体力の消耗ではなく、心中を埋める恐怖が私の動悸を早めている。
ありえない。刀を持った私は強いはずなのに。どんな相手にだって、勇猛果敢に戦いを挑めるサムライなのに。なんで、どうして、こんなにも足がガタガタ震えて、
『あなたはサムライでもなんでもない、無価値な「八重垣チハヤ」のままなのよ』
その言葉がフラッシュバックした瞬間、私はその幻聴を振り払うように走り出していた。
「う────う、うわあああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!」
自分を鼓舞するように吼えて、ミフユに目掛けて突進する。
でもそれは、誰が聞いても、追い詰められた者の情けない悲鳴でしかなかった。
「────……う゛ぐあっ!?」
ばつん! という肉断ちの音が再び響いて、私は三歩と歩くこともできずに頭から転倒した。
硬いアスファルトに叩きつけられて、転がりながら衝撃のあった下半身を見やる。深々と切り裂かれた右足。どくどくと血が流れ出ていく感覚が、私の呼吸をますます荒げさせる。
だめだ、止まったらだめだ、はやく立たないと、
────ばつん!
再度、肉を断つ嫌な音が響き渡った。
今度の斬撃は私の左腿を容赦なく直撃し、苔むしたアスファルトを深々と抉りながら、再び私の足に甚大なダメージを刻み込んだ。
真っ赤な血が迸り、飛び散った返り血がミフユの頬を濡らす。
「あ……ぎっ、うぎあああああああああ……っっ!!?」
「やはりキヴォトスの人間は頑丈ね。四肢を斬り飛ばすつもりで直撃させても、骨に届かない程度の切り傷が精一杯なんだもの。でも、おかげで手加減する必要もない──」
痛い。こわい。かてない。無為な思考を繰り返して、血溜まりで転げ回ることしかできない私に、光刃は連続して襲いかかった。
ばつん、ばつん、ばつん、ばつん、ばつん────!
肉が断たれる音が響き渡るたびに、胸が裂けて、腕が裂けて、足が裂けた。
私の身体と心を斬り刻む斬撃の雨は、逃亡や降参すらも許さなかった。
◆
「あ──────ぅ……あ゛……………っ……」
そして、どれくらいの時間が経ったのだろう。
一分間にも満たない暴虐だったのだろうが、私には何時間も続く地獄のように感じられた。
気が付いた時には、私は血まみれのボロ雑巾みたいになって、うつ伏せに倒れていた。
「これくらい痛めつければ、自分の過ちが身に染みたでしょう」
出血と激痛で朦朧とする意識の中で、ミフユの声が聞こえてくる。
過ち。そう、まさに私は間違っていた。私は最初からサムライでもなんでもなくて、ただ無価値な自分から目を背けたいだけの、愚かな弱虫のままだったのだ。
「伝えた通り、これは貰っていくわ」
血まみれの手のひらから遺物は離れ、目の前に転がっている。それは私の心を映し出すかのように、とうに発光するのをやめていた。
それを拾い上げるべく、ミフユが一歩ずつ近づいてくる。そこに──、
「待て…………!!!」
その瞬間、空間を裂くような一声が響き渡った。
ミフユがじろりと冷たい瞳を動かして、その音源を見やる。廃工場の入り口に、光を背に誰かが立っている。白いロングコートを着たその人物の顔を、いまさら見間違えるはずがない。
「せん、せ……い……?」
助けを乞うように、無意識にその名前を呼んでいた。
先生は血まみれになった私の姿を一目見て、その瞳に火花が散るような憤怒を滾らせた。
目を凝らすと、先生の隣にもう一人誰かが立っているのが見える。看護師を連想させる純白の制服。ナースキャップに描かれた桃色の十字は、まちがいなくトリニティが誇る「救護騎士団」のものだ。
「邪魔」
突然の乱入者にも関わらず、ミフユはいたって冷静だった。振り返りざま、ミフユが手にした兵器を真一文字に振り払う。
赤色の閃光が瞬き、薙ぎ払うような光刃が先生に襲いかかった。
だめだ。私のように頑丈ではない先生は、あの一撃で容易く殺されてしまう。思わず、私は悲鳴じみた警告をあげようとしたが、
「────────」
先生は眉一つ動かさず、その攻撃を無力化した。
あらゆる物を切断する光の斬撃は、先生に直撃する寸前でねじ曲がり、軌道を変えて、真横にあった鋼鉄製のコンテナに命中したのだ。
「それ以上、チハヤに近づかないで」
コンテナが崩れ落ちる轟音の中、先生は低い声色でミフユに告げる。
対して、ミフユは油断なく刀を構え直し、私に向けていたような怒りの瞳を先生に向けた。
「シャーレの先生。あなたは本当に、不愉快なところで邪魔をする人ね」
「もう一度言う。それ以上チハヤに近づくなら攻撃するよ」
「ふん。それ以上近づくな、というのは私の台詞よ。「シッテムの箱」にも限界はある。看護師一人を連れた程度で、本当に私を止められると思っているの?」
ミフユの言葉は、確かに今の状況を冷静に判断していた。
先生は卓越した指揮能力を有しているが、その真価が発揮されるのは複数人の生徒と共にいる時だ。戦える生徒があの生徒一人しかいない今、いくら先生といえどミフユを止める力はない。
「────────────」
先生は何かを葛藤するように、スーツの内側に視線を向けた。
隠し持った何かを、取り出そうとするかのような所作。だが、先生が銃器を持っている、という話は聞いた事がない。ならばあの懐に、一体何が隠されているというのか。
しかし、先生は胸元から視線を外し、改めてミフユに瞳を向けた。
その行為がやや意外だったのか、ミフユは警戒を孕んだ声で問う。
「何かは知らないけど、「奥の手」は出さないの?」
「……生徒に
「私は、あなたの生徒になったつもりはないんだけど……手段を惜しむつもりなら、そこで黙って見ていることね」
ミフユは身を翻して、私の元へと歩み寄る。
敗北は決定した。彼女を止める手段はどこにもない。先生にも、私にも、いまさら勝敗を覆せるだけの力はない。
私がその現実をようやく受け止めて、諦めるように目を閉じようとした、その時。
「────────おねえ、ちゃん?」
震える声が、がらんどうの廃工場に響き渡った。
「………………っ!?」
私のすぐ目の前まで迫っていたミフユが、驚きと共に振り返り、その声の主に視線を向けた。
小さな影が一つ増えている。先生の背後から遅れて姿を見せたのは、私がついさっき知り合った少女にして、目の前に迫るミフユの妹。雪峰コフユだった。
「嘘……!? コフユちゃん、どうしてここに……まさか、私達の後をついて……!?」
救護騎士団の生徒が、困惑したように声を上げる。彼女がここに現れることは、この場にいる誰もが予想していなかった。私が、先生が、そして何より姉であるミフユが、困惑から一様に動きを止める。
まるで時間が止まったかのような沈黙の中で、コフユは呆然として言葉を続けた。
「お姉ちゃん……何を、してるの?」
その小さな瞳には、血まみれになった私と、その傍に立つミフユだけが映っている。
「お姉ちゃん。なんで、その武器は血まみれなの? どうして、チハヤお姉ちゃんが、そんなに傷だらけになっているの?」
その問いかけは、目の前の光景を否定したいがために漏れた言葉だったのだろう。
ミフユが問いに答えることはない。妹から視線を逸らし、彼女は困惑と混乱の中で次にとるべき行動を考えているようだった。
真っ青になった顔は、怒りに満ちていたさっきまでの表情とはまるで違って、助けを求める子供のようにも見えた。
「ねえ、お姉ちゃん!」
「────────……っ!!」
ミフユの手にした兵器が、ひときわ眩い輝きを放った。
それは工場の中を赤々と照らしあげて、その場にいた全員の視界が奪われる。五秒ほどの静寂の後に、ようやく輝きは収束し──気がついた時には、ミフユの姿はどこにもなかった。
彼女は、私の「彼岸白雪」を奪うことすら忘れて、その場所から立ち去ったのだった。
「……セリナ、すぐに手当ての準備を!」
いち早く先生が状況を把握し、私の元へと駆け寄ってくる。
「はい……! なんてひどい……この出血量は、すぐに病院に搬送しないと……! 先生、救急車の手配を!」
「分かった! セリナはできる限りの処置を!」
セリナという少女が私のもとに跪いて、身体中の傷跡を素早く確認していく。私は言葉を発することもできないまま、薄れていく意識に従って目を閉じた。
「チハヤお姉ちゃん! チハヤお姉ちゃんっ!」
セリナの反対側から、嗚咽混じりの声が聞こえてくる。きっと私を心配するコフユの声だ。
「輸血できる────病院への────緊急──」
「────ちゃん────おねえ────」
目をもう一度開けて、コフユを安心させたいのに、身体にちっとも力が入らない。少し前までは、意地でも気絶なんてしない性格だったくせに、今はそんな気概すらない。
そこでようやく、私は自分自身のことを悟った。
私が大事に抱えていた「サムライ」という仮面は、とっくに壊されてしまったのだ、と。
なら無理だ。立ち上がれるはずがない。夢はとっくに覚めて、私はサムライではなくなってしまった。
その事実は、全身の傷が発する激痛よりもなお鋭く、私の胸を貫いた。
(わたし……は……最初から……間違って……)
もう、何も考えたくない。
その冷たい痛みから逃げるように、私は意識を手離した。