『先生、協力して頂きたいことがあります』
よく晴れた日の昼下がり。先生がいつも通りに業務用PCと睨めっこしながら、何も考えずに一日中寝たいだの、無計画におもちゃを買い漁りたいだのと無為な思考に浸っていたところ、傍に置いていたスマートフォンがぴろんと鳴った。
モモトークの受信通知だ。画面上部にポップアップしたウインドウには、「八重垣チハヤ」と表示されている。慣れた手つきでタップすると、薄い桃色を基調としたトーク画面が開く。
『今日の鍛錬に付き合ってほしいんです』
『シャーレの中庭で待ってます』
端的なメッセージがいかにもチハヤらしく、思わず先生は苦笑する。
チハヤがシャーレに滞在するようになってから数日が経つ。思えば、こちらから手を貸すことはあれ、彼女の方から協力を求められるのは初めてだ。
曲がりなりにも「大人」として、ある程度信頼してもらえるようになったのか……と嬉しく思いつつ、先生は椅子を引いて立ち上がった。
◆
シャーレの中庭は居住区の裏手、休憩室に面した空間にある。といっても、先日訪れたミレニアムの植物庭園ほど広くもないし、多種多様な植生が見られるわけではない。建物とフェンスの合間に芝生を敷き、申し訳程度の植木を配置しただけの小さな空間である。
「先生、お待ちしていました」
そんな中庭の中心に、抜き身の刀を携えたチハヤが待っていた。
いつものセーラー服に桃色の外套、編み笠という奇抜なスタイルではなく、オーソドックスな体操服姿だ。額にはきらめく汗が浮かび、肩にかけたタオルはしっとりと湿っている。どうやらかなりの長時間、ここで鍛錬に励んでいたらしい。
「チハヤ、調子はどう?」
「まあまあでしょうか。あ、お水ありがとうございます」
タオルで顔の汗を拭いつつ、チハヤは澄ました顔で返答した。自販機で買っておいたミネラルウォーターを手渡すと、喉が渇いていたのか、喉を鳴らして一息に飲んでしまう。
豪快な飲みっぷりだなあと見つめていると、「何をじろじろ見ているんですか」とでも言いたげな視線が飛んできたので、慌てて本題に入る。
「手伝って欲しいことがあるんだって?」
その問いに、チハヤはぴょこんと獣耳を揺らして首肯した。いつもは編み笠に隠れて頭部が見えにくいため、素のチハヤはどこか新鮮な感じがする。
「
なんとも難しげな言葉だ。脳内辞書を参照してみたが、どうにも思い当たる単語はない。
もっともチハヤはそれを予想していたらしく、特に気にも留めずに続ける。
「サムライと同じく古き文書に伝わる言葉です。剣の道を極める上で、必要になる事を指した言葉とされています」
「へえ……。ちなみにどういう意味?」
「相手の動きを見極める眼力。的確な身体のコントロールを可能とする足捌き。 状況により気持ちを左右されない胆力。そして、技を繰り出すための力。剣術において重要となるこの四点を総じて、一眼二足三胆四力と呼ぶのです」
そこまでやや早口で話し終えてから、チハヤは得意げにふんす、と息を吐いた。スラスラと言葉の意味を説明できるあたり、よほどサムライになるという夢に真摯なんだなと感心しつつ、その言葉を持ち出してきた意図を尋ねる。
「その言葉と私を呼んだことに、一体どんな関係があるの……?」
「一の「眼」、二の「足」、そして四の「力」。これらは私一人でも鍛えられますが、三つ目の「胆」……すなわち胆力を鍛えるのは、一人では難しいんです」
確かに、と唸りつつも考えてみる。肝要となる四項目のうち、「眼」は眼力、即ち反射神経を磨けばいいし、「足」は脚力を鍛えればいい。「力」なんて項目は言わずもがなであろう。だが「胆」に数えられる胆力に関しては、なかなか具体的な鍛錬法が思い浮かばない。
無理くりに捻りだすとすれば、お化け屋敷を何周も周回したり、バンジージャンプに挑戦したりといったところだろうか。だが少なくとも、チハヤの脳内には何らかのプランがあるらしい。
「胆力とは即ち、どんな物事にも動じない鋼の精神。それを身に着けるため、先生にお願いがあります」
きり、とチハヤはその黄金色の瞳を鋭く輝かせ、自信ありげに告げた。
「先生、私を動揺させてください。何をしたって結構です。先生の行動に対して私が耐え忍ぶことで、胆力を磨く修行とします!」
それじゃあ具体的なところが全部丸投げでしょうが! と思わず突っ込みたくなる気持ちを大人の余裕でぐっと堪え、先生は天を仰いだ。
チハヤはこの丸投げ案に一切の疑問を有していないらしい。そのきらめく瞳に見つめられると、何としても応えてあげねばという気持ちが湧いてくるが……。
「とはいえ、動揺させろと言われても……すぐには思いつかないかな……」
「思いつかないなら、先生の周囲の生徒が困惑したり、動揺したりした事を私にすればいいんですよ」
あっけらかんとチハヤが口にするので、先生は思わずチハヤの顔面を見やった。何も考えてないようにすら見えるきょとんとした顔には、自分の発言がどんな結果を招くか、という予測が不足しているようにも思える。
とはいえ、ここで断ってしまうのも考えものだ。チハヤが困っているのは事実であり、窮地にある生徒を放って帰るなどという行為が許されるはずもない。
たっぷり五秒は考え込んでから、先生は真剣な瞳をチハヤへ向けた。
「………………本当に、いいんだね?」
「もちろん。サムライに二言はありません」
「分かった。じゃあ私も本気で、チハヤの「鍛錬」に付き合うよ」
すう、と先生は軽く深呼吸して、己の中に残存する迷いを振り払った。
まるで戦闘時かのような緊張感が充満する。互いに視線は交わしたまま、先生だけがゆっくりと姿勢を落とし──、
「……な、なッ、何をっ!?」
途端、チハヤの困惑する声が中庭に響き渡った。
その驚きも当然である。なにせ大の
直に触れたチハヤの脚は筋肉質ながらも女の子らしい柔らかさを残し、仄かに土と汗の香りがした。顔を近づけたまま瞳を上に向けると、チハヤの顔が赤く染ったり、青ざめたりと、面白いように色を変えている。
だがここで躊躇しては「鍛錬」にはならない。先生は一気呵成に顔を脚へと近づけ、
「ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺ」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──────っっ!!!!??」
その柔肌に舌を這わせた瞬間だった。チハヤは普段からは想像もつかないような絶叫を撒き散らしながら、その類稀な身体能力をフルに活用し、一息に五メートルは後方に跳躍してみせた。
ぜえぜえと息を切らしてこちらを睨みつけるチハヤに、先生は無感情な瞳を向ける。
「はい、チハヤの負けね」
「は、はああっ!? なに言ってるんですか!?」
「いや、だって動揺したよね。今」
その言葉に、チハヤはぐっ、とここまで聞こえるような呻き声をあげて口をパクパクと動かした。
こちらはチハヤの望む通りに行動しただけで、そんな変態を見るような目付きで睨まれる謂れはない。それはチハヤも理解しているらしく、小刻みに身体を震わせてから、何かを堪えるようにこちらに戻ってきた。
「……わかりました! それなら好きなだけどうぞ!」
チハヤは顔を真っ赤にしながら、分やけくそじみた勢いで仁王立ちし、こちらの目の前に立ってみせた。
チハヤが続行を望む以上、こちらとしても中断する理由はあるまい、と再びすらりとした脚に手を這わせる。
「やるよ」
返答はなかったが、ごくりと唾を飲む音だけが聞こえた気がした。沈黙を肯定と捉え、再開する。
「ん……く、ふ……っ……くぁ…………」
しばらくの間、チハヤの一文字に閉じた唇から漏れる微かな声だけが、静かな中庭に響いた。
先生の内心に焦りが生じる。チハヤが予想以上に耐えの姿勢を見せるせいで、まるで「いかがわしい事」をしているかのような雰囲気が漂いつつあるではないか。
かつて同じことをした生徒──銀鏡イオリならば、今頃は蹴り飛ばしてくる頃合いだ。チハヤの場合もそうなると踏み、この方法は無茶があるから別の方法を考えてみようか、という平和な流れに持っていくつもりだったのだが……。
「……なかなか忍耐強いね」
「と……っ、当然、です……!」
チハヤは顔を耳まで真っ赤にし、ぎゅっと目を瞑ったまま返答した。これ以上の足ペロは無駄にこの時間を長引かせるだけと判断し、渋々ながらも攻め方を変えることにする。
なおも耐えんとするチハヤの背後に周り、先生は小刻みに震える獣耳の合間に顔を埋めた。
「こ、今度はなんですか!?」
「うん、チハヤの頭皮の匂いを嗅いでる」
「────頭皮の匂い!?!?!?」
無言で己の頭の匂いを嗅ぎ始めた大人に愕然として、チハヤはぶるぶると身体を震わせた。
「さっきのように慌てて一歩でも動いてしまえば負け」というような、己の中のルールを定めているのかもしれない。震えている時点で動揺しているのではないか、という冷徹な指摘は控えつつ、鼻をすんすんと鳴らして己の嗅覚に集中する。
「うーん、チハヤは森の中みたいな匂いがするね。落ち着く感じのいい匂い。でも今はちょっと汗の匂いが強いかな」
「そ、それは、朝から鍛錬に励んでいたからで……!! あ、汗臭いならそんなに嗅がなければいいじゃないですか!」
「いや、別に嫌いじゃないよ。私は汗の匂い好きだし」
「は……か──────っ……あ……!?」
チハヤは壊れた人形みたいに手足をバタつかせたあと、糸が切れたようにヘナヘナと座り込んだ。もふもふの尻尾が力なく垂れ下がる。
まだまだ、次はその脚で踏んでもらおうか──と続けようとするより先に、チハヤは芝生にへたり込んだまま、肩越しに振り返って口を開いた。
「降参です、降参します! も、もう、こんな破廉恥なことは限界……! こんな事を続けていたらヘイローが壊れます!」
「幾らなんでもヘイローは壊れないと思うけど……まあ、そういう事ならやめるね」
その言葉にようやく安堵したのか、チハヤは全身から力を抜き、深く息を吐いた。時間をかけて息を整えてから、じとっとした目線を向けてくる。
「認識を改めました。先生は、生徒にこんな事をするような人だったんですね」
「い、いやいや、確かに似たようなことをしたけど、どれもやむにやまれぬ事情があってだね……」
女の敵を前にしたかのような冷たい視線から目を逸らしつつ、深い言及を避ける。下手に語ると墓穴を掘る予感をひしひしと感じ取ったからだ。
チハヤはしばらく先生を睨んだ後、何かを諦めるように肩の力を抜いた。
「……まあ、元は私が言い出したことですし、文句は言えませんね。先生が真面目に、私を鍛えるつもりでしてくれた事ですし」
あまり胆力が鍛えられた感じはしませんが……と呟きながら、チハヤがすっくと立ちあがる。やや頬は赤いままだが、なんとか平静さは取り戻せたらしい。
「この過激な方法は封印して、別の方法を探してみます。先生も、付き合ってくれてありがとうございました。……って、なんで残念そうな顔なんですか」
「いや。なんだかんだ、チハヤをからかうのは楽しかったのになと思って────」
「は?」
雰囲気のこじれた場を和ませる小粋なジョークのつもりが、見事にチハヤにの地雷を踏んだらしいことを、先生は即座に悟った。びきり、と音がしそうなほど剣呑な顔になったチハヤが、青筋を立てながらも笑みを浮かべる。
「へえ。そうですか。私がいたって真摯に心身を鍛えようとしてるのに、先生はそんな事を考えていたんですか」
口端は笑みの形に歪んだままだが、据わった瞳からはれっきとした殺意が伝わってくる。思わず一歩後退するが、チハヤは逃すまいと距離を詰める。
こと単純な身体能力において、先生がチハヤを上回るわけもない。半ば観念しつつ、まだ助かる術はないかと諦め悪く抵抗してみる。
「チハヤ、今のはね、あくまで冗談で……。ほら、そんなに怖い顔をしちゃだめだよ。私の胆力を鍛えてもいい事ないんだからさ、ねっ?」
「言い訳は結構です。せっかく来てくれたんですし、「力」の鍛錬にも付き合ってもらいますね」
左手で包み込んだチハヤの右拳が、物々しくバキバキと音を鳴らした。