2016年02月15日

小津安二郎『晩春』(1949年)&蓮實重彦『監督小津安二郎』

父(笠智衆)ひとり、娘(原節子)ひとりの家庭。
父は年頃の娘をお嫁に出そうと、自分に再婚話があると偽ったり、見合をさせたりするが、娘は反発して仏頂面で黙り込む。
最後には「お父さんのそばにずっといたい」と心の内を吐露するが、父に説得されお嫁に行くことになる。
娘の居なくなった家でひとり、今度は父ががっくりとうなだれるのだった。
以下、不思議に思われたところをいくつか記しておこう。


その1
*原節子と父の部下(助手?)である宇佐美淳との関係
原と宇佐美は二人して海岸まで楽しいサイクリング。
沢庵を切ってそれがつながっている人はやきもち焼きという話から、原が宇佐美に「つながった沢庵お好き?」と聞くと「たまにはいいですよ」と答える会話がある。
そんな二人の様子から、観客である私たちは、おばの杉村春子と父・笠智衆と同じように、原と宇佐美は良いカップルだと思うのだが、宇佐美にはすでに結婚を決めた相手がいて、原もそれは承知しているのだった。
そして、「不思議」なのは、その後で宇佐美が原をコンサートに誘うところ。
チケットが2枚あるので一緒に行きましょうと誘う。原が「それは私のために買ったの?」と聞くとそうだと言う。
しかし、原はうらまれると嫌だからやめとくわ、とニヤニヤしながら答える。宇佐美は「沢庵つながってますね」と受ける。
コンサート会場の場面が次にあり、客席に座る宇佐美が映し出される。そして、隣の空席には宇佐美のものであろう男物の帽子が置かれている。
この部分は一体何なんだろう???
宇佐美が買ったコンサートのチケット2枚は、本当は結婚相手と一緒に行くためだったのか?本当に原のためだったのか?
宇佐美は原にその気があれば、原と一緒になりたかったのではないか?
このコンサートへの誘いは、原の気持ちを試すための最後の一押しだったのでは?などと思われたり。

その2
*父・笠智衆が再婚相手に会釈したことに対する娘・原節子の異常な程の拒絶反応
父と娘ふたりで能を観に行くと、そこに父の再婚相手の女性も来ていて、父が会釈する。
それに気が付いた娘は、非常にこわばった表情になり、鋭い視線で再婚相手の女性と父を交互に見るのだ。
そして、能楽堂を出てからも娘はぶすっとしたままで、父の食事の提案もそこそこに、父から離れて歩いて行く。
再婚に対して不潔なイメージを娘が持っていたにせよ、この激しい反応には少々驚いてしまう。

その3
*見合い相手との結婚を承諾後、父娘ふたりの京都旅行の宿での娘の嘆願
帰りの荷物をまとめながら、娘・原節子が父・笠智衆に「お父さんのそばにいさせて」と訴える。
その時、「お父さんが好きなの」と言うのに驚く。
その場面の会話が以下。かなり長くなるが引用。

父:どうした?
娘:(・・・)
父:どうしたんだい?
娘:あたし、、、
父:うん?
娘:このままお父さんと一緒にいたいの。どこにも行きたくないの。
お父さんとこうして一緒にいるだけでいいの。それだけであたし愉しいの。
お嫁に行ったって、これ以上の愉しさはないと思うの。このままでいいの。
父:だけどおまえそんなこと言ったって、、、
娘:いいえいいの、お父さん奥さんお貰いになったっていいのよ。
やっぱりあたしお父さんのそばにいたいの。お父さんが好きなの。
お父さんとこうしていることがあたしには一番幸せなの。
ねえお父さん、お願い、このままにさせといて。
お嫁に行ったってこれ以上の幸せがあるとはあたしは思えない。
父:だけど、そりゃ違うよ。そんなもんじゃないさ。お父さんはもう56だ。
お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ。
だけど、おまえたちはこれからだ。これからようやく新しい人生が始まるんだよ。
つまり佐竹君と二人で創り上げて行くんだよ。お父さんには関係のないことなんだ。
それが人間生活の歴史の順序というものなんだよ。

そりゃ結婚したって初めから幸せじゃないかもしれないさ。
結婚していきなり幸せになれると思う考え方がむしろ間違っているんだよ。
幸せは待ってるもんじゃなくてやっぱり自分たちで創り出すものなんだよ。
結婚することが幸せなんじゃない。新しい夫婦が新しい一つの人生を創り上げてゆくことに幸せがあるんだよ。
一年かかるか二年かかるか五年先か十年先か、つとめて初めて幸せが生まれるんだよ。
それでこそ初めて本当の夫婦になれるんだよ。
お前のお母さんだって初めから幸せじゃなかったんだ。
長い間にはいろんなことがあった。
台所の隅っこで泣いているのをお父さん幾度も見たことがある。
でもお母さんよく辛抱してくれたんだよ。
お互いに信頼するんだ。お互いに愛情を持つんだ。
お前がこれまでお父さんに持っててくれたような温かい心を今度は佐竹君に持つんだよ。
いいね?そこにお前の本当に新しい幸せが生まれてくるんだよ。
わかってくれるね?
娘:(頷く)
父:わかってくれたね?
娘:ええ、我儘言ってすみませんでした。
父:そうかい、わかってくれたかい。
娘:ええ、ほんとに我儘言って。
父:いや、わかってくれてよかったよ。お父さんもお前にそんな気持ちでお嫁に行って貰いたくなかったんだ。
まあ、行ってごらん。お前ならきっと幸せになれるよ。むずかしいもんじゃないさ。
娘:ええ。
父:きっと佐竹君といい夫婦になるよ。お父さん、愉しみにしているからね。
そのうちには今晩ここでこんな話をしたこときっと笑い話になるよ。
娘:すいません。いろいろご心配かけて。
父:いやあ、なるんだよ、幸せに、いいね?
娘:ええ、きっとなってみせますわ。
父:うん、なるよ。きっとなれるよ。お前ならきっとなれる。お父さん安心してるよ。なるんだよ、幸せに。
娘:ええ。


この部分について、蓮實重彦氏は『監督小津安二郎』で次のように記している。
「・・・いきなり、横坐りの姿勢を崩して左手を畳につき、瞳を潤ませて父に訴えかけるその振舞いには、ほとんど正視しがたいまでのあられもなさで性が露呈している。・・・」

続けて蓮實氏は父・笠智衆の説得が「紋切型」の羅列で、それによって娘の内面の乱れがなだめられるとは思えない、と書いている。なるほど、娘・原節子の言葉や表情は納得したように思われない。あきらめたという感じである。
とはいえ、私は父・笠智衆の言葉の一つ一つがよく耳に入り、なるほどと納得した。
この場面は、笠智衆が長々とただしゃべるだけだから、巧くやらないと退屈になるところである。
退屈になっていないのは、延々としたリハーサルの賜のようである。

田中眞澄著『小津ありき-知られざる小津安二郎』に小津組助監督だった斎藤武市へのインタヴューがあったのだが、その中で、斎藤氏は次のように話している。
「笠さんの場合だけは手取り足取り特別リハーサルをやってね。『晩春』の京都の宿、・・・あれなんか延々とすごかったよ。前日のリハーサルも。それからラストのリンゴの皮むきのあそこもね。あのころ笠さんは千葉泰樹さんの作品で『生きている画像』、あれで演技賞を取ったんです。そうしたら「演技賞を取った名優にこんなことを言っちゃ悪いけど」って笠さんに言って(笑)。」


その4
*ラストのリンゴの皮むきで父・笠智衆ががっかりし過ぎ
それまで、ずーっと淡々としていたのに比べて、最後のうなだれ方の大きいのに驚く。あんなにがっくりされると後味が悪い。

しかしながら、こういった不思議なところが、もし、なかったらと想像してみると、ずいぶんとつまらない映画になるように思われる。
アーティストの村上隆氏が先日TVで、自分の五百羅漢図について、その背景地面にあるドットを途中でずらしてひっかかりをわざと創っていると言っていた。
どこかの雑誌でもデザイナーかオーナーかが、空間に引っかかりを造って、注意喚起して考えてもらう、というようなことを言っていた。
それと同じようなことなのかもしれぬ、どうだろう。

蓮實重彦著『監督小津安二郎』の中に、京都の宿での父の説得の場面の前にある『壺の画面』について面白い指摘があったので抜粋して記しておこう。(「」内が抜粋部分。・・・部分は中略部分)
京都観光をした日の夜、宿の部屋で床を並べている父と娘。
もう電気も消して眠ろうとする時に、娘が父に話しかける。父はそれに軽く応じるが、次の瞬間にはすでに寝息をたてている。
娘はもう少し話したいことがあったのだが、寝息をたてている父の姿を確認して視線を天井に向ける。
その後に蓮實氏がその呼び方自体がおかしいと問題視する『壺の画面』が来る。
『壺の画面』として多くの特に外国の批評家がこの静止画面に執着し、これは「風流」や「もののあわれ」を表していると評論しているらしい。
しかし、蓮實氏は次のように見る。
「性を異にする親子が並んで眠るという状況は、小津にあってはきわめてまれなのである。・・・事実、ここには、性がまぎれもなく露呈されているのだ。・・・蒲団からのぞいた彼女の顔は、その瞳から愛を放射しているかのようなのだ。・・・だが、笠智衆は、隣の寝床ですでに寝息をたてはじめている。・・・ここで注目すべき事実は、・・・父親の寝顔と壺とが、ともに逆光で示されるという類似性と、父親の寝息が、壺の画面でことさら強調されているという点だろう。・・・その類似によって、彼は床の間の置物の持つ物質性と装飾品としてのよそよそしさを模倣し、そのことで娘の愛の放散に耐え、その期待を遠ざけていたことになるだろう。・・・壺は、ここでは父親そのものなのだ。」

メモ1:
節子の友だち月丘夢路は出戻りでステノグラファー

メモ2:
登場人物の癖なのか、笠智衆が葉巻を鼻にこすりつける。
(追記:笠が手にしているのは葉巻ではなく、棒状のパイプに煙草を差し込んだものらしい。そして、鼻にこすりつけているのはパイプの部分で、艶を出すために鼻の油をつけているらしい。『秋日和』では、佐分利信と中村伸郎が原節子からもらったパイプに鼻の油をつけている。)



naruse2005 at 16:13│clip!小津安二郎監督映画 | 関連書籍