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じっさいクラシックなものについて

今回は珍しく時事ネタをしよう。

ルパンVS複製人間(クローン)の話だ。そもそもルパンVS複製人間が何の話なのかよくわかってない人もいるかもしれない。そこがわからないとルパンがなぜマモーと対決するのかも、ルパンがなぜ夢を見ないのかも、あのルパンと次元の問答の意味さえわからないだろうから、その話をする。

ルパンVS複製人間は、ルパン三世の処刑から始まる。
十三階段を上り、絞首刑となるルパン。厳正なる司法解剖の結果、間違いなくルパン本人であると確認された。ルパン三世死す。完。

とはならなかった。なぜかそうはならなかった。
ところ変わって古城、銭形が棺の蓋を開け、横たわるルパンの心臓に杭を打ち込むとルパンが復活し、銭形は追いかける。いつものように逃げおおせたルパンを見上げ、「奴は本物のルパンだ」と言う銭形。こうしてルパンVS複製人間の幕は上がる。

この冒頭5分がルパンVS複製人間の本題である。どのくらい本題かというとミュウツーの逆襲の冒頭のアイツーとの会話くらい本題である。

どういうことか。そもそもルパンとは何か。

ルパン三世とは何か

ルパン三世とは概念である。ルパン三世とは、人物ではなく概念である。これが大前提だ。
かの名高き怪盗ルパンの孫であり、「狙った獲物は必ず奪う神出鬼没の大泥棒」、それがルパン三世という「概念」だ。ゆえにルパンには不可能はない。どんなに厳重な警備もかいくぐり、どんなピンチも脱することができる。なぜならそういう概念だからだ。ルパンに不可能はないという神秘性そのものがルパン三世だからだ。
そして同時にルパン三世の「天敵」もわかるだろう。それはルパンに不可能を与えるもの。ルパンの神秘を剥ぎ取り、見透かすもの。そしてルパンの名を汚すものだ。だからルパンは犯罪予測のコンピュータと対決し、原作においてはルパンの名を騙る者はことごとく抹殺してきた。

これを踏まえれば複製人間がルパン三世にとってどれほど致命的な存在であることは理解できるだろう。複製人間とは何か。クローンではあるが本作中では現実のクローンとは違い文字通り「コピー人間製造法」、完全に同じ人物を作る術である。「正真正銘本物のルパン」を作り出す術である。
複製人間の存在を許せば、ルパン三世は唯一無二の存在ではなくなる。ルパンの神秘は解析され、ルパン三世という自己同一性(アイデンティティ)は原理的に破綻する。あまつさえ、このルパンは処刑されたのだ。失敗し、捕まって、死んだのだ。これはルパン三世の抹殺に他ならない。それは他のルパンだといったところで司法解剖という客観的事実により間違いなく本物のルパンだと断定された以上は覆らない。否定のしようがない。だって複製も間違いなく本物のルパンだから。「複製人間」とはそういうことなのだ。複製のルパンが処刑された時点でたとえオリジナルが生きていようと「不可能のない男」「狙った獲物は必ず奪う神出鬼没の大泥棒」ルパン三世は死ぬ。この世から消滅するのである。

しかしそうはならなかった。なぜか。
「それを信じようとしない男がいた」からである。
自己同一性の否定された世界で人間が存在するとはそういうことである。司法解剖による本人断定は完全なる理屈であり、それを信じないのは一切の理を超えた狂気だ。この世で銭形の狂気の中にしかもはや存在できていない。それが本作のルパン三世である。
「ルパン、貴様は死んだんだぞ…!」
「らしいな。で俺も参ってんのよ。」
とあるが、本当にルパンは参っている。当然だ。銭形が来なければ本当に死んで終わりだったのだから。司法解剖による本人断定を受けてもなおルパンの死を認めない銭形がいなければ、この物語は始まりさえしなかった。ルパン三世の神秘はもはや風前の灯火であり、そしてその神秘を剥ぎ取った複製人間を倒さなければ、今度こそ消える。
複製人間を葬り去らないかぎり「ルパン三世」は存在することができない。だからルパンVS複製人間なのだ。ルパンVSマモーではなく。銭形によってかろうじて死から蘇ったルパンが、「ルパン三世」の存亡をかけて複製人間に挑む。そういう話である。

ルパンの夢とは何か

そんなこんなでマモーと対決するルパン一味だが、マモーの力を見せつけられ次元は戦意を喪失する。ルパンはマモーの起こした「奇跡」のトリックを暴くが次元は「理屈だ!てめえの言ってることは何もかもだ」と言い、そんな次元にルパンは「いいよ。信心深い奴には向かねえ仕事だ」と一人戦いに赴く。

「信心深い次元」に対し「合理的なルパン」という構図がここで示される。

次元はマモーの力を人知を超越した、神に匹敵するものだと認めている。太古の昔から人類史を陰で操り、天災すら自在に起こすマモーの力は実態がどうであれ絶対的であり、絶対的とは即ち神だ。奇しくもそれは本作の第三勢力である「アメリカ」と重なる。自由の女神に煙草の煙を吹きかける彼らが神たりうるのならマモーも神たりうる。次元は凄腕のガンマンだ。だがガンでは神(オカルト)は倒せない。だから次元は戦いを降りる。

ではルパンは、「合理的」なルパンがマモーに戦いを挑むのは何故か。その合理精神で神の正体を暴くためか。違う。順序が逆だ。ルパンは合理精神がゆえに、自分がこの戦いから降りられないことを知っているからである。

複製人間とは何か。ルパンから見ればそれは神秘ではなく理屈だ。ルパンを唯一無二でなくする理屈だ。「司法解剖による本人断定」という理屈で、「ルパン三世が死んだ」という理屈でルパン三世は合理により抹殺される。ルパンは理詰めで追い詰められているのである。では理により追い詰められるものは何か。
それはオカルトである。「ルパン三世」こそがオカルトなのだ。ルパン三世という神秘が、複製人間という理屈(ハイテク)により脅かされている。そうだ、複製人間はルパンに言わせれば所詮ハイテクであり、しかしハイテクだからこそルパンを追い詰める。これが極めて合理的な危機だということを、合理的なルパンだからこそ感じ取っている。だからルパンは戦いを挑むのだ。この戦いは最初から「ルパンVS複製人間」だった。ルパン一人の決闘だったのだ。だから最終決戦に次元がいなくても成り立つ。逆に五エ門はルパンと同じくオカルト(なんでも切れる斬鉄剣)の側であり、ルパンと同様に本作中で理屈=ハイテク(合金チョッキ)に敗れている。ゆえに雪辱を晴らすべく斬鉄剣が最終決戦の決め手となるというわけ。

ルパンという人間がマモーという神に挑むのではなく、マモーというハイテクに脅かされたルパンというオカルトが、自身の存在をかけて戦う話だ。

ルパンを脅かすものは常に「ハイテク」だった。バイバイリバティーではコンピュータネットワークの発達によりルパンは引退にまで追い詰められ、TVシリーズpart5では章を通じてデジタル社会との対決が描かれた。オカルトであるルパンにとって神秘を剥ぎ取るハイテクは鬼門だ。その「正体」を暴かれ「見透かされ」たら「ルパン三世」は存在できなくなる。「見透かされたオカルト」は消滅するしかない。その中でも特に複製人間は、存在しているだけでルパンの神秘を奪うのだ。ひとえにその合理性、ルパンの唯一無二性を侵害する理屈によって。

ルパンは神だ。神は信じる者がいなければ存在できない。そして今ルパン三世をルパン三世たらしめているもの、「不可能のない男ルパン」を信じているのは唯一人、銭形だけである。しかし銭形だけが信じているのでは駄目だ。なぜなら銭形もまたオカルトだから。「ルパンを追い続ける男」というオカルトであり、ルパンの分かたれた半身だ。それは一人の人間の内面世界に過ぎない。「ルパン三世」が真に復活するためには、複製人間との決着をつけなければならない。

一人戦いに赴くルパンを次元は止める。

夢を女=不二子ととらえる次元。これはわかりやすい。
次元はモンローとハンフリーボガートのファンだ。言わずと知れた銀幕のスターだ。ハンフリーボガードのような、ハードボイルドでダンディなカッコいい男に憧れている。「アメリカ映画に出てくるようなカッコいい男になりたい(小林氏曰く)江戸っ子」、それが次元大介という男だ。次元は自分の外に具体的な憧れるビジョン=夢を持っている。そんな次元が思い描く、男が命を懸けて取り返しに行くものといえば惚れた女以外にありえない。(これをヒロト=マーシーの法則と私は呼んでいる)

もちろんルパンの取り戻しに行く「夢」は不二子ではない。ぶっちゃけ今作のルパンはそこまで不二子に関心がない。むしろ不二子に執心していたのはマモーのほうだ。今作の不二子の役割は女盗賊ではなく完全に男を破滅させるファムファタルだ。だから不二子に執着したマモー(クローン)は破滅した。一方でルパンは宇宙に逃げ出すマモー(オリジナル)に爆弾を張り付け、徹底的に抹殺している。不二子を取り戻すためならオリジナルと戦う必要はない。ルパンの夢を取り返すためにはオリジナルと、複製人間の術者であるマモーと決着をつける必要があったのだ。ではルパンの夢は何か。ここまでの話で何度も言ってきてもう言うまでもないと思うが言う。ルパンが今作においてマモーに奪われ、取り戻さなければならないものは何か。

ルパン三世の夢、それはルパン三世そのものだ。「狙った獲物は必ず奪う神出鬼没の大泥棒」という夢。だからルパンは夢を見ない。ルパン自身が夢だから。

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胡蝶の夢のようなものだ。「ルパン三世」という夢を、私たちも見ている。
ルパンはマモーの追い求める永遠の命に興味がない。ルパン三世という夢は不老不死に縋るまでもなく永遠だからだ。それが夢である限り、古びない。朽ちない。現に今も「ルパン三世」は続いていることがその証左だ。
肉体の死を超越した存在。それは肉体の不死に縋るマモーとは対照的だ。だからマモーは夢を見ないルパンを恐れた。夢そのものである真なる神、ルパンを前にすれば、例え世界を思うままに操ろうとも己は所詮ハイテク、神ではなく神を脅かす人の業でしかないことを思い知ったからだ。神を脅かすものはいつだって人だ。そして人なのはマモーのほうだ。夢を追い、愛に死ぬのはいつだって人だからだ。

ルパンは自分自身を取り戻しに行く。

そして、だからこそエンディングが「ルパン音頭」なのである。「オレはルパンだぞ」と、ルパン三世を取り戻したことを高らかに歌い上げる勝利宣言の歌、これがなくてはこの戦いの幕引きにならない。ミサイルの雨をかいくぐり、銭形から追われる「神出鬼没の大泥棒」ルパン三世はこうして「取り戻された」。これがルパンVS複製人間の顛末である。

そして近年、これと全く同じテーマに、全く同じ方向性からアプローチする作品が現れた。「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」である。

最も大きな罪とは何か

野原ひろしの人格を移植されたロボとーちゃんと、元の野原ひろし。果たして「本物の野原ひろし」はどちらだろうか。
もちろん元の生身のほうの野原ひろしが本物でロボとーちゃんは後から作ったのだから偽物だと答えるあなたは修業が足りない。この映画は中盤までの徹底したミスリードによりロボとーちゃんを「ロボに改造された本物の野原ひろし」と誤認させており、その過程で「たとえ体がロボでも、あなたは本物の野原ひろしだ」という言質を周囲から、野原みさえから、我々視聴者からすらも勝ち取ることに成功している。人を規定するものが記憶であれ、人格であれ、信念であれ、愛情であれ、そのいずれだとしてもロボとーちゃんは「野原ひろし」である要件を十分に満たしている。ただ一点の計算違いは彼が「ロボに改造された野原ひろし」ではなく、「野原ひろしの人格をコピーされたロボ」に過ぎず、オリジナルの野原ひろしは依然として存在していることだ。では「ロボに改造された野原ひろし」と「野原ひろしの人格をコピーされたロボ」の違いは何か。「野原ひろしの人格をコピーされたロボ」と「オリジナルの野原ひろし」の真贋を別する一線は、どこにあるのか。


ないのだ。そんなものは。


野原ひろしが「存在」するのならば、その「存在」を複製したものは、理屈で言って本物と言う他ない。どちらも本物なのだ。これは複製人間と全く同じ状況である。複製が作られた時点でどちらも本物であり、その両者ともが唯一無二(オリジナル)である資質を永久に失う、それが複製人間の術である。どちらも本物だから、どちらも唯一ではない。一度でも複製が作られた時点で、オリジナルという意味が理屈上から不可逆的に消失するのだ。どちらがオリジナルかという問い自体に意味がなくなってしまう。唯一無二(オリジナル)とは、それが過去未来あらゆる時間軸において複製不可能であることを指すのだから。

だからルパンはマモーから、処刑されたのがコピーだと聞かされてもなお戦いをやめなかった。そんな言質が今更何の役にも立たないことを承知していたからだ。それは造物主の言に過ぎず、造物主の言に従うことは永遠に造物主に存在を保証されることになる。ルパンは神(唯一無二)に返り咲かなくてはならない。その唯一の方法は複製人間の主であるマモーを倒す以外にない。だからルパンはオリジナルのマモーと決着をつける必要があった。

映画のラスト、自身の限界を察したロボとーちゃんは、生身の野原ひろしと「本物の野原ひろし」の座をかけ、腕相撲で決着をつけようとする。野原ひろしを「唯一無二」へと戻すために。しんのすけは「両方のとーちゃん」を応援する。しんのすけにとってはどちらも「本物のとーちゃん」だからだ。唯一無二の野原ひろしよりも両方のとーちゃんが大事だからだ。どちらの野原ひろしもしんのすけにとっては本物であり、そこに優劣はないし、唯一無二を求めない。「とーちゃん」が二人いたって別にいいからだ。「唯一無二の野原ひろし」を決める勝負においてしんのすけの立場は完全にフラットであり、彼の意見は何ら事態に寄与しない。両者の力は拮抗し、勝負はつかない。

しかし、この二人の野原ひろしを「唯一無二」に戻せる人物がたった一人、この世にたった一人存在する。野原みさえという、野原ひろしの妻が。

野原みさえの発した「あなた、勝って!」の叫びで、勝負は決する。その「あなた」の指すものは唯一の存在でなければならないこと、そして野原ひろしが唯一でいるためには、自分は「存在してはならなかった」ことを悟ったロボとーちゃんは、生身の野原ひろしに「唯一の野原ひろし」を託し、機能を停止した。これは「野原ひろしの処刑」である。そしてその刑を執行できるものはこの世に一人しかいない。自己同一性の否定された世界で人間を存在させるものは何か、それは一切の道理を超えた狂気である。あるいはそれを他の名で呼ぶこともあるかもしれない。しかしいずれにせよそれは一切の理屈を曲げるものだ。司法解剖で本人と断定されてなおルパンの死を信じなかった銭形がルパンを存在させたように。もはや唯一の存在ではなくなった野原ひろしに「あなた」と呼び掛けられる人がたった一人いるように。

これが人間複製の罪だ。本作の黒幕を逮捕する段々原婦警は、「あなたの一番の罪は、人の心を玩具のように弄んだことです」と告げる。人間存在を侵犯し、最も愛する人に死刑執行の引き金を引かせる。そうしなければその思いの指定する対象は永遠に不在となる。その思いは唯一の対象しかとることができないからだ。愛に死ぬのはいつだって人間だ。だから最も残酷な結末をもたらす。事件後、野原一家はもとの野原一家に戻る。何もなかったし、何も喪われなかったのだ。ただそこに、「なかったもの」の残滓が存在しているというだけで。


越えてはならない一線というものがある。少なくとも、私たちがまだここにいたいのならば。
そんな話。

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