江戸時代、佐渡の金山と並ぶ鉱山として全国に知られ、
明治になってからは、日本の近代化に貢献した、
生野銀山の跡地を訪ねました。
最寄り駅のJR生野駅に、
途中のJR寺前駅で乗り継いで、
JR姫路駅から1時間10分ぐらいで着きました。

この日の和田山行きの単行気動車は、
すごく混雑していて、降りるのも一苦労でした。
にもかかわらず、このJR生野駅で降りたのは、
私の他には、同じぐらいの年頃の男性が一人だけでした。
お話をうかがうと、大阪から来られていて、
歩いて銀山跡に行かれるとか・・。
ご一緒することにしました。

銀山跡まで、約4km。
まずは、JR生野駅から東を流れる市川に向かって歩きます。
突き当たりは生野中学校で、橋を渡った向こう側です。
橋の手前を左折して、北に向かって進みます。
この道は、鍛冶屋町通りで、旧馬車道でした。
「銀の馬車道」と、播但線の気動車に描かれていたように、
産出した鉱産物を姫路の飾磨港まで輸送する交通路でした。
口銀谷(くちがなや)の信号を右に折れて進みます。

左側に、生野銀山の旧職員官舎がありました。
黒沢映画にたくさん出演した俳優、志村喬は、
お父さんが生野鉱山の職員だったので、
ここで生まれたのだそうです。

山神橋を過ぎると、町並みが途切れ、
市川沿いの一本道になります。
三菱マテリアル生野事業所です。
明治元(1868)年、生野銀山は官営鉱山となり、
フランス人鉱山師の指導で、施設や設備の近代化を進め、
明治29(1896)年三菱合名会社に払い下げられたのです。
2人でひたすら歩きます。
男性は、前日、四国八十八カ所霊場巡りの
満願を迎えられたそうです。
奥銀谷(おくがなや)の小野大橋で市川を渡ります。
橋に刻まれている名前は「このおおはし」でした。

道は登り坂になり、登り切ったら銀山跡地です。

鉱山博物館の入り口の門です。

そこには、菊の紋章がありました。
16弁の菊の紋章、皇室の御紋です。
明治22(1889)年から、
三菱に払い下げられる明治29(1896)年まで、
宮内省御料局所管の皇室財産となっていました。
その時につくられたものなのでしょう。

菊の紋章のある門の手前に、
明神鉄道の車両が展示されていました。
通称「1円電車」です。
日本一のスズ鉱山の明延(あけのべ)と
神子畑(かみこばた)選鉱場間、6.1kmを結んで、
鉱石を運搬していました。
昭和4(1929)年に開通しました。

人も乗せましたが、運賃は当初は50銭でした。
昭和27(1952)年に1円となり、
昭和52(1977)年に、
明延鉱山の閉山によって鉄道が廃止されるまで、
1円のまま据え置かれていました。
そのため、明神鉄道は「1円電車」と呼ばれていたのです。

鉄道車両が展示されているところには、
石垣にカラミ石が使われていました。
カラミ石は、銅を精錬する過程で出た不純物を固めたものです。
生野町では建築資材として使われていました。
初めて見る鉄道、夢中で写真を撮っていると、
一緒に歩いて来た大阪の男性と、
いつの間にか離ればなれになっていました。

門を入ると、すぐ前に、レストラン・マロニエ。

鉱山職員が食べていたハヤシライスが復活していました。
昭和30年代の生野町の人口は1万人程度、
町内にあった社宅には、
都会からやってきた、鉱山につとめる人や家族が生活していて、
モダンな雰囲気が漂っていました。
社宅で、奥さんがつくった手づくりのハヤシライスに
町の人は「こんな食べ物があったのか!」と感心したそうです。

一皿、800円。 おいしかったです。

中に展示されていた銀塊。30kg以上あるのだそうです。

並んで展示されていた銀鉱石。

鉱山資料館。
生野銀山の歴史が展示されています。

近代化される以前の採掘のようすを再現した展示物です。
狭い坑内で働く人たちの姿が表現されています。

いよいよ、坑道の見学です。
900円の入場料を支払って、生野代官所の門から入ります。
ちなみに、江戸時代の代官所は、
現在、生野小学校が設置されているところに
あったと言われています。
生野銀山は、大同(806~810)年間の開坑といわれています。
中世には、但馬領主の山名祐豊が鉱山経営をしていたようです。
その後、織田信長は堺の商人、今井宗久を派遣して鉱山を経営し、
豊臣秀吉も、生野を直轄地として治めたと言われています。
江戸時代には、幕府の天領となり、
11代の奉行、40代の代官によって支配されました。
徳川家光の時に最盛期を迎えたと言われています。

金香瀬坑(かながせこう)の入り口です。

鑿(のみ)の跡もなまなましい坑道です。

生野銀山は明治になって官営鉱山になりました。
そのとき、鉱山の近代化に貢献したのは、
ジャン・フランソワ・コアニエという、
「政府のお雇い外国人」でした。
フランスのサンテチェンヌ鉱山学校を卒業した、
来日時、30代前半の若き鉱山師でした。

坑道は、900mまで入ることができました。
案内もていねいで、よくわかりました。

鉱脈が現れています。白い部分がそれです。

発破作業の説明がしてあるところです。
発破時の音量を体験できる装置も設置されていました。

前の口に鉱石を入れ、後ろのトロッコに収めるローダー。

蓄電池で動く機関車。

太閤水。
豊臣秀吉が坑内に入ったとき、
この水で、茶を点てて飲んだと言われています。
もちろん、今は「飲んではいけません」。

坑道の出口になっている滝間歩坑(たきまぶこう)。
豊富な展示物が楽しい坑道でした。
日本の近代化を支えた生野銀山、
閉山してしまいましたが、今もかつての栄光を
伝えてくれています。
JR生野駅からご一緒した方の姿を捜したのですが、
結局、見つけることができませんでした。
きちんとしたご挨拶ができないまま、
お別れしてしまったことが、残念でした。
明治になってからは、日本の近代化に貢献した、
生野銀山の跡地を訪ねました。
最寄り駅のJR生野駅に、
途中のJR寺前駅で乗り継いで、
JR姫路駅から1時間10分ぐらいで着きました。
この日の和田山行きの単行気動車は、
すごく混雑していて、降りるのも一苦労でした。
にもかかわらず、このJR生野駅で降りたのは、
私の他には、同じぐらいの年頃の男性が一人だけでした。
お話をうかがうと、大阪から来られていて、
歩いて銀山跡に行かれるとか・・。
ご一緒することにしました。
銀山跡まで、約4km。
まずは、JR生野駅から東を流れる市川に向かって歩きます。
突き当たりは生野中学校で、橋を渡った向こう側です。
橋の手前を左折して、北に向かって進みます。
この道は、鍛冶屋町通りで、旧馬車道でした。
「銀の馬車道」と、播但線の気動車に描かれていたように、
産出した鉱産物を姫路の飾磨港まで輸送する交通路でした。
口銀谷(くちがなや)の信号を右に折れて進みます。
左側に、生野銀山の旧職員官舎がありました。
黒沢映画にたくさん出演した俳優、志村喬は、
お父さんが生野鉱山の職員だったので、
ここで生まれたのだそうです。
山神橋を過ぎると、町並みが途切れ、
市川沿いの一本道になります。
三菱マテリアル生野事業所です。
明治元(1868)年、生野銀山は官営鉱山となり、
フランス人鉱山師の指導で、施設や設備の近代化を進め、
明治29(1896)年三菱合名会社に払い下げられたのです。
2人でひたすら歩きます。
男性は、前日、四国八十八カ所霊場巡りの
満願を迎えられたそうです。
奥銀谷(おくがなや)の小野大橋で市川を渡ります。
橋に刻まれている名前は「このおおはし」でした。
道は登り坂になり、登り切ったら銀山跡地です。
鉱山博物館の入り口の門です。
そこには、菊の紋章がありました。
16弁の菊の紋章、皇室の御紋です。
明治22(1889)年から、
三菱に払い下げられる明治29(1896)年まで、
宮内省御料局所管の皇室財産となっていました。
その時につくられたものなのでしょう。
菊の紋章のある門の手前に、
明神鉄道の車両が展示されていました。
通称「1円電車」です。
日本一のスズ鉱山の明延(あけのべ)と
神子畑(かみこばた)選鉱場間、6.1kmを結んで、
鉱石を運搬していました。
昭和4(1929)年に開通しました。
人も乗せましたが、運賃は当初は50銭でした。
昭和27(1952)年に1円となり、
昭和52(1977)年に、
明延鉱山の閉山によって鉄道が廃止されるまで、
1円のまま据え置かれていました。
そのため、明神鉄道は「1円電車」と呼ばれていたのです。
鉄道車両が展示されているところには、
石垣にカラミ石が使われていました。
カラミ石は、銅を精錬する過程で出た不純物を固めたものです。
生野町では建築資材として使われていました。
初めて見る鉄道、夢中で写真を撮っていると、
一緒に歩いて来た大阪の男性と、
いつの間にか離ればなれになっていました。
門を入ると、すぐ前に、レストラン・マロニエ。
鉱山職員が食べていたハヤシライスが復活していました。
昭和30年代の生野町の人口は1万人程度、
町内にあった社宅には、
都会からやってきた、鉱山につとめる人や家族が生活していて、
モダンな雰囲気が漂っていました。
社宅で、奥さんがつくった手づくりのハヤシライスに
町の人は「こんな食べ物があったのか!」と感心したそうです。
一皿、800円。 おいしかったです。
中に展示されていた銀塊。30kg以上あるのだそうです。
並んで展示されていた銀鉱石。
鉱山資料館。
生野銀山の歴史が展示されています。
近代化される以前の採掘のようすを再現した展示物です。
狭い坑内で働く人たちの姿が表現されています。
いよいよ、坑道の見学です。
900円の入場料を支払って、生野代官所の門から入ります。
ちなみに、江戸時代の代官所は、
現在、生野小学校が設置されているところに
あったと言われています。
生野銀山は、大同(806~810)年間の開坑といわれています。
中世には、但馬領主の山名祐豊が鉱山経営をしていたようです。
その後、織田信長は堺の商人、今井宗久を派遣して鉱山を経営し、
豊臣秀吉も、生野を直轄地として治めたと言われています。
江戸時代には、幕府の天領となり、
11代の奉行、40代の代官によって支配されました。
徳川家光の時に最盛期を迎えたと言われています。
金香瀬坑(かながせこう)の入り口です。
鑿(のみ)の跡もなまなましい坑道です。
生野銀山は明治になって官営鉱山になりました。
そのとき、鉱山の近代化に貢献したのは、
ジャン・フランソワ・コアニエという、
「政府のお雇い外国人」でした。
フランスのサンテチェンヌ鉱山学校を卒業した、
来日時、30代前半の若き鉱山師でした。
坑道は、900mまで入ることができました。
案内もていねいで、よくわかりました。
鉱脈が現れています。白い部分がそれです。
発破作業の説明がしてあるところです。
発破時の音量を体験できる装置も設置されていました。
前の口に鉱石を入れ、後ろのトロッコに収めるローダー。
蓄電池で動く機関車。
太閤水。
豊臣秀吉が坑内に入ったとき、
この水で、茶を点てて飲んだと言われています。
もちろん、今は「飲んではいけません」。
坑道の出口になっている滝間歩坑(たきまぶこう)。
豊富な展示物が楽しい坑道でした。
日本の近代化を支えた生野銀山、
閉山してしまいましたが、今もかつての栄光を
伝えてくれています。
JR生野駅からご一緒した方の姿を捜したのですが、
結局、見つけることができませんでした。
きちんとしたご挨拶ができないまま、
お別れしてしまったことが、残念でした。