没落貴族の成り上がり~母のレシピは異世界知識の塊でした。
Nami
第1話 灰と種火
第一話:灰と種火
王国暦1138年、秋。アストレア王国、王都リンディスファーン。
澄み渡る空は、まるで磨き上げられたラピスラズリのようだった。王都の象徴である白亜の王城を、黄金色の陽光が優しく包み込んでいる。街路樹の葉は赤や黄に色づき始め、乾いた風が心地よく頬を撫でる。収穫を終えた地方からの荷馬車が賑やかに行き交い、誰もがこの穏やかな平和が永遠に続くものと信じて疑わなかった。
リンドバーグ公爵家の屋敷もまた、祝福の光に満ちていた。
今日、この家の嫡男であるクラウス・フォン・リンドバーグは、十九歳の誕生日を迎えていた。
「クラウス、誕生日おめでとう」
柔らかな声に名を呼ばれ、クラウスは書物から顔を上げた。そこに立っていたのは、母である公爵夫人イザベラだった。陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の姿は、まるで宗教画の聖女のように穏やかな光彩を放っていた。歳は四十を超えているはずだが、その美しさは少しも衰えていない。
「母上。ありがとうございます」
クラウスは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。背筋の伸びたその立ち姿は、若くして次期公爵と目されるにふさわしい気品を備えていた。白銀の髪は母から、そして理知的な青い瞳は父から受け継いだものだ。
「父上は?」
「旦那様なら、急な呼び出しで王城へ。すぐに戻られるわ」
イザベラの言葉に、クラウスは微かに眉をひそめた。父、ライオネル公爵は王国宰相の座にはないものの、その公正さと卓越した政治手腕から「無冠の宰相」と呼ばれ、国王アリストール三世の最も信頼する臣下だった。その父が、息子の誕生日の朝に呼び出される。何かが起きている、そう直感が告げていた。
近年、王宮では父ライオネルを中心とする改革派と、保守派の筆頭であるヴァロワ侯爵との対立が激化していた。民を富ませ、国を強くするための改革を訴える父と、旧来の貴族の権益を守ろうとするヴァロワ侯爵。両者の溝は、もはや修復不可能なほどに深まっていた。
「心配いりませんよ、クラウス。きっと良い知らせを持ってきてくださるわ」
母はそう言って微笑むと、一冊の分厚い本を差し出した。美しい革で装丁された、使い込まれた手帳のような本だった。
「これは…?」
「私の宝物。あなたに譲るわ。…いいえ、あなたに託します」
それは、母が大切にしている「レシピ手帳」だった。彼女は貴族の務めの傍ら、厨房に立って新しい料理やお菓子を考案することを趣味としていた。公爵夫人が厨房に立つなど前代未聞だと陰口を叩く者もいたが、彼女の作る料理は、いつも家族を笑顔にした。
「母上、しかしこれは、母上が一番大切にされているものでは」
「ええ。だから、あなたに。これから何があっても、これだけは手放してはなりません。いいですね?」
その言葉は、単なる誕生日プレゼントを渡す響きではなかった。どこか切実で、未来を案ずるような響きを帯びていた。クラウスがその真意を問い質す前に、母は「さあ、厨房へいらっしゃい。あなたの好きなアップルパイを焼きましょう」と、彼の背中を優しく押した。
その日の昼下がりまで、屋敷は穏やかな時間に満ちていた。厨房に満ちる甘い林檎とシナモンの香り。使用人たちの祝福の言葉。妹のリーゼロッテが悪戯っぽくクラウスの頬にクリームを付け、家族全員で笑い合った。
その幸せが、偽りの薄氷の上にあるものだとは、誰も気づかずに。
悲鳴が上がったのは、夕暮れが屋敷の壁を茜色に染め始めた頃だった。
庭先がにわかに騒がしくなり、鋼のぶつかり合う甲高い音が響き渡る。クラウスが窓から外を見ると、信じられない光景が広がっていた。
屋敷の門が破られ、なだれ込んでくるのは王家の紋章を掲げた近衛騎士団。しかし、その指揮を執っているのは、ヴァロワ侯爵家の旗印を掲げた男だった。リンドバーグ家の衛兵たちが必死に応戦しているが、その数はあまりに少ない。騎士たちの剣は容赦なく衛兵たちの体を貫き、庭の美しい芝生を瞬く間に鮮血で染め上げていく。
「何が起きているんだ!」
クラウスが部屋を飛び出すと、廊下の先から血相を変えた執事が走ってきた。
「若様!ヴァロワ侯爵が…!ライオネル公爵様に、王位簒奪の容疑がかけられました!これは罠です!」
「父上が、反逆だと…?馬鹿な!」
ありえない。父ライオネルは、誰よりも国王とこの国を敬愛していた。それが、ヴァロワ侯爵の仕組んだ罠であることは火を見るより明らかだった。
屋敷のあちこちから悲鳴と怒号が上がる。美しいタペストリーが引き裂かれ、年代物の磁器が叩き割られる音が響く。平和な館は、一瞬にして地獄の戦場へと姿を変えた。
ホールへ駆けつけると、そこには既に覚悟を決めた家族の姿があった。
抜身の剣を構える父ライオネル。その傍らで毅然と立つ母イザベラ。そして、母の腕に抱かれ、恐怖に震える妹リーゼロッテの隣には、リンドバーグ騎士団長ギルバートが静かに控えていた。
「父上!」
「来たか、クラウス。…よく聞きなさい、二人とも」
父の声は、嵐の中心のように静かだった。
「これは、我々の負けだ。ヴァロワは周到に準備をしていた。もはや、弁明の機会すら与えられまい。リンドバーグの名は、今日ここで地に堕ちる」
「そんな…!」
「だが、血は絶やしてはならん。お前たちだけでも、生き延びるのだ」
父はクラウスとリーゼロッテの二人を見据えて告げた。それは、息子と娘の未来を思う、父親の顔だった。
「ギルバート、子供たちを頼む」
「…御意」
ギルバートは無言で頷き、クラウスとリーゼロッテのそばに立った。
「嫌です、父上!私もここで戦います!」
クラウスが叫ぶと、父の叱責が雷鳴のように響いた。
「ならん!犬死にするのが嫡男の務めか!リーゼロッテを守り、生き延び、真実を掴め!いつの日かリンドバーグの名誉を取り戻すのだ!それがお前に与える、私からの最後の命令だ!」
母が二人を強く抱きしめた。
「クラウス、リーゼロッテを頼みます。リーゼロッテ、お兄様を支えるのですよ」
そして、クラウスの懐にあるレシピ手帳に触れ、囁いた。
「その本が、あなたたちを導き、守ってくれます。さあ、もう行きなさい」
母が二人の体をギルバートの方へ押しやる。「お父様!お母様!」と泣きじゃくるリーゼロッテの手を、クラウスは強く握りしめた。
「若様、姫様、こちらへ!」
ギルバートに促され、三人は裏口へと続く秘密の通路へ駆け込む。最後に振り返った時、ホールになだれ込んできたヴァロワ侯爵の兵士たちと、敢然と剣を構える両親の姿が見えた。それが、クラウスとリーゼロッテが見た、父と母の最後の姿だった。
屋敷の地下通路を、三人は無言で走り続けた。湿った土と黴の匂い。遠くから聞こえる喧騒が、少しずつ小さくなっていく。リーゼロッテの嗚咽だけが、暗闇に響いていた。
やがて、ギルバートが足を止め、壁の一部を押した。隠し扉が開き、王都の下水道へと繋がる臭気が鼻をついた。
「若様、姫様、ここから西へ。下水道を抜ければ、王都の外れに出られます」
ギルバートはそう言うと、自分の外套を裂いて作った粗末な頭巾を二人に手渡した。そして、革袋を一つクラウスに。中には、わずかな金貨と干し肉、水筒が入っていた。
「ここからは、我らはもはや貴族ではありません。名もなきただの逃亡者です。お名前も、その誇りも、一度お捨てくだされ」
その言葉は、これからの過酷な旅の始まりを告げていた。
「我が命に代えても、お二人をお守り致します。それが、公爵様より賜った我が最後の務め」
ギルバートは深々と頭を下げた。クラウスは、泣き続ける妹の肩を強く抱き寄せた。絶望と怒り、そして無力感に、心が張り裂けそうだった。だが、守るべき存在が腕の中にいる。それが、かろうじて彼の心を繋ぎとめていた。
彼は歯を食いしばり、ギルバートに頷き返した。そして、汚水の匂いが立ち込める暗闇の中へと、一歩を踏み出した。
十九歳の誕生日。
クラウス・フォン・リンドバーグは、その日、多くを失った。
名誉も、両親も、帰る場所も。
しかし、彼の腕の中には守るべき妹が、背後には忠実な騎士がいた。
灰にまみれた彼の物語は、この日、三つの消えそうな種火として、始まったのだった。
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