考え事をしながら急いで買い物をしていたら、商品を持ったまま無意識に店を出てしまった──。
「盗む気はなかった」と一貫して否認した男性に対して、裁判所は今年9月、無罪の判決を言い渡した。「認めた方が早い」と考える人もいる小さな事件の裏には、多くの冤罪被害者が生まれる可能性がある。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●「盗む気はなかった」、信じてもらえず逮捕
事件は2024年7月2日午後6時半過ぎに起きた。
東京都に住む会社員の男性(55)は、いつも利用している地元のスーパーに立ち寄った。その日は平日の夕方で、客が多い時間帯だった。
男性は同居する母親に安否確認の電話をした後、商品棚からプロテインを左手で取った。その約10秒後、今度は右手で発酵乳のR1を2本をピックアップし、急いでレジに向かった。
その途中、右肩にかけていたトートバッグから財布を取り出そうと、右手をバッグに入れた際、R1と財布が入れ替わる形になった。それに気づかないまま、プロテインのみ会計を済まして店を出たところ、保安員に声をかけられた。
ハッとした男性は「申し訳ないです。会計を忘れました」とすぐに謝罪した。話せば理解してくれるだろうと、店のバックヤードに移動してからも「盗む気はなかった」と説明したが、「意味がわからない」と警察を呼ばれ逮捕された。
写真はイメージ(IYO / PIXTA)
●家庭の事情を説明するも「同情ひこうというのか」と冷遇
男性に前科前歴はなく、被害額は518円だった。検察側の勾留請求が却下され、3日後に釈放された。しかし、3カ月後に再び検察官の取り調べを受け、「やったんだろ」などと圧をかけられたという。
男性の母親は2024年4月ごろ、急性心筋梗塞で入院し、退院後は介護が必要な状態になった。さらに男性は仕事が忙しく、睡眠時間が少なくなっていたことで事件のあった7月ころは心身の疲労が溜まっていた。
そうした事情も説明したが、検察官は「そんなことで同情をひこうというのか」と言ってきたという。そして、さらに1カ月が経った頃、起訴の通知が届いた。
インターネットで調べると、日本では起訴された場合の有罪率は99%を超えることを知った。
「愕然としました。何らかの罪人になってしまうのかなと覚悟しましたが、わざとやっていないものはやっていないので、最後までしっかりと主張しようと思いました」
東京簡易裁判所(kash* / PIXTA)
●弁護人が感じた違和感
男性は、逮捕された際に当番弁護士として接見に来てくれた川口真輝(まさき)弁護士に弁護を依頼した。
初めての万引きで被害額も少ない場合、本人が認めれば逮捕されないことは珍しくない。職場への復帰などを考えた時、「認めた方が早い」と考える人も少なくない。
だが、男性は一貫して否認していた。さらに、事件現場がこれまで日常的に利用してきた店であることや、商品を手に取る直前に母に電話していたことなどから、川口弁護士は「その状況でいきなり万引きするのは不自然」と感じたという。
2025年2月、東京簡易裁判所で裁判が始まった。争点は「盗む意図があったかどうか」、つまり「故意の有無」に絞られた。
川口弁護士は、男性の母親との通話記録や過去にその店を利用した際のレシートなどの証拠を集めた。そして法廷では、男性が安定した仕事についていること、母の介護や家事のほぼ全てを一人でこなしていたこと、トートバッグの中のドリンクが2本とも外から容易に見える上部に入っていたことなど、当時の状況を細かく分析した上で、男性は「単に会計を忘れてしまったにすぎない」と主張した。
●川口弁護士「背景にある事情を丁寧に聞き取ってほしい」
東京簡裁の園原敏彦裁判官は9月12日、母親の介護疲れなどによる注意力の低下に触れ、会計を忘れてしまったという男性の主張が「およそあり得ないわけではない」と指摘 。
その上で、「窃盗の故意があったと認めるには合理的な疑いが残る」として、検察側の罰金30万円の求刑に対して、無罪を言い渡した。検察官は控訴せず、確定した。
今回の経験を経て、男性は「司法の力が働いた時、一市民はどうしようもなくなると痛感しました。(捜査機関には)最初に私の話をちゃんと聞いてほしかった」と話す。
逮捕された際にメディアに報道されなかったことは不幸中の幸いだった。職場も理解があり、仕事をしながら刑事裁判を闘いきれた。男性は今では、買い物に行った際、「ペットボトル1本だけでも絶対にカゴを持つようにしている」という。
川口弁護士は「スーパーの保安員には男性が万引きしたという決めつけが強くありました。捜査機関が事件の背景にある本人の事情をもう少し丁寧に聞き取らないと、今回のようなことが起きてしまうと思います」。