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ありふれた職業で世界最強  作者: 厨二好き/白米良
ありふれた番外編 世界のアビスゲート卿から
220/545

ベルセルクは、最初から貴方の中にいた

 ゴゴゴッという地鳴りめいた音や、ドンッという腹の底に響く衝撃音が伝わる。


 それに「ひゃぁっ」と可愛らしい悲鳴を上げてぴょんっと飛び上がったのは、ダウンを追い駆けているエミリーだ。


 エミリーは隣を走るヴァネッサが、今は二人きりということもあってか、出会った頃のクールビューティヴァネッサさんモードになっていて全く動じていない様子を見て、少し恥ずかしそうに顔を俯かせた。


「恥じらいの表情――プライスレス」

「ああ、うん。お仕事モードでも、中身は駄ネッサなのね」


 カンッカンッと靴が金属製の床を打つ音が響く中、キリッとした表情でそんなことを言うヴァネッサに、エミリーは乾いた笑みを浮かべる。


「それにしても、コウスケさんは随分と派手にやっていますね」

「そうね。それだけ、あのベルセルクがとんでもないってことなんでしょうね」

「肉の塊――いったい、あれは……」


 ヴァネッサの呟きに、エミリーは推測を語って聞かせた。それは、浩介が目の当たりにして辿り着いた答えと同じ。人の業の深さを示すような推測だった。


 増殖と再生という、おおよそ人間では太刀打ちできないような能力を有するベルセルク・キメラの正体を聞いて、ヴァネッサの表情が僅かに動いた。それは、浩介を心配したが故のものではなく、己の推測を平然と語るエミリーに向けられたものだった。


「とんでもない能力なのは分かりましたが……グラント博士。あまり、心配そうな様子がありませんね?」


 チラリと向けられたヴァネッサの視線を感じつつ、しかし、エミリーは前に向けた眼差しを逸らすことなく返答した。


「心配よ。たとえ、どれだけこうすけが強くても、不測の事態なんていくらでも起こり得る。怪我をするかもしれないし、あんなに怒ったこうすけなんて初めて見たから、何か無茶をするんじゃないかって不安もあるわ」

「そう、なのですか?」


 その割には平然としているように見えるエミリーに、ヴァネッサは不思議そうに首を傾げた。そんなヴァネッサに、エミリーは苦笑いしながら「でも」と続きを口にした。


「それでも、あの人は……私のヒーローだから」


 だから、信じていると。どんな困難に遭遇しても、どんな理不尽に晒されても、たとえピンチになることがあっても、最後には必ず帳尻を合わせて約束を果たしてくれる。子供達を助け、あの哀れな存在をこの世の楔から解放し、性根の腐った傭兵をぶっ飛ばして、自分のもとへ駆けつけてくれる。そう、信じている。


「だから、私は、私のすべきことをしなきゃ。我が儘を言ってついてきたんだもの。オロオロなんてしていられない。振り返ることは、信じて送り出してくれたこうすけへの侮辱だわ」

「……」


 ヴァネッサは横目でチラッチラッとエミリーを見た。そして、何かに納得したのか「うんうん」と頷く。


「グラント博士」

「なによ?」


 真っ直ぐに前を見て、躊躇いなく前進するエミリー。ヴァネッサは口元に笑みを浮かべながら言った。


「貴女はいい女です。きっと、コウスケさんも受け入れてくれるでしょう。ホテルの予約はお任せを」

「ぶふっ!? にゃ、にゃに言ってんの!? ほんと、にゃに言ってんの、駄ネッサ!」


 いきなり下品な方向へ話が流れ、エミリーはズッコケる。危うく床と熱いキスをするところだった。あたふたと立ち上がり再び走り始めたエミリーは、顔を真っ赤にしつつ、駄ネッサをキッと睨む。ネコパンチ発射用意。


 もっとも、当のヴァネッサは不思議そうな表情だ。それが余計に腹が立つ。


「グラント博士。映画などでは、主役はヒロインと最後にキスなりベッドインなりするものです。今回の事件も、コウスケさんとグラント博士の熱いベッドシーンで締め括りとするのがベスト。撮影係は私、ヴァネッサにお任せを」

「ベベベベベ、ベッドシーンって! ばかっ。駄ネッサのばかっ! そんなのするわけないでしょ! いえ、別にずっとしないというわけじゃないけど……その、私もいつかは~とかちょっと思ってたりするけど、というかこうすけに求められたら拒める気がしないけど……ってちがーーうっ! そうじゃなくて! っていうか、あんたなんだ! 撮影係ってなんだ! どういうポジションよ!」

「何事も記念品は残すべきですので。ご安心を。途中からは私も参戦します。ねっとりぐっちょり、熱い3〝ピー〟――」

「それ以上、言わせないわよっ!」


 咆えるエミリー。彼女のツッコミスキルは既にカンストだ。同時に飛び出すネコパンチ。ツッコミスキルの乗ったそれは、見事駄ネッサの頬を抉る。


「? なぜ、殴られたのでしょう?」

「この人はもうダメだ。こうすけに頼んで、立派な村人にしてもらわなきゃ」


 きっと、ヴァネッサにはシリアスブレイクのスキルが備わっているのだろう。げっそりとした様子のエミリーは、最終手段の行使を決意した。


 そうして先へと進み、いくつかの扉を抜けると、やがてエミリー達は水路のある通路へと出た。どうやら研究施設から地下を通って浄水施設の方へ抜けたようだ。


 いくつものパイプやタンクらしきものが並ぶ場所を通り、エミリー達は正面の扉へと手をかけた。ヴァネッサがエミリーを後ろに下がらせながら部屋の中に入る。


 その部屋は床下が全てタンクの役目を負っている部屋のようだった。部屋の半分が機材の置かれた床で、柵の向こう側は水場となっている。


 水路から流れてきた水を一時的に貯めておく場所なのだろうか。今は、開放されているようで、激しい水流が床下を通ってどこかへ流れ込んでいるようだ。


 縦長の部屋なので、壁際には上階に続く階段と通路、そして扉が見えた。二階部分の扉は部屋の両端にあり、両扉を繋ぐ橋型の通路がある。


 その二階の扉へ、エミリー達が視線を向けた――


「あ、せんせ――」

「グラント博士ッ」


 翻った白衣。それが誰のものかは明白。ダウンの姿は既に扉の向こう側へ消えかけていたが故に、エミリーは呼びかけようとした。しかし、その前に、警戒の滲んだヴァネッサがエミリーを引き寄せる。


 直後、ガンッと大きな音を立てて、何かがエミリー達の背後、入ってきた扉の前に落ちた。ハッと振り返れば、そこにはボストンバッグくらいの大きな長方形型のケースがある。ダウンが逃げ去る際に革鞄とは別に持っていたものだ。どうやら、エミリー達が部屋に入ってきたタイミングで放り投げたらしい。


 二階からバタンッと扉の閉まる音が響く。


 その瞬間、


「「「「「キィイイイイイイッ」」」」」


 そんな鳴き声が二人の鼓膜を叩き、同時に、ケースが内側から膨れ上がるようにして破壊されていく。もともと、それほど頑丈な素材ではないようで、亀裂はあっという間に広がり、留め金が弾け飛ぶ。


 刹那、飛び出した何かがエミリー達へと襲い掛かった。エミリーを背後に庇いながら、ヴァネッサが発砲する。


 しかし、その生き物の速度は尋常ではなく、また動きが妙に不規則だったために、ヴァネッサの放った弾丸は外れてしまう。


 床を蹴り、顔面目がけて一気に飛び上がってきたそれを、しかし、ヴァネッサはスッと目を細めただけで動揺することもなく、その長い足を垂直に蹴り上げることで対処した。


 ゴッと骨を砕くような生々しい音と共に蹴り上げられたそれは、くるくると回りながら離れた床に叩きつけられた。


「あれは……猿、ね」

「そのようです。見た目は成体ですが、あのケースに入れられていたことからすれば、元は子猿のようですね」


 むくりと起き上がった子猿に間髪容れず銃弾を叩き込む。顔を上げた瞬間、見事なヘッドショットを決められた猿のベルセルク――ベルセルク・モンキは、そのまま白煙を上げながら崩れ落ちた。


 しかし、油断はできない。なぜなら、ヴァネッサ達を囲むように散開する存在――ベルセルク・モンキはまだ四体いるからだ。


「妙、ね」

「……確かに。グラント博士。ゆっくりと壁際まで下がってください。あの機材と柱の隙間へ」


 エミリーの呟きの意味を察したヴァネッサは警戒心を最大まで引き上げながら、自らを盾にするようにしてゆっくりと下がっていく。


 そう、下がる余裕があるのだ。本能のまま突進してくるはずのベルセルクが、様子を窺うように、あるいは警戒するように、ヴァネッサ達から一定の距離を取っているから。


 実はこのベルセルク・モンキ、パブロフ犬の実験のような方法で危険に対する警戒心を刷り込まれているのである。猪突猛進のベルセルクに、銃器に対するある程度の対応をさせるための実験だ。銃口を見る、発砲音を聞く、それを条件として、同時に〝痛い何かが飛んでくる〟という意識を植え付けるのである。


 実験が成功か否かは、これこの通り。四体のベルセルク・モンキは警戒心もあらわに、しかし本能的闘争心、あるいは食欲故に撤退することもなく、ヴァネッサとエミリーを取り囲んでいるのである。


 ヴァネッサはエミリーを機材と柱の隙間に退避させると、そんな警戒心など知らんと言わんばかりに引き金を引いた。


 しかし、決して銃口の正面には立とうとしないベルセルク・モンキ達は、引き金が引かれたときには既に射線から外れている。


「特効薬はなくとも兵器転用は着々と、というわけですか」


 ヴァネッサほどの銃の達人でも、獣の俊敏性を生かしたベルセルク・モンキ達全力の回避行動を前にしては、そう簡単には当てられない。


 ガチンッと音が鳴り、銃のチェンバーがスライドしたまま固定される。弾切れだ。


 その瞬間を狙っていたかのように、ベルセルク・モンキ達は一斉に攻勢へと出た。


 ヴァネッサの危機――そう思われたが、


「猿如きに後れを取るほど、保安局の捜査官は甘くありませんよ」


 呟かれた言葉は真実。飛び掛かってきた猿の一体は、スッと突き出されたヴァネッサの手が触れた瞬間、あらぬ方向へと吹き飛んでいく。


 そして、一気に前に出たヴァネッサは空のマガジンを抜き取り投擲。それで左から急迫していたベルセルク・モンキの一体を牽制しつつ、一気に沈み込みながら猛烈な上段回し蹴りを放つ。


 沈み込んだことで右から迫っていたベルセルク・モンキは標的を見失ってヴァネッサの頭上を通り過ぎ、正面から飛び掛かった一体は死角から跳ね上がってきた強烈な回し蹴りを受けて吹き飛んだ。


 空のマガジンで牽制されていた左のベルセルク・モンキが時間差で飛び掛かってくる。その時には体勢を立て直していたヴァネッサは、再び腕を突き出した。


 キィイイッと絶叫を上げて口を開けたベルセルク・モンキは、しかし、次の瞬間、腕に微かな感触を覚えたと同時に反転した視界に混乱する。気が付けば、背中に強烈な衝撃を受けつつ、天井を見ていたのだ。


 そして、その視界に割り込む銃口。刷り込まれた危機感が回避を命じるが――遅い。パンッという軽い音と共に、ベルセルク・モンキの眉間に風穴が空いた。


 最初にあらぬ方向へ吹き飛ばされたベルセルク・モンキが、天井を伝って頭上から強襲をかけてくる。


 が、やはり届かない。流れるように突き出された片手が、撫でるようにそっとベルセルク・モンキの頭部に触れた瞬間、グルンッと猛烈な勢いで強制バク転を決めさせられる。猿の身体能力も虚しく床に叩きつけられたベルセルク・モンキの運命は先の一体と同じ。


 起き上がる間もなく頭部への一撃を受けて脳髄を撒き散らす。


 最後の一体が地を這うような動きでヴァネッサの足に噛みつこうと襲いかかった。途端、落ちてくるのは膝。本能故か、咄嗟に横っ飛びしたベルセルク・モンキの手首が掴み取られる。


 手首を捩じられ、一瞬で関節を固められる。痛みを感じないベルセルクであれば、骨折を厭わず振りほどくことも可能だが、それでも数瞬、体が可動域に従って動いてしまうのは避けられない。そして、その一瞬で慣性のベクトルと重心を流されたベルセルク・モンキは、あっけなくうつ伏せに押さえ込まれた。


 止めとばかりに背中に落ちる膝。ポイントを押さえているが故に、膂力を込める余地がない。そして、暴れる機会も与えられはしない。ゴリッと、後頭部に密着させられた銃口から躊躇いなく弾丸が発射される。


「これで全部、ですね」


 ヴァネッサの鋭い眼差しが周囲を巡る。


 使われたのは柔術や合気の技。ヴァネッサの身は、女性のそれだ。どれだけ否定しようとも、単純な膂力で男性に劣るのは事実。だからこそ磨かれた柔よく剛を制する技の数々。


 強力な攻撃力? そんなものは弾丸一発で事足りる。どんな屈強な相手でも、たとえそれが怪物でも、片手が触れさえすれば問答無用に地へ転がし、あとは引き金を引くだけ。


 これが、保安局に属する捜査官の中で、近接戦闘においてはトップレベルと言わしめたヴァネッサの力。最近、駄ネッサと呼ばれることが多くても、その実力は本物だ。


 ――だからこそ、決して保安局の人間を侮っていなかったからこそ、彼はこの瞬間を作り出したのだ。ヴァネッサが、護衛対象から離れる瞬間を。


「捜査官、守ってあげてくれ」

「ッ、グラント博士!」


 いつの間にか、二階の扉から顔を覗かせていたダウンが銃口を向けていた。――他ならぬ、エミリーへ。


 ヴァネッサが、飛びつくようにエミリーの前へと躍り出たのと、ダウンが発砲したのは同時だった。


 乾いた炸裂音が連続して鳴り響き、ヴァネッサの体が跳ねる。鮮血がパッと飛び散り、エミリーの頬を汚した。


「カハッ、がぁ、ぁ」

「ヴァネッサっ」


 地面に叩きつけられゴロゴロと転がったヴァネッサは、直ぐに起き上がろうとしたものの、肺を詰まらせる衝撃に上手く呼吸ができず、また全身を駆け巡る激痛で蹲ったまま動けなくなった。


 血相を変えたエミリーが駆け寄り、ヴァネッサを仰向けにして抱きかかえる。肩や腕、太ももから流血が見られるが、一番撃たれたであろう胴体には滲むものは見えない。エミリーが慌てながらもスーツの上着を脱がせてみれば、そこには防弾ベストと食い止められた四発の弾丸がひしゃげて埋もれていた。


 どうやら防弾ベストが彼女の命を辛うじて救ったようだ。もっとも、肩や腕の銃創はともかく、太もも部分の出血は看過できないレベルだ。おそらく、重要な血管を傷つけている。


「やはり、こうしたものは苦手だ。ヘッドショットなど、いったいどうやればできるのだろうね?」


 コツコツと足音を響かせながら二階の空中通路を進み、中ほどで立ち止まって銃口をむけつつ、倒されたベルセルク・モンキ達を見つめるダウンの言葉。人を撃ったことにも、エミリーを狙ったことにも、特に感慨などない声音のその言葉に、エミリーはグッと唇を噛み締めた。


 だが、今は反論している場合ではない。エミリーは懐から試験管っぽい容器を取り出すと、その蓋を開け、半分をヴァネッサに飲ませ、残りを少しずつ傷口へとかけた。


 途端、勢いよく流れていた血が目に見えて少なくなる。苦しそうな呼吸も、僅かに規則性を取り戻した。


「……なんということだ。エミリー。君は、こんな短時間で、もしやベルセルクを改良したというのかい? それとも、私にすら教えていない発想の産物かい? やはり、君はとんでもないな」


 既存の薬品にはあり得ない回復の効能を見せる未知の薬品に、ダウンの眼が妖しく輝いた。


 もっとも、彼の推測は完全に外れている。


 エミリーが用いたのは、万が一に備えて浩介から渡されていた異世界製の回復薬だ。流石に、体内に残った弾丸を排出してまで完全治癒するほどの効果はないが、完全な止血とある程度の治癒、そして痛みを和らげるくらいのことはできる。


 まともに動くことはできなさそうだが、それでも視線で大丈夫だと伝えてくるヴァネッサに、エミリーはホッと安堵の息を吐いた。


 そして、二階から自分達を見下ろしてくるダウンに、静かな、しかし隠し切れない憤怒を宿らせた眼差しを叩きつける。


「先生。私を撃ちましたね。躊躇いもなく」

「……そうだね。だけど、誤解をしないでほしい。君を殺そうとしたわけではないんだよ。その保安局の捜査官を、私如き一研究者が止めるには、それしか手がなかったんだ」


 最初から、追跡を振り切れないと思っていたダウンは、ベルセルク・モンキを使って厄介な護衛官を引き離し、エミリーを狙って撃つことで回避も反撃の余地もなく庇ったところを撃つという作戦を実行したのだ。


 つまり、ヴァネッサを狙い撃つ自信などなかったが故に、ヴァネッサの方から当たりに来てもらおうとしたわけである。


 もっとも、射線上にエミリーがいることに変わりはなく、ヴァネッサが間に合わなければ彼女が無事であった保証もない。


「でも、私に当たっていても、それはそれで良かった。そうですよね?」

「……死なせたくなかったのは本当だよ」


 死んでさえいなければ、それで良かったらしい。それも、この状況では本当かどうか怪しいところである。


「先生、本音を教えてください。私は、それを聞くためにここまで来ました。きっと、意味はないんだろうし、失ったものは何も返ってこないけれど……それでも、私は、あなたの本心が聞きたいんです。先生っ、私と、私達と過ごした五年間は、いったいなんだったんですか? あなたにとって、私達はなんだったんですか? 私達を裏切ってまで、あなたが得たかったものは、いったい、なんですか?」


 静かではあるが、まるで血を吐くような問いかけ。


 家族ではなかったのか。追い詰められていた自分を救ってくれたのではなかったのか。愛してくれていたのではなかったのか。あの日、家に迎えてくれた日から共に過ごした五年間は、偽りだったのか。簡単に、裏切って、捨ててしまえるほど、軽いものだったのか。


 ダウンは見下ろす。穏やかだが、どこか暗い眼差しをエミリーへ。油断なく、銃口を向け続けながら。そして、答える。


「私の得たかったもの、か。確かに、意味のない問いかけだ。だが、君がそれを知りたいというのなら教えよう。私はね、エミリー、ただ歴史に名を残したかっただけなんだ」

「歴史に、名を残す?」

「そうだよ。後世において、教科書に記載されるような、そんな人間になりたかった。歴史上の優れた人物として、未来永劫、人々の記憶に残りたかった。分かるかい?」

「そんな、そんなことのために……」

「やっぱり、分からないか」


 もしかしたら、ああしなければならなかった理由があったのではないか。譲れない大切な何かのために、自分達を切り捨てるほかなかったのではないか。そんな淡い想いは泥を塗られて捨てられた。


 怒りからか、悔しさからか、震えるエミリーに、ダウンは困ったような笑みを浮かべる。


「君には分からないだろうね。いてもいなくても同じ人間になることの恐怖も、忘れられる空虚感も、生きた証も残せず消えていく絶望も」

「そんなっ、そんなことっ。先生が、いてもいなくても同じ人間だなんて、あるはずがない! いったい誰があなたを忘れるっていうんです!? 私が!? 先輩が!? リシー姉が!? ダウン教室の皆が、あなたを忘れる!? そんなことあるわけがない! あなたの教えを受けた私達自身がっ、生きた証じゃないんですか!?」


 絶叫じみた訴えが反響する。だが、その言葉にも、ダウンは困ったような笑みを浮かべるだけで、ゆるやかに首を振った。


「そうではないんだよ、エミリー。そんな小さな話ではないんだ。言っただろう? 歴史に名を残したい、と。一個人である君達の記憶ではダメなんだ。そんなもので、私のこの恐怖が、絶望が、空虚感が、消えることはない」

「あなたは……」


 言葉が、想いが、通じていない。それを、エミリーはダウンの瞳を見て理解する。


 いったい、何が彼をそこまで駆り立てるのか。エミリーには理解できない。


 レジナルド・ダウンという人物が、平凡な家庭に生まれ、優秀な成績で大学を卒業し、研究者の道に入って、奥さんと出会い、教授になって、奥さんを病で亡くし、貧困の学生を迎え入れ、多くの優秀な教え子を世に送り出してきた。そんな話を、エミリーはダウンから聞いている。


 その人生のどこに、彼を狂気へと駆り立てた要素があるのか。


「理解できないかい? そうだろうね。他の誰かに理解できたとしても、エミリー、君には分からないだろう」

「どうして、ですか?」

「だって、君は天才じゃないか」

「え?」


 エミリー=グラントは天才である。だから、永遠にレジナルド=ダウンを理解し得ない。


 そんなことを断言するダウンに、エミリーは呆ける。まるで、全てを否定されたような気分だった。天才であるが故に孤立したエミリーを、そんなことは関係ないと救ってくれたのは他ならぬダウンだ。その彼が、天才だからとエミリーを切り捨てた。


「天才の背を見送る凡人の気持ちなど、君に分かりはしない。成し遂げることのできる、最初から能力の備わった人間には、ね」

「でも、でも先生は、大学でも最優の教育者で、他の教授達だって先生には一目を置いて――」

「私が凡人だからだよ。凡人故に、他人が何を分かっていないのか、分かる。分かるようにするには、どうすればいいのか分かる。求めてばかりだから、他人が求めるものも分かる。なにをすれば喜び、何をすれば背を押せるのか、分かるんだよ。全て、私自身が通ってきた道だから。ただ、それだけなんだ」


 大きく溜息を吐いたダウンは、空虚な眼差しでどこか遠くを見ながら、独白じみた言葉を続ける。


「どれだけ努力を重ねても、天才達はあっさりそんな努力を飛び越えていく。私が一を思いつけば、それだけで百のアイデアを生み出し、結果を出してしまう。私が、その度にどれだけ空虚な気持ちを抱えていたか、彼等には分からないだろうな」


 その瞳に映っているのは、既に卒業し、世間で認められた彼の生徒達なのだろう。


 エミリーには分からない。先生はいつだって、テレビや雑誌に出る先輩達を見る度に、誇らしそうな表情をしていた。我が事のように喜んでいた。その全ては演技だったのだろうか?


 本当は、自分こそ称されるべきなのにと、栄光は自分にこそ与えられるべきなのにと、憎しみと嫉妬の感情を滾らせていたのだろうか?


「それでもね、彼等が私を恩師だと口にしてくれることが、どうにか私の心を慰めていた。私を慕ってくれることが、エミリー、君達も含めて、私を〝教育者のレジナルド=ダウン〟として支えてくれていたんだ。これでも十分だと、私に諦念と小さな満足感を与えてくれていたんだ」


 愛情は本物だった。力になってあげたいという想いは本当だった。表舞台に立てなくとも、そうすることでダウンは己を保つことができたから。生徒達の信頼と恩義の心が、ダウンの、本当は妄執ともいうべき汚れた虚栄心を、どうにか慰めてくれていたから。


「だったら、どうして」

「決まっているだろう? ベルセルクが生まれたからさ」


 エミリーの口からヒュッと呼気が漏れ出た。


「ベルセルク、が?」

「そう、ベルセルク。エミリー、君は紛れもなく天才だよ。あれは奇跡の薬品だ。人を、人ならざるものに変えるなんて、ああ、そうさ。奇跡だ! 研究を続ければ、どれほどの応用が生まれるか! その結果は明白だ! 世界の変革だよ!」

「せ、先生……」


 興奮したように片手を額に当てて高笑いするダウン。その姿はあまりに異常。エミリーの記憶から、優しく穏やかなダウンの姿が消えていく。


「間違いない! これは歴史に名を残す偉業だ! 今までの生徒達が残した結果など、ベルセルクを前にしてはゴミも同然だよ! 君は歴史上の人物になる! 私はその父だ! 変革の父として名を残す! 分かるかい!? ――いや、分からないだろうね。だから、奇跡を目の前にして、『これは危険だから破棄しよう』なんてふざけたことが言えるんだっ」

「っ」


 パンッと乾いた音を立てて、エミリーに近い場所の床が弾けた。興奮したダウンが思わず発砲したのだ。ダウンは、自身が放った発砲音でハッと我に返ったように息を整えると、気持ち悪いほどあっさりとにこやかな笑みを浮かべる。


「焦ったよ。私がいくらベルセルクの〝可能性〟を説いても、君は破棄の決断を覆そうとはしなかった。無理に説得すれば、君の信頼を失い〝父〟でいられなくなる。時間的猶予もない。いつ、君がデータに手を加えるか分からなかったしね」

「だから、持ち出したんですか?」

「そうだよ。Gamma製薬の幹部に私の教え子がいてね、彼を頼った。まさか、これほどの設備を持つ裏の組織とは思いもしなかったけれど、天運だと思ったよ。ようやく、他人に奉仕し続けた私にも、報われるときが来たのだと」


 だが、事はそう簡単に運ばなかった。盗み出したデータや原品をいくら研究しても、特効薬は作れなかったのだ。兵器転用という点では、ある程度のデータや応用はできつつあったが、自らベルセルクをばら撒き、自ら特効薬を売るというケイシス達の計画は、早々に頓挫することになった。


 また応用に関しても極めて単純なものばかりで、とても〝奇跡の薬〟として世界を唸らせるようなものにはできなかった。


 どうしても、それらを作るには決定的なものが不足していたのだ。


 そう、創造者であるエミリー=グラントの存在が。


「最初の事件も、あの警官も、そしてウォーレン捜査官も、ケイシスの息がかかった者達だった。そうですよね? 全ては、私を追い詰めて、先生に頼るしかないように仕向けるために。私自ら、ベルセルクを研究発展させるために」

「その通りだよ。途中までは上手くいっていたんだけどね……。本当に、余計なことをしてくれたものだよ。保安局も、そしてロドやデニスも」


 パキッと、何かが折れる音がした。それはエミリーの胸の奥から。大切な、本当に大切に思っていた何かが、折れて、砕けてしまった音。


 蘇る光景。忘れることなど絶対にできない悪夢。


――マイロお兄ちゃんが死んだ。トラックに轢かれるみたいに、ベルセルクに轢殺されて。

――サムお兄ちゃんが死んだ。ベルセルクに成り果てて。

――ジェシカお姉ちゃんが死んだ。優しいサムお兄ちゃんに首を折られて。

――デニスお兄ちゃんが死んだ。ベルセルク化を避けるために、自らの頭を撃ち抜いて。

――ロドお兄ちゃんが死んだ。ごめんなと謝りながら。


 そして、


――ヘドリックお兄ちゃんが死んだ。エミリー達を守るために。


 本当の兄のように思っていた。鈍いところはあったけれど、誠実で、穏やかで、まるで心地よいそよ風のような人だった。傍にいて、あんなに心安らぐ人はいない。


――リシー姉が死んだ。エミリーを匿うために。自ら囮となって。


 憧れの女性だった。素直でないところもあったけれど、あんなに優しくて可愛い女性は他にいない。夢見ていた。大好きなヘドリックとリシーが結ばれて、幸せそうに笑ってくれる光景を。


 信じていた。


 ダウン教室のみんなで、いつか、そんな素敵な光景を見ることができるって。


 その全ては――


「私が、引き金を引いたんですね」

「ん?」


 首を傾げるダウンから視線を外し、エミリーはゆっくりと立ち上がった。ヴァネッサが苦しさの残る声音で小さくエミリーを呼ぶが、エミリーは儚く微笑むだけ視線を逸らしてしまう。


「グ、グラント、博士っ。いけま、せん。それはっ」

「ごめんね、ヴァネッサ」


 銃弾が体内に残った状態では完全治癒は望めず、四発もの弾丸を受けた内臓は、内出血は治ったものの骨折までは未だ癒えていない。故に、激痛に耐えて震える手を伸ばすのが精いっぱいのヴァネッサは、掴み損ねる。エミリーの手を。


「動かないでくれないか、エミリー」


 ダウンが、立ち上がったエミリーに銃口を向け直す。


「できればね、君を殺したくない。ヘドリック達だって、あれは不幸な事故であって私の意図したところではないんだ。だから、どうか大人しく――」

「私が、あなたの引き金を引いたんです」


 ダウンの言葉を遮って、エミリーが呟くように言う。項垂れた姿はなんとも哀れで、くたびれた白衣は彼女の心をあらわしているかのようだ。


 エミリーの言葉の意味が分からなかったらしいダウンは、再び首を傾げた。そんな彼に、エミリーは重く、暗い声音で続ける。


「あなたは、ただ善良な人じゃなかった。あなたの心の奥には、ずっと狂気が巣食っていた。人よりずっとずっと強い自尊心が、称賛を求める心が、あなたを蝕んでいたんですね」

「……」

「それを、皆が抑えてくれていたんです。多くの先輩達が、ダウン教室のみんなが、家族が。なのに、私がそれを壊してしまった。今にも引かれそうな引き金を、でも引かれずに済んでいた引き金を、私が引かせてしまった――あなたの中に最初からいた、ベルセルクを呼び覚ましてしまった」

「私が、最初からベルセルクだった、か。言ってくれるね、エミリー」


 スッと顔を上げたエミリーの表情を、なんと表現すべきか。困ったような、今にも泣きそうな、あるいは何かを決意したような――不思議で透明な表情。


「怪物を呼び覚ます引き金を引いたのは私だから――だから、終わりのときも、私が引き金を引きます」

「……私を、撃つのかい?」


 掲げられたエミリーの手には小型の拳銃があった。ヴァネッサの予備の銃だ。立ち上がる際に引き抜いていったらしい。後ろから、ヴァネッサが「いけません、グラント博士!」と掠れた声で叫んでいる。


「エミリー。父と慕った私を、撃つのかい? 君を救った私を?」

「はい。撃ちます。あなたを、終わらせます」

「復讐かい?」

「いいえ。あなたのためです。そして、私のためです。きっと」

「……そうか」


 かつて、互いに父、娘と呼び合った者達が、互いに銃口を向け合う。


 交差する視線に、大きな感情のうねりは見えない。だが、きっと言葉では表現しきれない感情が暴発寸前の爆弾のように抱えられているのだろう。それは、もしかするとエミリーだけでなく、ダウンもなのかもしれない。


「それでは仕方ない。さよならだ、エミリー」

「はい、さようなら。先生」


 引き金が、引かれた。乾いた炸裂音が轟く。


 同時に、影が宙へと躍り出た。キンッという金属音が響く。


 弾丸が、真っ二つに切断される。分かたれた弾丸は標的を大きく逸れて、背後の壁に突き刺さった。


「こ、こうすけ?」


 スタッと降り立った人影。それは、紛れもなく、追いついた浩介だった。


いつも読んで下さりありがとうございます。

感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。


あと二話くらいで終わりです。

最後まで楽しんでもらえれば嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
やっぱり主犯はこの人だったか……定番だよね!
[一言] ここ長すぎ ぜんぜん面白くない
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