↑のつづき。

さて、
台風が奇跡的に弱まり、
なんと徳島最終日は晴れた。

と、いうことで急遽予定を変更し、
目的地をずっと行ってみたかった南部方面へ。

徳島市から車で一時間以上かかった。

日和佐町案内図。

魅力的なところがたくさん。





道の駅で休憩。



裏側に線路があった。



さてさて、今回の目的地の前に
書いておきたいことがある。

有名な丹後の天女伝説である。

丹後国風土記『奈具社』冒頭部分↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
丹後の国、丹波の郡。
郡の役所の西北の隅の方に比治の里がある。
この里の比治の山の頂に泉がある。
その泉の名を真奈井という。
今は沼に変わっている。
この泉に天女が八人舞い降りて来て
水浴びをしていた。
時に、老夫婦がいた。
名を和奈佐老夫和奈佐老婦といった。
この老夫婦がこの泉にやって来て、
こっそりと天女一人の衣裳を隠してしまった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに、この天女は、
竹野の郡の奈具の社に鎮座する
豊宇加能売の命(とようかのめ)である
と説明されている。


和奈佐(わなさ)老夫婦。


丹後の国の伝承に登場する老夫婦のルーツが
この徳島県南部にある…

にわかに信じがたい話だが、
調べてみる価値は大いにあった。





ここは徳島県海部郷海陽町松原

松原と聞いて
『三保の松原』の天女を連想した方は
素晴らしいアンテナをお持ちである。

そしてここは海部(かいふ)郡。

海部と言えば…
丹後国を連想する方もいるだろう。


日本の白砂青松100選に選ばれた大里松原の
直ぐ近くに鎮座している神社があった。

鳥居発見。

大里八幡神社の鳥居だ。

随神門が見えた。


『大里八幡神社の秋祭り』の説明書きに
気になることが書いてあった。
ざっくり要約すると↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
延喜式内社として古くから地域の崇敬を集めた
和奈佐意富曽神社は、
もともと那佐浦に鎮座しており、
後に鞆浦の大宮山に遷座。
慶長9年(1604)に現在の大里松原の地に遷座し、この大里八幡神社とともに
祀られるようになった。

この地域のお祭りは
海南町と海部町の二つにまたがる
いわゆる海部郷の祭り。

祭礼行事は豪壮雄大で、
昔の海部人が海を舞台に
遠く東支那海まで活躍したことが想像できる。

八幡大菩薩の印旗をかかげて
二台の関船と六台のだんじりが
隊列をととのえて宮詣りする様は
倭冠の進軍を思わせるものがある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そう、今回の目的地は
延喜式内社『和奈佐意富曽神社』である。





拝殿。

大里八幡神社
鎮座地 徳島県海部郡海陽町大里松原
祭神 応神天皇 神功皇后




良い雰囲気の神社だ。

海の近くの神社は、
山のものともまた一味違う。











境内社も多い。


横から本殿。




『南光院命大神』と書かれている。

初めて聞く神名だ。











境内の『楠姫神神社』。
これも気になる。





すごく気持ちの良い素敵な神社だった。



そして、そこから徒歩圏内に
目的の神社はあった。



ここです❗






拝殿。

阿波国那賀郡 延喜式内社
『和奈佐意富曽(わなさおうそ)神社』

鎮座地 徳島県海部郡海陽町大里松原
創健 不詳
祭神 ???

もともとは那佐浦に鎮座していたが、
鞆浦の大宮山、大里の浜崎地を経て、
慶長9年(1604年または1605年)に
現在地へ遷座されたと伝わる。
その後、八幡神社とともに祀られ、
明治時代に現在の場所へ分祀された。

そして祭神については諸説あり特定されず。


スサノオという説もあり、
ワタシの知識ではさっぱりわからない。

和奈佐意富曽の「意富曽(おうそ)」は
大祖』や
大麻』を意味するなど、これも諸説あり。





扁額、なんかカッコいい。




ぐるっと回ってみる。


小さいが、とても素晴らしい神社。

境内社もとても綺麗にされている。

ほっとする神社さんである。


さて、この神社の社名である
『和奈佐意富曽(わなさおうそ)』の
和奈佐(わなさ)』が重要なのだ。

この記事の冒頭で説明したように
丹後国風土記で天女の羽衣を隠したのは
和奈佐(わなさ)老夫婦』。

丹後国の『奈具神社』に祀られている
豊宇賀能売命が天女の正体。

ちなみに、奈具神社には
阿波特有の『地神塚』がある❗

豊宇賀能売命とは
伊勢外宮の豊受大神であり、
阿波の女神オオゲツヒメとも同一神と
云われている。

そういえば、丹後国一宮の宮司さんは
海部氏だったような…




さらに、出雲国風土記では
『船岡山』の由来について↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
船岡山。郡家の東北一里百歩。
阿波枳閇委奈佐比古の命が曳いて来て
とどめ置いた船が、つまりこの山、
だから、船岡山といった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とあり、
阿波枳閇委奈佐比古命(アワキヘワナサヒコ)
とは、「阿波から来たワナサヒコ」という
意味なのだそうな。

標高140mの船岡山の山頂には
船林神社が鎮座しており、
祭神は委奈佐比古命(ワナサヒコ)である。

境内にはなんと、
阿波特有の『地神塚(社日塔)』が
建っている。

その北東には『和奈佐神社』も鎮座しており、
祭神はやはり『和奈佐比古命』。
そしてここにも『地神塚』がある。

もはや、阿波古代史を知る方からすれば
すでに周知の事実なのだが、
初めて知ったときは驚いたものである。

阿波の海人族集団(ワナサ)は、
船で丹後や出雲に行っていた。。

参考にさせて頂いております↓

そして、和奈佐神社の北方には
宍道湖(しんじこ)があり、シジミが有名。

播磨国風土記によると↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
志深(しじみ)の里。
志深と名づけた理由は、履中天皇が
この井で御食事された時、
信深貝(しじみがい)が御飯の箱の縁に
カサコソと上ってきた。
その時、

「この貝は、
 阿波の国和那散(わなさ)
 私が食べた貝かなあ」

と言われた。だから、志深の里と名づけた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



ちなみに、
藤井榮氏の書籍
『甦る皇都阿波への旅』では

和奈佐比古命の正体について、

こう書かれている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この神様、徳島県海部郡海陽町大里松原に

鎮座する「和奈佐意富曾神社」(式内社)の

ご祭神「須佐之男命」とみられます。

意富曾」は「大祖」で県南一帯を支配した

海人族の大祖、中つ国の始祖です。


もと那佐湾を見下ろす大宮山に

鎮座していましたが、江戸期に

下へ移されています。


~中略~

須佐之男命は、高天原に入り乱暴を重ねた罪で
追放されたため阿波本国(王都)では
「諡」で祀ることは許されず、
生誕地の南端那佐湾を望む大宮山に
那佐の開祖(大祖)として
祀られたのではないかと考えられます。

この須佐之男命
出雲国風土記にいう「委奈佐比古命」で、
阿波を追われて瀬戸内海を渡り、
さらに終焉の地が出雲であったと
推理しているのです。

これを裏付けるように、
島根県では「委奈佐比古命」をご祭神とする
神社が松江市南方に2社鎮座しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

和奈佐比古命は、
和奈佐意富曽(ワナサの大祖)であり、
阿波を追放されて島根出雲に渡った

須佐之男命なのだそうな。




なんとも興味深すぎる神社。

この一社が阿波と丹後と出雲を
結んでしまった。



素晴らしい神社でした。







さて、
この神社が元々鎮座していたのは、

那佐湾を見下ろす大宮山。


那佐(なさ)湾

がとても気になったので、

行ってみることにした。



奈佐比古命(ワナサヒコ)

奈佐比古命とも書く。


つまり、イナサヒコ❗



イナサの浜


どこかで聞いたことがある。。


つづく。


ではまた❗







AD

コメント(2)