↑のつづき。
さて、和奈佐意富曽神社から車で10分。
同じく海陽町の那佐湾へにやってきた。
突き出た那佐半島。
実はワタシが徳島県南部に
強烈に興味を持ったのは、敬愛する
ワタシ自身、多くの影響を受けたのである。
いつも参考にさせて頂いております。
ここで書く記事も基本的には
コラクさんの素晴らしい研究成果を
参考にしているだけでございます。
「なんか沖縄に似ているなぁ」
この地域でワタシが感じたこと。
素敵な神社を発見。
苔むした鳥居。
鎮魂碑が建っていた。
その理由はこの神社の創健に
深く関わっている。
しっかり阿波特有の五角形『地神塚』も。
石段を登る。
拝殿。
『那佐(なさ)神社』
鎮座地 徳島県海部郡海陽町宍喰浦那佐
創健 不詳
別名 三島神社 吉野神社
祭神 島親益(しまちか ます)
祭神の島親益は、
戦国武将の長宗我部元親の弟。
この地で戦死した島親益と
その家臣たちの霊を祀るために創建された。
元々は那佐湾の奥まったところにある
二子島の『三島神社』に祀られていたが、
その後、吉野神社(現在の那佐神社)に
合祀されたのだそうな。
二子島で祀られた理由は、1571年に
この島で敵襲を受けた島親益が自刃し、
その遺骸が丁重に葬られたからである。
入り口付近の鎮魂碑は島親益のものだった。
味のある彫り物。
なにかを言いたげな、とても趣のある神社。
決してお広くはないが、
素敵な神社さんである。
境内を散策。
あれはなんだろう。。
めちゃくちゃ良い雰囲気である。
大好きです。
那佐神社を出て、
那佐半島の方にも行ってみる。
何回みても個性的な、意味ありげな形。
敬愛するコラクさんのブログを
参考にしながら歩き回った。
とんでもないところなんですここは。。
前回のブログでも書いたとおり、
ワナサヒコで繋がる
丹後(京都)と出雲(島根の方)と
阿波国和那佐。
丹後の天女伝説の登場人物は
ワナサの老夫婦であり、
出雲で祀られる
阿波枳閇委奈佐比古命(アワキヘワナサヒコ)
とは、「阿波から来たワナサヒコ」という
意味なのである。
また、
丹後国一宮『籠神社』の宮司さんは
海部(あまべ)氏。
ここは海部(かいふ)郡であり、
この那佐からほど近い場所には
海部川が流れている。
延喜式内社として古くから地域の崇敬を集た
和奈佐意富曽神社が元々鎮座していた
鞆浦の大宮山もここからほど近い。
那佐湾の奥まったところ。
小島がいくつか見える。
そのどれかが二子島だろうか。
私には三つの島に見えた。
三つの島だから三島神社か
実際に地図上でも三つある。
実は日本神話において超重要な場所。
播磨国風土記の中で、
履中天皇が思いを馳せた場所であり↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
志深(しじみ)の里。
志深と名づけた理由は、履中天皇が
この井で御食事された時、
信深貝(しじみがい)が御飯の箱の縁に
カサコソと上ってきた。
その時、
「この貝は、
阿波の国和那散(わなさ)で
私が食べた貝かなあ」
と言われた。だから、志深の里と名づけた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
好字二字令以前には、
この那佐(なさ)は『和那佐(わなさ)』と
呼ばれており、
島根出雲で祀られるワナサヒコのルーツ。
元々は『倭那佐(わなさ)』。
しかし、『倭』の字は元々は
「ヤマト」とも「ワ」とも読まない。
その真実の読み方は『イ』
つまり、
倭那佐(イナサ)
なんですよ皆さん
日本神話の『国譲り神話』。
大国主とタケミカヅチが対峙した
稲佐(イナサ)の浜は、一般的には
島根県出雲市の海岸を指す。
しかし、謎がある。
タケミカヅチは、
威厳と力を示すために、
地面に突き立てた剣の切っ先に座る姿で
現れたとされている。
そんなことしたらお尻が割れちゃうよ。。
そこで、
この表現は比喩だということがわかる。
コラクさんのブログを見て
「さもありなん
」と大きく頷いたこと。
国譲りがおこなわれた場所
稲佐(イナサ)の浜は、
本当はこの那佐半島だったのではなかろうか。
なぜなら、地図上で那佐湾を縦にすると…
その剣の先にタケミカヅチが現れたのだ。
そして、阿波徳島には、
大国主や事代主、タケミナカタ、
さらにはタケミカヅチを祀る
延喜式内社が揃っている
しかも神名を冠する神社だ↓
いやはや、徳島県は南部も面白い。
次なる神社でも衝撃を受けることとなる。
失礼ながら、田舎と言ってしまいそうな
この素敵な土地になんと、
日本三大祇園の一社が
鎮座していたのだから…
つづく。
ではまた
AD