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聖書はすべて神の霊感による(2019.9.22 礼拝)

2019年9月22日礼拝メッセージ
『聖書はすべて神の霊感による』
【ルカ10:38~42】

はじめに
 最近ご意見をいただきましたから、きょうの礼拝では予定を変更して、そのことについて話したいと思います。一つは「説教」について、もう一つは私が「私」或いは「僕」という主語を多用することについてです。きょうの話のメインは前者の「説教」についてですから、先ず後者の「主語の多用」について手短に話しておきます。

 私が主語を多用することは沼津にいた頃にも指摘されたことがありました。そして静岡に来てからも指摘されましたから、その理由を考えてみました。そして四つの理由が考えられると思いました。一つは私が自己中心的な人間だからです。しかし、それ以外にも三つの理由があると思いました。

 一つは、牧師になる前の私が大学という教育・研究機関に長く在籍していたことです。大学の教員は年に何回も自ら学会で発表します。また学生が卒論の発表をする前や学会で発表する前にはかなり長い時間を学生への研究発表の仕方の指導に費やします。発表の際に重要なのは、研究の方法・結果・考察が誰の考えに基づくものであるかを明確にすることです。自分たちの考えなのか他の研究グループの考えなのかを曖昧にすることは発表の場では許されません。ですから主語を入れることは必須です。日本語は主語が曖昧な言語ですが、研究の現場では主語を明確にします。私の場合はそれが染み付いてしまっています。それが一つ目の理由です。

 二つめは、私の前職が理工系の大学の日本語教員だったことです。先ほど言ったように日本語は主語を曖昧にします。しかし、留学生は主語を明確にする英語やヨーロッパ系の言語で育った外国人も多いです。彼らにはできるだけ自然な日本語を教えたいとは思いますが、主語を曖昧にすると彼らを混乱させることにもなります。そこで少々不自然ではあっても最初は主語をきちんと入れた日本語を教えます。特に私がいたのは理工系の大学であり、研究の現場では主語を明確にしますから、初級の学生には主語を入れた不自然な日本語を教えていました。このことも私には染み付いています。これが、私が主語を多用する二つめの理由です。

 三つめの理由は、これが一番重要なことですが、カルト化した教会では、牧師が自分の考えを神様のご意志として信徒に伝える傾向があります。本当は自分がしたいことなのに、「これは神様のご意志です」と言うんですね。そうやって信徒をコントロールします。本当に神様のご意志である場合もあると思いますが、100%の確信を持って、それが神様のご意志であると断定することは難しいことです。ですから私の場合は、それが神様のご意志であると自分の中では確信があっても、いちおうそれが自分の考えであることを付け加えます。そういうわけで神様のご意志と断定しないで自分の考えであると付け加えることは、私なりの謙遜のつもりです。

 もちろん私には自己中心的な面が多いことも自覚しているつもりです。しかし、私が主語を多用するのは、以上の三つの理由があることもまた、承知しておいていただけるとありがたく思います。

霊性が<濃いめ>の説教
 ではきょうの本題に入ります。説教についてです。説教に関しての私の基本的な考え方をお伝えしておきたいと思います。

 私の説教は霊性が<濃いめ>です。ラーメンのスープにも味が<濃いめ>のものと<薄め>のものとがありますね。それと同じように説教にも霊性が<濃いめ>のものと<薄め>のものとがあります。霊性が<薄め>の説教をすれば分かりやすい説教になることは私にも分かっています。

 霊性が<薄め>の説教とは、例えば人間的な弱さにスポットを当てた説教です。例えばイエスさまの弟子のペテロは、ペンテコステの日に聖霊を受けてからは力強い働きができるようになりましたが、イエスさまと一緒に旅をしていた時には人間的な弱さをいろいろと抱えていました。そういう人間的な弱さを私たちもまた抱えていますから、その弱さに焦点を当てれば分かりやすい説教にはできるでしょう。しかし、聖霊を受けていない人間にスポットを当てた説教は、霊性が<薄め>の説教です。そういう<薄め>の説教も時には必要だと思います。しかし説教の多くは<濃いめ>にすべきだと思います。

 きょうはそのことを、週報のp.2に記した五つのパートで話したいと思います。

 ①キリスト教は極めて霊的な宗教(神の霊が人を癒し、救い、整え、きよめる)であるので、少々わかりづらいのは当然
 ②霊性濃いめ(例:多重)の癒しが必要な重病の現代人
 ③「霊」という字が無くても神の霊を感じるのが霊性
 ④平均(十数回/分)の半分以下の呼吸で整う霊性(牧師は4回/分)
 ⑤私がする(私中心)→私はされる(神中心)→神が人々にする

①キリスト教は極めて霊的な宗教(神の霊が人を癒し、救い、整え、きよめる)であるので、少々わかりづらいのは当然
 キリスト教の正典は聖書です。私たちクリスチャンは聖書のみことばに教えられながら日々を過ごしています。その聖書についてパウロはテモテへの手紙第二3章16節で次のように言っています(週報p.2)。

16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

 キリスト教の正典である聖書はすべて神の霊感によるものです。つまり「キリスト教は極めて霊的な宗教である」ということです。霊的である以上は、少々分かりづらいのは当然です。その分かりづらいものを分かりやすくするのが牧師の務めですから、説教でいろいろ工夫するわけですが、もし分かりやすくするために霊性をなくすとしたら、それはキリスト教ではなくなってしまいますね。

 イエスさまはおっしゃいました。「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです」(マタイ5:13)。それと同じで、もしキリスト教が霊性をなくしたら、何によって霊性をつけるのでしょうか?もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

 ですから、霊性をゼロにするわけには、もちろんいきません。じゃあ、<薄め>なら良いのでしょうか?<薄め>にすれば、説教はずっと分かりやすいものになるでしょう。

②霊性濃いめ(例:多重)の癒しが必要な重病の現代人
 霊性が<薄め>の説教でも、20世紀の頃までは良かったかもしれません。社会全体がまだノンビリしていましたから、霊性が<薄め>でもそこに何らかの霊的なものを感じて、神様との霊的な交わりの中に入れていただくこともできたでしょう。

 ほんの数十年前の20世紀がどれほどノンビリしていたか、ちょっと思い出してみましょう。

 私の北海道大学時代の友人の一人に、四国出身の男がいます。彼には高校時代から付き合っていた彼女がいて、彼は北大を卒業した後は四国に戻って彼女と結婚しました。私は何度か旅行で四国に行って彼の家に泊めてもらったことがありますから、彼女のことも知っています。私が姫路教会で牧師をしていた時も、一度四国の彼の家に泊めてもらったことがありました。

 さて彼が北大にいた間、二人は北海道と四国とで離れ離れになっていました。その二人はずっと、ほぼ毎週のペースで文通をしていたそうです。四国の彼女から北海道の彼に手紙が届くのに2~3日は掛かります。手紙を受け取った彼がすぐに返事を書いて出したとしても、北海道から四国に郵便が届くのにまた2~3日は掛かります。ですから最速でも週に1回のペースでしか手紙のやり取りができません。そのほぼ最速のペースで何年間も二人は文通をしていたと言うんですから、すごいですね。

 ここで注目すべきは彼と彼女の二人の仲のことではありません。手紙のやり取りにどれくらい時間が掛かっていたかということです。当時は最速でも手紙の一往復のやり取りに何日間かは要していました。それが今はどうでしょうか?電子メールやSNSでのやり取りになって、最速なら十秒以内で一往復のやり取りができますね。そういう環境の中で21世紀の現代の私たちは生活をしています。

 大事な人との手紙のやり取りに1週間を要するとしたら、その間にいろいろなことを思い巡らします。私も彼よりはずっと短い期間でしたが、一時期は北海道と本州との間で高校時代の同期生と文通をしていたことがありました。1週間の間、どんな返事が来るかを待ちながら、あれこれ思いを巡らすわけです。私が信仰を持ったのは41歳の時と遅かったですが、学生時代のそういう経験が神様を受け入れるための良い準備となっていたのだと思います。後で話しますが、神様との交わりは非常にゆったりとした時間の中で行われます。そういうゆったりとした時間の中に身を置くことが21世紀の現代の私たちは非常に難しくなっています。

 霊性が<濃いめ>の説教が必要であると私が考えるのはそのためです。ノンビリしていた時代には霊性が<薄め>の説教でも、その中に霊的な何かを感じていただくことができたでしょう。しかし現代人には難しいことです。十秒以内で手紙のやり取りができる中で暮らしている現代人は霊的には病気の程度が重い「重病人」であると言えるでしょう。その重病人を神様の霊によって癒し、救い出し、整え、きよめていただくためには、霊性が<濃いめ>の説教が必要だと思います。

 さてしかし、ここに問題が発生しました。霊性が<濃いめ>の説教を私がしても、聴く側の皆さんは、それを<濃いめ>として受け取って下さらないということです。霊性が最も濃厚な書は恐らく『ヨハネの福音書』でしょう。ヨハネの福音書は「イエスさまの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」とが重なる多重構造になっていますから、霊性が非常に濃厚です。私はその『ヨハネの福音書』の霊性のスープがいかに濃厚であるかをお伝えしたいと願っていますが、今のところは届いていません。身近な皆さんに届かない説教であれば、どう工夫しても近隣の方々に届くはずがありませんね。これは重大な問題です。

 なぜ届かないのか?いろいろ考えていますが、考えられる要因の一つは、皆さんが霊性の<薄め>の説教に慣れていることではないかなと思います。皆さんが信仰を持った一昔前は<薄め>の説教でも十分に霊的なものが伝わりましたから、それで良かったわけです。

 その結果、<濃いめ>の霊性と言えば、「聖霊」とか「御霊」とか「神の霊」といったように、「霊」という字があることばを使った説教が、霊性が<濃いめ>の説教だと感じておられるのではないかという気がします。しかし、それは霊性が<中濃>の、中くらいの濃さの説教です。本当に濃い霊性は目に見えないところに存在しています。

③「霊」という字が無くても神の霊を感じるのが霊性
 例えば週報p.2に示したように、歴代誌第一の系図からも神様の霊が濃厚に存在することを感じることができます。歴代誌第一1章では1節にアダム、セツ、エノシュ、2節にケナン、マハラルエル、ヤレデ、3節にエノク、メトシェラ、レメクとあり、4節にノア、セム、ハム、それにヤフェテとあります。1~3節までは一本の家系図ですが、4節になって初めてセム、ハム、ヤフェテというようにノアの息子たちが複数書かれていて、ここから系図は枝分かれして行きます。

 では、なぜノアの家系の前までは枝分かれせずに一本の家系図のみでしか表されていないのでしょうか?それは、神様が洪水によってノアの家族以外は滅ぼしてしまったからですね。ですから、神様の霊のことが一切語られていない、このような名前の羅列からだけでも神様の霊の息吹を濃厚に感じることができます。

 或いはまた、歴代誌第一1章8節にはノアの息子のハムにはカナンという息子がいたと書かれています。そして13節にはカナンの子らとしてシドン、ヒッタイト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人らの名前が挙がっています。これらのカナンの子らを聖絶するように神様はヨシュアたちに命じました。それはかつてノアがぶどう酒を飲んで酔い、裸で寝ていた時に息子のハムが父のノアを敬わなかったことと関係しています。『ヨシュア記』と『士師記』の時代のカナン人たちとの戦いに『創世記』の時代のことが関係していたという時代の重なりを感じると、そこにも神様の霊が濃厚に存在することを感じます。

 このように「霊」という字が無くても神の霊を感じるのが霊性だと言えるでしょう。しかし21世紀の現代では、この霊性を育むのが非常に難しくなっています。けれども難しいと言って放置しておいたら、重病人の病気はますます重くなってしまいます。まずは私たちがもっと豊かな霊性を育み、それを周囲の方々にお伝えしていくことができるようになりたいと思います。

④平均(十数回/分)の半分以下の呼吸で整う霊性(牧師は4回/分)
 では、私たちはどうしたら豊かな霊性を育むことができるでしょうか。手っ取り早い方法として、先ずは深呼吸をすることをお勧めしたいと思います。そうして1分当りの呼吸の数を減らすだけで、随分と霊的な感度は上がると思います。健康を害してはいけませんから、あまり過激に減らすことはお勧めしませんが、呼吸回数を半分程度に減らすだけで霊性は整って来るはずです。

 大人の1分間の呼吸数の平均は十数回ということです。私の場合、早朝の最も霊的に覚醒している時の1分間当りの呼吸数は4回程度でした。実際に時計を見ながら測ってみたら、7~8秒掛けて息を吸い、また7~8秒掛けて息を吐いていました。こうしてゆっくりと呼吸をするだけで、霊性は随分と整います。その上で聖書を読んでみたら、いかがでしょうか。

 きょうの聖書箇所では『ルカの福音書』10章のマルタとマリアの姉妹の場面を開きました。もう一度、この場面をゆっくりと味わってみましょう。交代で読みます。

38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
(次はゆっくり読んでください)
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 もてなしの準備でバタバタしていた姉のマルタの呼吸数は平均の倍は以上あったのではないでしょうか。一方、イエスさまの足もとに座ってイエスさまのことばに引き込まれていた妹のマリアの呼吸数は平均以下、もしかしたら半分以下だったかもしれません。そうすると妹のマリアの呼吸数は姉のマルタの呼吸数の4分の1以下ということになります。二人がどれくらい霊的に整えられているか、呼吸数で数値化すると、分かりやすくなると思います。

 私たちもまた、マリアのように、神様のみことばを聴く時には、できるだけゆったりとした時間の中で聴くようにしたいと思います。

⑤私がする(私中心)→私はされる(神中心)→神が人々にする
 この⑤番目のパートでは三つの段階を示しています。霊性が整えられるに従って、私たちは右のほうに移って行きます。一番目の段階から二番目の段階への移行は多くの皆さんが経験していることだと思います。

 神様をよく知らない時には、何をするのでも「私がする」という自己中心的な「私中心」の状態にあります。それが、信仰を持つといつの間にか、「される」という受身の表現を多用するようになりますね。「示される」、「気付かされる」、「用いられる」、「招かれる」というように、神様中心で自分のことを表現するようになります。

 そうして、霊性がもう一段階引き上げられると、もう一度「する」になります。ただし、この第三の段階の「する」は、「私がする」のではなくて、「神様がする」です。神様が人々に対して為さることを、とても身近に感じるようになります。そして「神様が怒る」、「神様が喜ぶ」、「神様が悲しむ」というような神様の感情も、より豊かに感じるようになります。

 一番目と二番目にいる間は、「する」にしても「される」にしても「私」は「私の側」にいます。しかし三番目の段階に入ると「私」は「神様の側」に移ります。すると二番目の時に比べて格段に神様を身近に感じることができるようになります。そうすると、例えばパウロがどんな大変な目に遭ってもへこたれなかったことも、パウロが神様をとても身近に感じていたからだということが、以前よりもっと良く分かるようになります。

 私はぜひ皆さんと共に2番目から3番目へと霊的成長をして行きたいと願っています。そうして神様が何を望み、何に怒り、悲しみ、喜ぶかを感じながら、近隣の方々に神様のことをお伝えできるようになりたいと思います。霊的に重篤な状態にある現代人を神様の救いへとお導きするには、皆さんの力が必要です。

 もし今2番目の段階にいて、神様からの恵みをたっぷりといただいているなら、今度は3番目の段階に移って、神様と共に、神様が人々に対して為さりたいと願ってらっしゃることを、共にして行くことができたら、それは素晴らしいことです。

 皆さんは今、三つの段階のうちのどの段階にいるでしょうか。共に三つめの段階へと移り、神様にお仕えすることができる私たちでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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