抹茶バブル最終章─善意の燃えカスと、俺たちの残り火─第8回
「抹茶の未来は明るい」
とか言ってるやつ、まだ夢見てんのか。
こっちはもう、明るいどころか、
目の前の茶園が静かに消えてく音しか聞こえねぇんだよ。
このnoteを書いてるのは、静岡の山奥で、今もお茶を作ってる農家です。
「茶農家で製茶師」。だけど、世間的には日本一ロックな茶農家。
先祖代々お茶をやってきた家に生まれた。
今はもう、耕作放棄されかけた山の茶畑を、自分の手でなんとか守ってる。
普段は「茶畑でギター弾いてるロックな茶農家」として、
野良着に地下足袋で軽トラの荷台をステージにロックンロールを鳴らしてる。
収益化しているYouTubeチャンネル「お茶とロックと私」でロックをやりながら、たまにnoteでくだらない話もしてる。
でも今回は、ちょっと真面目に──
だけど毒と皮肉とユーモアと、ありったけのロックンロールで、
この「抹茶バブル」をぶった斬るシリーズを書いてきた。
きっかけはこうだ。
「抹茶ってカネになりそうだよね〜」
「輸出向けに転作しようかな〜」
そんな軽いノリで参入しようとする連中に、
ちょっと待て、俺の話を聞けよって殴り返したかったからだ。
農業の理不尽。茶業の構造。文化の使い捨て。
いろんな怒りがある。でも、いちばんムカつくのは
「お茶は未来がある!」と外野が勝手に盛り上がって、
責任と労力とコストとリスクだけが、こっちに降ってくる構図。
そんなバブル、絶対に飲まれたくなかった。
だから俺は、言葉を書くことにした。
ジャーナリストでも、学者でも、コンサルでもない。
ただの農家が、“語れる農家”として、言葉にしておく。
このnoteシリーズは、そのログだ。
ここまで7回。毒を込めて、皮肉を振りまいて、ユーモアで笑って誤魔化しながら、
それでも俺は“言葉”だけを武器に、踏みとどまってきた。
そして今──バブルはまだ弾けてない。
いや、むしろまだ膨らんでいる最中だ。
「抹茶ブーム」「輸出拡大」「日本文化」──
まだまだ聞こえてくる、“ポジティブな言葉”たち。
でも、何かがおかしい。
カネの匂いがする一方で、現場には人が減り、茶畑が削られ、声だけがでかくなっていく。
これは、静かに沈んでいくタイプのバブルだ。
この第8回、ラストは「まとめ」じゃない。
“まだ崩れきっていないバブルの中で”、どう生き残るかの構えを描く回だ。
甘い話には、裏がある。
そのことをここまで読んでくれたあなたと、今一度、共有しておきたい。
「抹茶バブル最終章:善意の燃えカスと、俺たちの残り火」
──開幕です。
これまでの7回の“整理と総括”
──なぜ抹茶ブームが「搾取構造」を生むのか
「抹茶って儲かるらしいよ」「輸出が伸びてるらしいよ」「海外ではMATCHAが大人気なんだって」
──そんなポジティブな空気に包まれて、今日もまたどこかで“碾茶への転作”が行われている。
その裏で、煎茶の畑が静かに削られ、手摘み技術が絶滅しかけていることに、誰も気づかないふりをしている。
この抹茶ブームが、なぜ「搾取の構造」を生むのか。
それは、一見キラキラした“成功ストーリー”の裏で、リスクとコストだけを生産者に押しつける構図が、きれいに設計されているからだ。
簡単に言えばこうだ:
表に出るのは「MATCHAは海外でも人気!」という宣伝文句
金を出すのは補助金(ただし、申請・整備・維持は全部自己責任)
借金を背負うのは農家
商品化してバズるのはインフルエンサーやメーカー
成功事例としてプレゼンするのは行政や自治体やコンサル連中
……で、ブームが終わった頃には、荒れた畑と残債と疲弊した現場だけが残る。
これがバブルの本質だ。
儲かっているように見えるのは「今だけ」で、しかも「一部だけ」。
でも、その一部に入れなかった者は、やがて静かに追い出されていく。
しかも今回のバブルは、煎茶文化がペットボトルに駆逐されたときと違って、
“文化”という言葉でうまく化粧されている分だけ、なおさらタチが悪い。
「誰がリスクを背負って、誰がリターンを取ってきたのか」
たとえば、あるメーカーが「抹茶ラテで日本文化を世界へ」と言ったとしよう。
──その裏で、誰がネット掛けをして、被覆資材を貼り、遮光率とチッ素バランスを調整しながら、
“本物のてん茶”を作ってると思ってる?
しかもそれが粉になった瞬間、産地も品種も作り手も全部“消える”。
あとは広告とマーケティングの勝負──となれば、茶農家の名前なんて、残らない。
でも、借金の名義だけは、ちゃんと農家の名前で残ってる。
それでもまだ、「共創」って言える?
「応援」って言える?
「伝統を守ろう」って言える?
──そう問い返すために、このシリーズでは「言葉の毒」を仕込んできた。
「応援」「伝統」「共創」──その言葉、誰のためにある?
このnoteでは何度も繰り返してきたけど、もう一度だけ書いておく。
「文化」や「伝統」を語るなら、その裏で誰がどれだけのリスクと労力を負っているかを見て・理解して・責任を分かち合う覚悟があるか?
そうじゃないなら、それは「文化の搾取」だ。
ノーリスクでいい人ぶれるのが、「伝統を守る」と言う側
リスクと実作業をすべて請け負うのが、「伝統を守らされる」側
この非対称性は、行政・商社・飲料製菓メーカー・インフルエンサー・メディア──すべてのプレイヤーに共通している。
そしてこの「美しい言葉のラッピング」に酔ってしまうと、
自分が搾取されている側なのか、している側なのかさえ、わからなくなってしまう。
「モヤモヤを言語化する力」が最大の防御になる
じゃあ、どうすればこの構造に飲まれずに済むのか?
答えはシンプルだ。
自分が感じている「違和感」を、ちゃんと言葉にしておくこと。
「この話、なぜか俺だけが損してないか?」
「応援って言われたけど、そっち何も背負ってなくない?」
「借金は俺、実績はあんた──これ、平等って言えるか?」
そんな“問い”を持つだけで、構造の毒に飲み込まれなくなる。
しかもそれは、誰かを責めるためじゃなくて、自分を守るための言葉だ。
何も反論しなくていい。SNSで叫ばなくていい。炎上させる必要もない。
ただ、モヤモヤを言葉にするだけで、それはもう「防御」になる。
このnoteシリーズは、まさにそれをやってきた。
毒と皮肉と、ちょっとのユーモアで。
ここまで読んでくれたあなたが、次に誰かから「抹茶って未来あるよね」と言われたとき──
その言葉の裏に潜む構造を、冷静に見抜ける目と舌を持ってくれていたら、それだけでこのシリーズの意味はあったと思っている。
でも、まだ誰も責任を取ってない
ここまで読んできて、「さすがにもうバレてるだろ、この構造」と思うかもしれない。
でも現実は──まだ誰も責任なんか取ってない。
むしろ、“責任を取らなくてもいい立場”のやつらが、一番でかい顔してる。
テレビや新聞は「抹茶で世界へ!」とか言いながら、今日もまた、どこかの大手が「抹茶配合スイーツ新発売!」みたいなバブル広告を打ってる。
YouTubeでは「MATCHA農園から生配信!」と、茶畑の上っ面だけをなぞった動画が再生回数を稼ぎ、
行政は「輸出支援」や「補助金制度」で、自分たちの仕事はやってる風にまとめてくる。
──でもな。
誰も現場の疲労には向き合ってないんだよ。
遮光資材はじわじわ高くなってるし、破れても更新費は自腹。
肥料も燃料も値上がりしてる。
生葉の出荷先は地域によっては減っていて、てん茶向けの契約なんかは毎年見直しが入る不安定な取引。
高価格帯で売れるという話は聞くけど、その裏側で、畑を手放す農家も出てる。
なのに、夢みたいな話だけが、表を堂々と歩いてる。
「抹茶で儲ける未来がある」って誰が言った?
その“未来”を支えてる農家の今は、どうなってる?
──誰が、いつ、出口戦略を設計したんだよ?
「来年の契約どうなるかわかりませんけど、様子見でいきましょう」
「この制度、また内容変わるかもですけど、今はとりあえず申請だけ」
「担当変わったんで、ちょっと説明しなおしてもらえますか?」
こういう“未確定の責任回避構文”だけが、今日も日本中の茶園を飛び交ってる。
「抹茶の価格は高止まり」
でも、“その価値を作ってる現場”は削られていく。
MATCHA製品は、カフェでも海外でも高く売られてる。
SNSでは「抹茶ラテで日本文化を!」とか言ってるやつもいる。
だけど──その原料のてん茶を作ってる畑は、どうなってる?
摘採期の人手が集まらない
被覆は破れても買い替えの予算はつかない
てん茶工場は足りてない、建てるには数億円
つまり、現場の負担は右肩上がり。価格は据え置き。構造は放置。
そしてここが一番の地獄──
「抹茶が儲かる」と言われてるのに、ごく一部を除いて、ほとんどの農家は儲かってない。
いや、もっと正確に言うならば、
“バットを振ってるフリをしてるやつが賞賛されて、実際にバットを振ってるのは農家だけ”っていう構図だ。
「補助金」や「支援制度」も、誰の口座から引き落とされてるか?
制度そのものを否定するつもりはない。
でも、申請書を書き、自己負担を用意し、資金繰りを背負い、失敗したら“個人の経営判断”で処理される。
それって結局、全部農家の口座が“最終的な精算場所”になってるってことだ。
支援する側は、制度を使って“実績”を作れる。
農家が失敗しても、彼らのキャリアにはノーダメージ。
で、こっちが潰れかけたら、こう言うだけだ:
「いやぁ、それぞれの経営判断ですからね」
──うるせぇ。
構造は、まだ止まっていない。
ここで強調しておきたい。
抹茶バブルの搾取構造は、まだ止まってなんかいない。
甘い言葉は今も流通している
新しい農家が、毎年“抹茶に転作”している
成功事例はメディアに出てくるが、失敗事例は誰も語らない
声の大きい人たちが、「未来」だけを語っている
そしてその裏で、現場だけが、静かに消耗していく。
これはもう、ただの事故じゃない。
“誰も責任を取らなくて済むように設計された構造”が、今も動き続けてるってことだ。
だから俺は、このシリーズを続けてきた。
そして、これだけは絶対に忘れたくない。
「誰が損して、誰が得してるか?」
「誰が語って、誰が黙ってるか?」
「誰がリスクを背負って、誰が“応援”って言ってるだけか?」
──この問いを、俺たち自身が忘れた瞬間から、搾取は始まる。
“終わっていない”中で、現場にできること
抹茶バブルの構造は、いまだ稼働中だ。
仕組みは修正されず、言葉だけが先走り、現場はすり減っていく。
ここで重要なのは、「終わっていない」からこそ、構造の中で生きながら、どう立ち続けるかという視点だ。
これは“怒り”の話ではなく、サバイバルの技術の話である。
「問い」と「言葉」こそが、防御の技術である
構造的な搾取は、暴力的に始まるわけではない。
むしろ、美談と善意の皮をかぶって、静かに始まる。
「抹茶の未来は明るい」「伝統を世界へ」「応援しています」
──こうした言葉に、俺たちは何度も手を差し出されてきた。
だが、その言葉の裏に、具体的なリスクと責任の所在はどれだけ明示されていただろうか。
言い換えれば、「誰が負担し、誰が利益を得るか?」という問いが、どれだけ交わされてきただろうか。
ここに“構造の歪み”がある。
そしてそれに立ち向かうには、怒鳴り返す必要はない。ただ、「問いを持ち、言葉にすること」。それがもっとも冷静で、持続可能な防御になる。
“語れる現場”が、構造を抑止する
このバブルの問題は、現場が語らない限り、誰も気づかないことだ。
むしろ、語らないことを前提に、外側の言葉(広告・政策・メディア)は作られていく。
農家が黙っていれば、それは「納得している」と解釈される。
異議のなさは、合意と誤認される。
だからこそ、「語れる農家」が増えることは、単なる情報発信ではない。
それは、構造に対する抑止力になる。
言葉の力とは、誰かを打ち負かす力ではなく、
「そう簡単には都合よく利用されない」という、静かな牽制である。
批判ではなく、自衛としての言語化
このシリーズで繰り返し述べてきたように、
これは「農家の怒りの物語」ではない。
怒りはある。悔しさもある。だが、それだけでは終わらない。
これは、防衛のための思考訓練であり、搾取に抗うための言語の記録である。
「言葉を持たなければ、構造に気づけない」
「気づかなければ、搾取されても自覚すらできない」
この単純な真実が不足している。
だからこそ、冷静に、構造を見つめ、言葉にする必要がある。
それは誰かを糾弾するためではない。
“これ以上、誰も潰されないため”である。
次に来るのは「抹茶の反動」か「次のバブル」
バブルの次に来るのは、崩壊か、次のバブルか。
──たいてい、どっちも来る。
抹茶ブームの“反動”は、もう足音を立てて近づいてる。
静かに、じわじわと、信用の剥がれから始まってる。
モガ茶。秋てん。粉末加工。
「抹茶」と呼んでいいのか怪しい商品が、今日も平然と“抹茶”の顔をして売られてる。
ラベルを信じて高い金を払ってた人たちが、
一度でも「あれ?」と感じたら──信用は一瞬で剥がれる。
信頼の崩壊って、サイレントで起きる。
気づいたときには、誰も買わなくなってる。
じゃあ次に来るのは何か?「もっと綺麗なバブル」だよ。
消費者が抹茶に飽きたら、次に持ち上げられるのは
「有機」「地方創生」「観光農園」「サステナブル」「一次産業×エンタメ」──
言い換えただけの“バズワードバブル”が、きっとまた始まる。
中身が変わらなくても、言葉を変えれば売れる。
本質に触れなくても、PR動画と体験コンテンツがあれば評価される。
農業の現場がどうなってるかなんて、誰も見ない。
「なんかいいことしてそう」が売れる時代だ。
──で、また農家が引きずり出される。
「話題性ありますよ」
「一緒に盛り上げましょう」
「未来の子どもたちのために」
いや、お前のキャリアのためだろ。
だから必要なのは、“言葉のアップデート”だ
搾取の構造は、形を変えて繰り返される。
前回うまくいった手口は、次回も使われる。
名前を変えて、プレイヤーを変えて、“別の善意”としてやってくる。
だから、こっちもアップデートしなきゃいけない。
問いを更新すること。
言語を磨き直すこと。
「それ、誰の得?」って言い続けること。
賢くならない限り、
また同じ罠に、別のフレーバーでハマることになる。
でも、一度見抜けた構造は、二度と騙されない。
このシリーズでやってきたのは、そういう“視点のトレーニング”だ。
これは通過点
「最終回」と言うと、どこかに“完結”のニュアンスがにじむけど、
残念ながらこの構造に、エンドロールなんて流れちゃくれない。
抹茶バブルは、まだ弾けちゃいない。
むしろ今がいちばん膨らんでる。膨らみすぎて、もう表面がピッカピカに張ってる。
上っ面では希望とビジネスのにおいが漂ってるけど、
地面に足つけて立ってる側のリアルはというと──疲弊、混乱、そして無音の放置。
つまりこれは、「終わった話」じゃなくて、
終わらない地獄の構造の中で、どう踏ん張るかって話だ。
“沈黙”は、同意として処理される世界
この搾取構造のタチの悪いところは、ぶん殴ってこないこと。
いやむしろ「応援してます」「未来は明るいです」なんて、肩をポンとしてくる。
で、それを疑問視した瞬間──
「空気読めないやつ」「反対ばっかしてるネガティブ人間」のレッテルが貼られる。
でもさ、沈黙してれば「納得してる」ことにされるんだよ。
語らなきゃ「問題ない」ってことにされるんだよ。
そうやって、構造は“無風の中”で回される。静かに、悪びれもせずに。
言葉は、怒鳴るためじゃない。生き延びるためにある
だからこそ必要なのは、怒鳴り返すことじゃない。
ましてや理想を語ることでもない。
必要なのは、“問い”を持ち、“言葉”を整えること。
「それ、本当に共創?」
「応援って言葉、何か具体的にしてくれたっけ?」
「そのリターン、どっちの口座に入った?」
この手の質問を黙って飲み込んだ瞬間から、搾取は始まる。
言葉は、怒りのためじゃない。自衛のため。
語れないと、構造が見えない。構造が見えなきゃ、利用されても気づかない。
“現場”には、まだ人がいる
抹茶が、スイーツやパッケージの中で神格化されてる間にも、
現場には、農機を持つ手がある。泥にまみれた野良着がある。
言葉なんか持たないまま、草を刈ってる人がいる。
だから俺は書く。ただの農家として。
ギターを置いて、代わりに言葉を持って。
これは、戦うためのnoteじゃない。生き残るための記録だ。
“ちょっとだけ儲かってる風”が、いちばんヤバい
ほんとやっかいなのは、儲からないときじゃない。
一番やばいのは、“なんとなくイケてる風”が漂ってる時期。
これが判断を狂わせる。
思考は止まり、問いは消え、油断した産地が次に差し出すのは──最後のカードだ。
だから、こう言いたい。
「今まで儲からなかった」なら、次の“儲かる話”にはまず構造を疑え。
その話、ほんとに“誰のため”だ?
この国の農業ってさ、
ギリギリのところで、賢さが試されてる。
これはそう思うよ。ホントに。
バブルは終わらない。だから、言葉は止めない
これで一つのシリーズは区切るけど、
この構造が勝手に終わってくれるほど、都合よくはできてない。
「有機」「観光農園」「地方創生」──そんな看板はもう出尽くした。
次に来るのは、もっと巧妙で、もっと言語化しにくいやつだ。
たとえば「社会課題の解決」とか、
「Z世代の共感を呼ぶブランディング」とか、
「文化の再編集」だの「サステナブルな感性経済」だの──
言葉のシャワーで煙に巻いて、構造をごまかしてくるタイプのバブルだ。
「正しいことをやってる感」だけが肥大化して、
現場がどんどん透明になっていくパターン。
だから、問いも、言葉も、更新し続けなきゃダメだ。
構造は変幻自在に姿を変える。
そのたびに、こっちも言葉を研ぎ直して、構えていくしかない。
だから、問いと言葉も、アップデートが必要なんだ。
最後に
抹茶バブルはまだ終わっちゃいない。
終わる気配もない。むしろ、次の顔でまた始まろうとしてる。
──それが、あまりにも見え透いてて、ちょっと笑えるくらいだ。
じゃあ、こっちはどうするか。
怒鳴らない。騒がない。逆に、「構える」。
そういう姿勢で、ここまで言葉を刻んできた。
それはきっと、「戦う」んじゃなくて、「消されない」ためだ。
ほんとに怖いのは、声が大きいことじゃない。
問いが消えること、言葉が薄くなること
それが、この国の農業を静かに削っていく。
だから俺は、書いた。
ギターを持たずに、言葉を手にして、ちゃんと冷静に、ぶっ叩いた。
そしてこれが、今のところの“答え合わせ”だ。
まだ終わってないなら、止まる理由もない。
また次に、なにかの顔をしたバブルが来たら、
そのときも同じように言ってやるつもりだ。
「それって、誰の得?」
「で、その請求書は誰のとこ来るの?」
「また俺たちに、いい話のツケだけ残すつもりか?」って。
そういうふうに、問い続ける。
中指じゃなく、言葉でね。



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