<朝のディボーション>現状に対するメッセージ
イザヤは、この書が、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見た幻であると語る。聞いて書き留めた幻ではない。見た幻である。雅歌では「匂い」が、繰り返し意識されていた。匂いは親しい関係を暗示する。愛は体臭を感じる距離である。しかし、「見る」は、より距離感があって、客観的である。イザヤがこれから語るメッセージは、民の霊的状態についての、神の客観的な評価でもある。そういう意味で、イザヤ書は、1世紀の7つの教会に対する神の評価と悔い改めを促すメッセージで始まるヨハネの黙示録と同様の書き方をしている。それは、まず、南ユダ王国の民に対する評価から始まっている。
「国は荒れ果てている」(7節)。確かにイザヤの時代、南ユダ王国は少なくとも三度侵略され、その国土は荒廃していた。BC734年、イスラエルとシリヤの連合軍による侵略(2列王7章)、さらに、BC712 年サルゴン(2列王22章)、BC701年セナケリブ(2列王26章)による二度に渡るアッシリヤ軍の侵略があり、もはやダビデやソロモン王の時代の優雅さはなかった。また民の心も荒れ廃れていた(4節)。宗教儀式は守られてはいたが、それは形式的であり、見せかけで命のないものであった(13,14節)。彼らの礼拝は神を喜ばせるどころか、神を悲しませ、吐き気を催させるようなものであったという。
<夜のディボーション>憐れみ深い神
だからといって神は、民を見捨てるわけではない。人は一度嫌悪し始めたら、その思いを変えるのは難しい。一度、見捨て始めたものを思い直すことは困難である。しかし、神は言う。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け、悪事を働くのをやめよ。」(16,17節)。神は悔い改めを命じる、仕切り直しを命じて、もう一度立ち返ることを命じる。ただ心を入れ替えよというのではない。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(18節)。神は、私たちが変わる力をも備えてくださる、という。神は手を差し伸べ、助力しながら、私たちを悔い改めに導くのである。
嫌悪したものを見捨てる、これは世の常である。嫌悪したものを矯正するように打ち叩き従わせる、この世にありがちなことである。しかし嫌悪したものに、忍耐を示し、必要な助けを与えながら、完全に回復させるように関わる愛は、この世には見出しがたい。私たちが、神の悔い改めのメッセージに慰めを見いだすとしたら、この点ではあろう。単に責められるだけでは、人は変わることはできない。いつも手厳しい批判にさらされるだけであるならば、人は萎縮し、自分の愚かさに素直になることはできない。しかし、そんな私たちから決して離れることがなく、決して愛想を尽かすこともなく、いつも変わらぬ愛の態度を貫く者がいればこそ、人は自分の愚かさや罪に素直にもなり、それを認め、そこから変わろうと決心することができる。また、そこにいつも必要な力を注いでくださり、神的な業を成してくださるお方を覚えればこそ、私たちは、自ら変わることへと自分を向けていくことができる。神の助けを理解する者となろう。
13/10/31 05:33