【PR】ドコモのサブスク【GOLF me!】初月無料
goo blog サービス終了のお知らせ 

イザヤ書5章

 神は、エルサレムに住むユダの人々を、ぶどう畑にたとえている。神は労を惜しまず、それこそ天塩を懸けて甘いぶどうが実るよいぶどう畑を夢見つつこれを育てたのである。だが、実際に出来たのは酔ぶどうの畑であった(2節)。神の様々な苦労は水の泡で、それは全く意に反した結果となった。そこで神は、ぶどう畑の垣根を取り去り、野生動物が侵入して踏みにじり、荒れ果てるままにされる、と言う。それは後のアッシリヤがイスラエルに侵入し、さらにイスラエルの国民が我欲の中に滅びる様を預言している。しかしそれは決して、神が彼らを放り投げたと言うのではない。実際、求めない人間を鞭打って従わせることはできないからだ。その人自身が気づくまで、待つことも愛である。
8節からは、当時の国家の具体的な罪が語られる。一つは、富める者が、貧しい者を搾取する世界になり果ててしまった(8-10節)。つまり自分の成功や繁栄だけを考え、土地投機に熱中する強欲な世の中になり下がってしまった、と言う。けれども、神は人が期待するほどの収穫は得られないと裁きを告げている(9節)。また、敬虔な人生ではなく遊興三昧を追求する世界となってしまった(11-17節)。酒や音楽が悪いわけではない。しかし、面白おかしく人生を歩むことがすべてではない。実際、人間はただ自分のために金をつぎ込んで、着飾り、飽食と遊興と上昇の生活を送るだけでは決して満足できないものだ。そのけだるい酒池肉林の世界に満たされない悲しみを感じるようになるだろう。人は、与えられた財、時間、才能、賜物を、神のみこころにそって用い、人の為に役だってこそ大きな満足を見いだすものだからだ。本当に心が通じ合い、満たされた関係や場があれば、何もいらないと感じるのが人間であったりする。そして、神を認めず、神の裁きを侮る世界となってしまった(18-20節)。それは白を黒と言い、黒を白と言うような世界である。嘘偽りの世界である。結局、まことの神を認めず、自分を神とする高ぶり、まさに最初の人間アダムが犯した罪に陥っている(21節)。あらゆる罪の根は、人間存在の根源である神を認めないこと、神の前に遜らないことにある。
 こうして神が、裁かれるのも無理はない(24節)。「地震」(25節)も「嵐」(30節)も、神の臨在とその力の現れを象徴する。しかしその間に挟まれて、別の力(26-29節)が描かれている。いわゆる神が裁きの道具として送り出された略奪者たち、侵略者のアッシリヤを預言している。ヨハネは、新約聖書の黙示録の中で、同じぶどう酒のイメージを用いてこう語っている。「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうをかり集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた」(14:19)。イザヤは当時のイスラエルをぶどう畑にたとえたが、ヨハネは現代の読者をぶどう畑にたとえている。ヨハネはイザヤの預言を念頭にしたのだろう。となれば、この預言は、私たちにも向けられたことであり、私たちの心を探るものでもある。私たちが、神を認めない人と同じような搾取と放縦に心を奪われ、偽りと形式だけの礼拝をささげているとするならば、いわゆる上辺だけのクリスチャン生活を送っているだけならば、神は、それは自分の期待するところではない、と語られる。悔い改めて、本当にいのちある信仰生活をして欲しいと願っておられるのである。
この広告を非表示にする


サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了しました。

最近の「イザヤ書」カテゴリー

バックナンバー