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「ゼロからイチにとても惹かれるんです。Mr.Childrenもゆずもゼロからのスタート。AIに引っかからないものにも珠玉の価値はあると信じている」【トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一インタビュー後編】

絶賛発売中の『いつも心にパンクを。Don‘t trust under 50』。この本を書き終えた著者の佐藤誠二朗が、どうしても話を聞きたかったトイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一のロングインタビュー。
80年代にラフィンノーズと出会い、別れ、トイズファクトリーを立ち上げるまでを伝えた前編
後編では、国民的ビッグアーティストである、Mr.Childrenとゆずとの出会いからブレイク、そして現在まで、稲葉が変わらず持ち続ける“インディーズ・スピリット”について。(文中敬称略)

(取材・文/佐藤誠二朗 撮影/新保勇樹)
多忙な中、貴重な時間をいただいた取材。トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一。
多忙な中、貴重な時間をいただいた取材。トイズファクトリー代表取締役 CEO 稲葉貢一。

初期のトイズファクトリーにあった空気感とMr.Children

1988年、JUN SKY WALKER(S)、筋肉少女帯、THE RYDERSの3バンドを擁して発足したトイズファクトリーは、当初、大規模な拡張を狙った組織ではなかった。
ミュージシャンの可能性を地肌で感じ取ることこそが、トイズファクトリーの出発点。
インディーズ的な体制のもと、レーベル発起人の稲葉貢一は自らライブ現場に足を運び、未知のバンドを掘り起こし、寄り添いながら育てていくことを最優先にしていたのである。

その地道な活動は、時代の大きなうねりと重なっていく。
80年代末から90年代初頭にかけて全国的なバンドブームが巻き起こり、ライブハウスやストリートから発掘された新しい才能がこれまで以上に注目され、もてはやされる時代となった。
さらに、バブル景気に浮かれ気味の世相が若者文化への投資や消費を後押しし、音楽シーン全体が熱気を帯びていったのである。

トイズファクトリーはそうした追い風を受け、あくまでインディーズ的な現場感覚を貫きながらも、気づけば必然のように規模を広げていった。その結果、日本の音楽産業に確かな足跡を刻む存在へと成長していくのである。

稲葉貢一へのインタビューは、バンドブームやバブル景気が一段落した時期に、彼が出会ったあるバンドの話題へと移っていった。

――1992年頃といえば、バンドブームは収束傾向でしたが、JUN SKY WALKER(S)や筋肉少女帯は、もはや別次元の成長を遂げ、ビッグセールスを叩き出していた時期だと思います。そんな折、稲葉さんはMr.Childrenに出会うわけですね。

「そうですね。ラママ(※筆者注/渋谷の道玄坂に位置するライブハウス・渋谷La.mama。キャパは約250人)に出た彼らを観にいったのが最初です。僕の記憶だと、お客さんは30人くらいしかいませんでした。ボーカルがすごく目立つバンドだな、というのが最初の印象。何か、突き抜けた存在感があったんです。でもその反面、少し暗めの雰囲気もあった。だから、今すぐにうちでやらないかと声をかける感じではなく、その感覚の一歩手前発展途上のバンドだと思いました」

――そうなんですね。あのスーパーバンドが、即決ではなかったのは少し驚きです。

「もちろん、その日に桜井(和寿)くんの連絡先を聞いたりはしました。その半年後くらいだったかな、なぜだか無性にMr.Childrenを観たくなって、ライブのスケジュールを聞こうと桜井くんに電話をしました。すると彼は『ちょっと活動を休んでいたんです』と言いました。2、3ヶ月休んで、バンドを精査し、見つめ直そうとしたのだと。それで久々のライブがあるというので行ってみたら、めちゃくちゃいいなと思える音になっていたんです」

――稲葉さんが最初に見たときに感じていた“一歩手前”感を、バンド側も感じて補正したんですかね。

「そうではないと思いますが、そのライブの後、すぐ桜井くんに電話して、新宿のDiGというジャズ喫茶で会うことになりました。そこには桜井くんとJEN(Mr.Childrenのドラマー、鈴木英哉)の2人がやってきました。話をしたら、もうその場で『やろう!』となりましたね」

――競合する他のレコード会社はいなかったんですか?

「それは分かりませんが、なかったと思います。SNSがある今は、有力なバンドであればいろんなところから同時に声がかかると思いますが、当時はそうではなかったので、声をかけて、一緒にやる方向になりました」

――一連のインディーズブーム、バンドブームの流れとは違うところから発掘した最初のバンドという位置付けだと思いますが、Mr.Childrenでもう一度バンドブームを盛り上げようという考えもあったのでしょうか?

「いや、当時はバンドブームが衰退傾向でしたから、むしろ、今さら新たなバンドを売り出すのはどうかという声もありました。でも僕はそんなこと全然気にしていない、考えてもいませんでした。桜井くんの持って生まれた才能と、バンドメンバーの成長を見せることが大事だと思っただけなんです」

――そのための方策はあったんですか?

「音楽プロデューサーをつけることにしました。小林武史さんです。小林さんはメンバーに会うと、『ファーストアルバムは全部、新曲でやろうよ』と提案をしました」

――桜井さんは、その時点で持ち曲がたくさんあるわけですよね。それを使わずに全て新曲というのは、大胆な提案ですね。

「本当にそうですよ。でも、桜井くんは時間の無い中でしたが、全部新曲でやるという基本コンセプトに従って、ファーストアルバムの『EVERYTHING』(1992年5月、トイズファクトリーより発売)を作っていくんです。短時間で桜井くんが曲を作り、小林さんの自宅件スタジオでブラッシュアップする。まだ、プリプロ(レコーディングの前に楽曲の構成やアレンジ、使用する機材などを決定する仮録音やリハーサル)という言葉があったかないかぐらいの頃でしたが、そういう作業ですね」

――『EVERYTHING』は、ジャケットも当時の時代感が出ていて、すごくいいですよね。

「Mr.Childrenデビューチームの座組としては、アートディレクションを信藤さん(※著者注/信藤三雄。Mr.Childrenのほか、松任谷由美、サザンオールスターズ、フリッパーズギター、ピチカート・ファイブ、オリジナル・ラブ、SMAP、MISIA、宇多田ヒカルなどを手掛けた日本を代表するアートディレクター。2023年没)にお願いしました。信藤さん独自の発想でお洒落でヒップなクリエイションがいいなと思ったのがお願いした理由です。ジャケット写真の撮影場所は、中目黒にあった信藤さんの事務所(コンテムポラリー・プロダクション)なんです」

――稲葉さんご自身の采配によるトータルなディレクションによって生まれた『EVERYTHING』はとても素晴らしい作品だと思いますが、発売後の結果は思ったとおりだったんですか?

「いや、思っていた以上でしたね。多分、想定の3倍ぐらいの良い結果になったと思います。もともと、彼らの目標は大きかったんです。桜井くんは最初に話をした時から『100万枚売りたい』とはっきり言ってましたから。ミリオン、あるいはそれ以上を目指すという彼の大きな目標を実現するには、小林さんのような才能あふれる音楽プロデューサーに向き合い、全力で吸収してもらう必要があると思いました。そうすれば桜井くんは成長してモンスター化もあるのではないかと思ったんです」

――稲葉さんはMr.Childrenに、最初からそんなポテンシャルを感じていたんですね?

「桜井くんには、大切な時に最高にいい曲を作り出せる才能がありました。“大衆”と言ってもいい誰もが反応できるような名曲を、連続的に作り出せる能力です。何しろ彼は、ツアー中でどんなに忙しくても、3日くらいで曲をまとめ上げるんです。音楽に対する情熱がすごくて、例えるなら音楽の世界における大谷翔平くんのような人なんでしょうね」

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佐藤誠二朗

さとう・せいじろう●児童書出版社を経て宝島社へ入社。雑誌「宝島」「smart」の編集に携わる。2000~2009年は「smart」編集長。2010年に独立し、フリーの編集者、ライターとしてファッション、カルチャーから健康、家庭医学に至るまで幅広いジャンルで編集・執筆活動を行う。初の書き下ろし著書『ストリート・トラッド~メンズファッションは温故知新』はメンズストリートスタイルへのこだわりと愛が溢れる力作で、業界を問わず話題を呼び、ロングセラーに。他『オフィシャル・サブカル・ハンドブック』『日本懐かしスニーカー大全』『ビジネス着こなしの教科書』『ベストドレッサー・スタイルブック』『DROPtokyo 2007-2017』『ボンちゃんがいく☆』など、編集・著作物多数。

ツイッター@satoseijiro

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