ゲームコミュニティ論 2ちゃんねるから分散型SNSまで
ビデオゲームについて語るうえで、多くの議論は作品や開発者など「作り手」の議論に集中してきた。
その一方、あまり語られてこなかった側面がある。それは「ゲームコミュニティ」。作品を購入し、プレイし、場合によってはゲームファン同士で称賛・批判する「遊び手」側の議論が、(esports等を除き)実はほとんどされていない。
言わずもがな、あらゆるカルチャーには「コミュニティ」の礎が必要となる。いくら素晴らしい作品が存在しても、それを楽しみ、共有し、他人に伝えるコミュニティなくしては文化は成立しない。
その上、わたしは2025年現在、著しくゲームコミュニティが危機的な状況にあると感じている。具体的には、発売前のハイプが嘘のように発売後に忘れ去られ、あるいはゲームのネガティブな側面だけが独り歩きして自己完結した炎上コンテンツとして消費されている現状だ。
本稿ではこれまで語られてこなかった「ゲームコミュニティ」について、とりわけ2010年代から2020年代のゲームコミュニティを分析しながら、今日本におけるゲームコミュニティが向き合っている決定的な危機について検討したい。
またゲームコミュニティについて考えることは「ゲームを知らせる・売る」ためのマーケティング手段の検討も意味する。とりわけ従来のネット広告が廃れていく中で、海外の企業が着目した「分散型SNSとゲームコミュニティ」についても議論するので、業界関係者にとっても有益な記事になっていると思う。
(なおあまりに文字数が膨らむので、本稿はPBMなど2000年代以前のゲームコミュニティや、アーケード/esports分野は触れられていない。それらについては記事の反響をみて今後取り上げるか検討する)
2025年のゲームコミュニティの不安とは
わたしは、2025年においてゲームコミュニティはかなり危機的状況にあると感じている。
この「不安」を覚えた瞬間はいくつかあるが、特に今年は発売前と発売後で、とても同じゲームに対する反響とは思えないほど落差があった作品が多かった点にある。
そもそもの話、2025年はここ数年の中でもっともゲーム文化がホットな一年だった。
第一に、誰もが待ち望んでいたコンソールハードのNintendo Switch 2が発売された。無論そこには、Switchで最も売れた「マリオカート」最新作に、元倉D率いる3Dマリオチームの新作『ドンキーコング バナンザ』などの独自タイトルが付随している。
一方、SIE側はこちらも前作が大成功した『DEATH STRANDING 2』に『Ghost of Yotei』がある。MSには『Atomfall』や『Avowed』もあった。さらにインディーシーンを見渡せば、こちらも『Hollow Knight: Silksong』を筆頭に『Hades 2』『リトルナイトメア3』『Split Fiction』など1000万本超えシリーズの続編が出揃った。
ハッキリ言って、2025年は5年に1度といえるほどの大作ラッシュだったと言えるだろう。Switch 2は言うに及ばず、コンソールからPCまでレジェンドが出揃っている。インディーでさえ、ビジネス面で大ヒット間違いなしの続編が次々とリリースされていく様子には、もはやインディーのパラダイムシフトさえ感じさせるほどだ。
しかし、少なくとも「発売前」のハイプと比べると明らかに「盛り上がってない」と感じる。
もちろん主観的な議論になってしまうが(そもそも数値化すること自体が難しいといえ)、「発売前」においてはどのタイトルもX、Tiktok、YouTube、まとめサイトまで、発売前には情報が小出しにされるたびに大盛況が巻き起こり、トレンドを席巻していた。
しかしいざ作品が発売されると、そうした声援はまたたく間に小さくなり、タイムラインの彼方へ流されていく。しかもゲーム内容は決して悪いわけではない。『バナンザ』も『デススト2』も『ヨーテイ』も、一本ごとに語るべきことの多い名作でありながら(従来であれば1本で1年は語れる価値がありながら)、そうした議論が大規模には見られない。
(ただ例外もあり、『Clar Obscur: Expedition 33』『サイレントヒルF』、特に日本では『魔法少女ノ魔女裁判』『都市伝説解体センター』などが発売前は実際にプレイした人々の好意的な反響で拡散されていった)
その一方、逆に予想に反して大いに「盛り上がった」タイトルもある。
そのタイトルとは『モンスターハンターワイルズ』『アサシンクリードシャドウズ』。詳細については後述するにせよ、ネガティブな論調においてゲームコミュニティの外側へ波及するほどの盛り上がりを、ほとんど唯一見せたのは皮肉である。
総じて、発売前の期待値が高いゲームほど発売後にその勢いは相対的に失われ、逆に低いゲームや、そもそも炎上するゲームほど顕著に盛り上がっていったと考えられる。つまりゲームコミュニティはただ「盛り上がっていない」だけではなく、発売前のハイプと反比例する傾向にもあるようなのだ。
さて、ここまでの議論では、一部のタイトルがただウケなかったり炎上しただけのことで、現状のゲームコミュニティを「危機的状況」と断じるのは早計ではないかと感じられるだろう。
しかし、わたしがここで重視したいのは短期的なゲームコミュニティの実情ではなく、ゲームコミュニティそのものを支える「構造」についてである。
一般的に、自分たちの社会を理解するためには、社会をルールや権力から紐解くアプローチ……いわゆる「構造主義」という考え方がある。
ここではビデオゲームのコミュニティを「構造主義」的に理解することによって、一体なぜゲームコミュニティがこうなったのか、そして今後どうなっていくのかについて考えたいと思う。
2000~2010年代のゲームコミュニティ ソーシャルグラフと口コミベース
2025年現在において、根本的にゲームの「盛り上がり」を視覚化できるものはソーシャルメディアしかない。
2000年代以前──パブリッシャーが積極的にマスメディアに対して出稿していた時代──は、まだ雑誌のゲームメディアや漫画誌、あるいはテレビCMやその反響などで視覚化されていた。しかし、今のゲームプロモーションはほとんどがネットである。とりわけ、動画や配信などでゲームを発表し、SNSを通じてバイラル化していった末に、定着化させていくことが「盛り上がり」の本質といえる。
言い換えれば、ゲームの反響はSNS……とりわけTwitter、YouTube、Twitchのような「マス向けSNS」における「盛り上がり」によってのみ可視化されてきた。その点で、2000年代以降、ビデオゲームの批評性は世俗的にも批評的にも、強くSNSというプラットフォームに構造に依存しつつあるというのが主流の見方だった。
ネット上での反響がビデオゲームの盛り上がりへ反映され始めたのは、2000年代のことである。
パソコンの普及に伴いネット環境が普及し、それは匿名掲示板(2ちゃんねる)を通じて、それらをキュレーションした「まとめサイト」「ゲハブログ」へと展開されていく。
とはいえ、当時は既に権威として確立された任天堂やソニーのようなプラットフォーム(ゲームハード)や、同じく権威化された『ファイナルファンタジー』などの人気シリーズを巡った一種の代理戦争(ゲハ戦争)が議論の中心だった。それでもゲームを主体的に、生産的に盛り上げようという事例は度々発生している。
(ただし、黎明期のインターネットにおいても積極的に議論はしていたし、同人ゲーム・アダルトゲーム・フリーゲームなど、非権威シーンにおいては匿名掲示板の主張は非常に強かった。ただ前者はネット総人口自体が限られていたこと、後者はコンソールゲームの主流からはやや外れていることを理由に、この議論では一度割愛する)
こうした事例は多々あるが、その中でも強いて象徴的な例として挙げられるのが、アルファ・システムの『高機動幻想ガンパレード・マーチ』とフロム・ソフトウェアの『Demon's Souls』だ。
前者・後者ともに決してメジャーなメーカーではなく、プロモーション予算も限定されていたが、匿名掲示板を中心とするゲームコミュニティに口コミによって広まったゲームである(ただ前者は電撃による特集も大きい、)。いずれも独自かつ難解なゲームメカニクスを有していたが、それゆえにゲーマーがそれぞれの経験や価値観をもとに議論を活性化させ、それが次なる口コミを呼び込んでいたことは日本ゲームコミュニティならではの「盛り上げ方」だったといえるだろう。
よりグローバルに目を向けると、インディーゲーム文化の成立においてゲームコミュニティが果たした役割は非常に大きい。
インディーゲームはその性質上、十分な広告ができず、従来の雑誌やCMに依存したプロモーションは不可能だった。しかし、インディーゲーム史上最大の成功作である『マインクラフト』を筆頭に、多くのインディーゲームがRedditや黎明期のYouTubeを通じて拡散され、「盛り上がる」ことによって一大シーンへ至るのである。
このように2000年代のネットは(ゲハブログなどネガティブな影響も大きかったものの)PRに予算をかけられない名作を口コミで拡散するという点で「ゲームコミュニティ」として成立していた。
さらに2010年代にはスマホが普及し、Twitter、YouTube(ニコニコ動画)、Twitch、TiktokなどオープンSNSの発展がこの勢いを助長した。
この時代においては動画投稿者やブロガーなどの「インフルエンサー」がビデオゲームを「発掘」し、その魅力を広めるということが可能になった。これによって、ゲームを「盛り上げよう」とするゲームコミュニティは文字・動画どちらにおいても広まっていった。
2020年代のゲームコミュニティ インタレストグラフへの移行と信頼関係の崩壊
しかし、2020年代から急速にこのSNSベースとしたゲームコミュニティに歪みが生じるようになった。
それはまさに2025年に顕著となった、「発売前」における過剰なハイプやそれに対する反動的な話題の収束、あるいは極端にユーザー主導でのゴシップやイデオロギーありきの(作品と無関係な)サイバーカスケードである。
なぜゲームコミュニティは変化してしまったのか。この背景となるのが、ゲームコミュニティのベースとなるSNSプラットフォームの大幅な変化だ。これはTwitterがイーロン・マスクが代表となってXへ変貌したことが象徴的であるが、YouTubeやTikTokなど(表面的に変わってなさそうなSNS)でも同じ変化が起きている。
ここでSNSに起きた変化はなにか。
それは一言でいえば、「ソーシャルグラフ」ベースのアルゴリズムから「インタレストグラフ」ベースのアルゴリズムへの変更である。
そもそも、アルゴリズムとは計算式、ここではユーザーにどのようなコンテンツを見せるかを決定する計算式とする。当たり前だが、すべてのユーザーのために人間が一つひとつ表示するコンテンツを選ぶことは不可能なので、特定のアルゴリズムによって自動的にコンテンツを表示させるのだ。
そして、少なくとも2010年代のSNSは「ソーシャルグラフ」ベースのアルゴリズムで成立していた。
「ソーシャルグラフ」は、文字通り人間関係に基づいたつながりを意味する。当たり前だが、Twtitterは自分がフォローした人のツイートが表示されるし、YouTubeであれば自分がチャンネル登録やいいねをしたユーザーの動画が優先して表示される。ユーザーの人間関係が、そのままアルゴリズムに加味されるということだ。
対して、2020年代からSNSプラットフォームのほとんどが「インタレストグラフ」、すなわちユーザー個人の「興味・関心」(インタレスト)に基づいたつながりを重視するようになっている。
具体的には、TwitterからXに変化した際に、ユーザーは従来のユーザー個人のフォロー・フォロワー関係でコンテンツが埋まるソーシャルグラフに基づく「フォロー中」のタブではなく、ユーザー個人の興味関心──ここまで視聴やいいねをした傾向にある趣味、集団、政治思想など──に基づいてプラットフォームが勝手に表示する「おすすめ」のタブが最優先で表示されるようになった。
この変化に対し、Twitterのヘビーユーザーはかなり不満を表していたから記憶に覚えている人も多いだろうが、実のところTiktok、Twitch、YouTubeほとんど全てのプラットフォームで同じ変化は起きている。YouTubeのおすすめ欄にはほとんどチャンネル登録済みのものは表示されないし、Twitchもじわじわとサブスクと関係のない表示領域を増やし、TiktokやShortに至ってはほぼ全コンテンツの表示がアンコントローラブルになってしまったのだ。
では、どうしてこのようなアルゴリズムの変化があったのか。
端的に言えば、統計的に「インタレストグラフ」ベースのほうがユーザーの滞在時間が伸び、ひいてはそれが企業の利益につながるためである。
また多くの部分でユーザーではなくプラットフォーマー側がコントロールできることは、企業として実に様々な利益がある。もっとも、多くのSNSプラットフォームは実のところ経営的にギリギリで、遅かれ早かれ方針転換を余儀なくされることは想定されていた。
そしてこの結果、生じたのがゲームコミュニティの歪みである。
まず、従来のネットにおける口コミベースの盛り上がりとは、アルゴリズムは「ソーシャルグラフ」がベースになっている。
ソーシャルグラフにおいて、当然ながら重視されるのは人間同士の信頼関係だ。マスメディアの発信力の代わりに「友達のAさんがおすすめしているから」「有名実況者のBさんが実況していたから」という個人から個人への信頼・尊重といったネイティブな感情によって、特定の作品に対するポジティブな注目が集まっていく。これこそ『Demon's Souls』や『マインクラフト』が口コミで広がった背景だった。
しかし「インタレストグラフ」がベースの場合、まず「ソーシャルベース」における人間関係は解体されていく。純粋に、自分が認知・信頼している人の発信よりも、興味・関心に基づく人の発信が優先的に表示されるからだ。
特に家族や親友ほど近くはない、ただネット上だけで完結した関係性では、「インタレストグラフ」の前ではほとんど他者化される。ひいては、そういった他者への信頼ベースで特定の作品について知る機会は減るし、逆に自分の意見が第三者の目にとまる機会も減っていく。
そのため当然、従来的な口コミベースのゲームコミュニティは解体されていった。特に口コミは、実際に遊んだ経験に基づいて作られる以上、性質上「発売後」にしか発生しえない。ところが「インタレストグラフ」で人間関係が徐々に解体されていった結果、当然ながらユーザーのネイティブな審美眼によって作品が「発掘」されても、それが拡散される余地が減っていく。
そのうえ「インタレストグラフ」における興味関心とは、原則的に、既に存在する興味関心の維持である。プラットフォーム側はこれを「認知的な摩擦を減らすため」と言っているが、つまるところ、「自分がすでに知っている・言っていることを、他人が再生産したコンテンツ」が中心となる。
実はこれも「発売前に盛り上がり、発売後はそうでない」という問題の原因がある。
発売前の盛り上がりとは、長時間かけて醸成されていった「まだ発売されていないゲームの予想や期待」といったコンテンツか、純粋に大手企業が大きな予算を投下して人工的に作り出したプロモーション(Summer Game FestやNintendo Directなど。これらは実は非常に莫大なコストがかけた上質かつ無料のコンテンツである)に依存している。
そして発売後は、既に「ゲームを(実際に遊んだ)感想」という「ゲームの期待」とは全く別物のコンテンツとなるため、アルゴリズムの必然として別の興味・関心として同じゲームでありながらインタレストが切断され、そのゲームについての情報がプラットフォーム上に表示されなくなるのではないかとわたしは考えている。
ここの興味深い点は、プロモーション予算の乏しいインディーゲームと違って、プロモーションが潤沢な大作ゲームであってもアルゴリズムの影響を免れない点である。確かに「インタレストベース」のSNSでも、大量の広告を投下すれば、強引に「期待の大作ゲーム」に対する興味関心を形成し、発売前であれば「盛り上がり」を作れる。
しかし「発売前」に広告など無料コンテンツによって大衆にバズった話題も、購入(金銭)とプレイ(時間)を前提とする「発売後」では「興味」が失われてあっという間に忘れられる。そもそも「インタレストベース」は瞬時に「興味」を消費した瞬間、また次の「興味」へと散発的に移行するために、同じ話題を(発売後まで)継続すること自体が不可能なのである。
そして何より「インタレストグラフ」最大の問題とは、このような「興味関心」を突き詰めた結果、長期的な信頼関係ではなく短期的なインプレッションを重視することになった点にある。
つまり「インタレストグラフ」のアルゴリズムでは何の関係性のない人物でも「興味関心」さえ的確に汲み取れば即座にバズれるため、最大多数のユーザーが最大功利として求めるコンテンツ──つまり過激な私刑的「炎上」コンテンツだ──を作るインセンティブが強力にはたらく。
そう、まさに『アサシンクリードシャドウズ』や『モンスターハンターワイルド』の炎上は、最たるものだろう。前提として、これらの作品に対し批判を寄せることは構わない。しかし明らかに物事を拡大解釈し、過激な言葉で周囲を煽り、嘲笑的な態度で責任を回避するようなコンテンツは「批判」と呼べず、単なる「私刑」でしかない。
無論、悪辣なゴシップはいつの時代でもあり、それこそ未だにしぶとく生き残る「ゲハブログ」がそれを証明している。しかし、これほど強くSNSプラットフォームに依存する現代社会において、プラットフォームが長期的な信頼を重視する「ソーシャルグラフ」から短期的な関心を重視する「インタレストグラフ」へと移行していったことは、明確にこのモラルハザードを助長しているのは明らかであろう。
それはまさに、日本における参政党や、アメリカにおけるMAGA派にみられるようなポストトゥルースにのっとったポピュリズムが証明しているように。
2020年代以降のゲームコミュニティ 分散型コミュニティの時代
さて、2000年代のマスメディアの時代から2010年代はインターネット・SNSの時代へ移行し、「ソーシャルグラフ」的な口コミによるユーザーの「盛り上がり」によってゲームを評価できる時代となったものの、2020年代にはプラットフォーマー各社の「インタレストグラフ」への移行に伴って刹那的「興味・関心」によって瞬時に情報は消費され、代わりに「発売前」「炎上」など誰でも便乗できるものに限定されていった。
ではゲームコミュニティは完全に崩壊してしまったのか?実はそうとも言い切れない。
大手SNSの変化に伴って注目を集めている現在、急速に注目を集めているのが、分散型SNSだ。
「分散型」の定義は様々だが、狭義としてはサーバーが統一されていないもの、広義としても従来の「ソーシャルグラフ」を重視し中央集権を避けるSNSだと考えられ、具体的にはDiscord、Bluesky、reddit、あるいはSteamなどが挙げられる。
例えば、Discordには全ユーザーが共有するサーバーはない。リアルの仲間うち同士から、同じ作品を共有する愛好家まで、大小さまざまなサーバーが林立し、それらで独自のルールが敷かれている。redditはかなり昔から存在するが、これもトピック・コミュニティごとに細分化され、やはりルールやカルチャーが差別化されている。Steamは販売プラットフォームとしては統一的だが、代わりにコミュニティはゲーム開発者ごとに分散化され、直接ファンと開発者がコミュニケーションを取れるようになっている。
大手SNSの現状に対する不満から、ここ数年で分散型SNSへの注目は大いに高まった。Discordの月間アクティブユーザーは2025年時点で2億人以上まで増加し、創業20年目のRedditはなんと月間アクティブユーザー11億人に昇る(2021年からおよそ3倍に増えた)。Steamは月間アクティブユーザー数が1億8500万人、誕生間もないBlueskyでも登録ユーザーだけなら3600万存在するという。
そのためビデオゲームコミュニティの中心も、TwitterやYouTubeのような中央集権的なプラットフォームから、分散型プラットフォームへ移行しつつある。そして、分散型SNSにおいては従来のような刹那的な情報の消費は行われず、比較的、理性的なコミュニティが一部を除いて確立されつつある。
まず分散型SNSにおける最大の特徴は、既にソーシャルグラフで述べたような「信頼」への強力なインセンティブである。
つまり、統一されたサーバーがなく、コンテンツをピックアップするアルゴリズムさえない分散型SNSにおいては良くも悪くも発言一つ一つの内容は重視されないし、そもそも「バズ」自体が発生しづらいので他人の興味に合わせて発言をする動機があまりない。「ソーシャルグラフ」時代のSNSのさらに素朴なバージョンであり、IRCやBBSのような黎明期のインターネット(つまり現実の人間関係)にかなり近い。
その代わり、一つ一つの発言が積み重ねられていくことで生じる人間の「信頼」にインセンティブが発生する。また「インタレストグラフ」に代わって、そもそも分散された各コミュニティに特定の「興味・関心」が残り続けるため、別々の興味・関心が移り変わることもない。
Redditは顕著な例だ。日本においてRedditは「2ちゃんねる」的な匿名掲示板だと考えられがちだが、大きな差別化された点として「カルマ」が存在する。カルマとはユーザー個人の発信に対する他ユーザーからの称賛により蓄積されるもので、それらの累計数はユーザーごとに記録される。また一定のカルマがなければ発言そのものができないサーバーも存在し、必然的に過激な発言よりも協調性を重んじる文化が確立されている(無論、誹謗中傷やゴシップも全くないわけではない)。
こうした信頼性の重視はDiscordやSteamにおいても同様である。Discordにおいてはユーザーがロールごとに分けられ、発言の履歴なども記録されていく。Steamでは各ユーザーの所有ゲームなども(ユーザーが設定すれば)公開され、ゲーマーとしての実績が可視化されている。またBlueskyはそれらより緩やかだが、自らフィードを作成して「インタレスト」を人工的にコントロールすることができる。
このように、分散型SNSは「インタレストグラフ」に基づいた従来のSNSと異なり、よりネイティブな人間同士のコミュニケーションと信頼関係に基づいて構築されているのだ。
一方、こうした分散型SNSの特徴は欠点にもなりうる。まず信頼を重視されるため、気軽に発言することができない。またアルゴリズムの調子を気にしない代わり、村社会的な同調圧力が生じる場合もある。これらはおおよそ現実社会の構造と通じており、「インターネット」の非社交的な空気を好む人とは相性が悪い。それらを差し引いても、分散されクローズドなコミュニティである以上、軽度のハラスメントから重度の犯罪示唆が生じる可能性もここでは留意したい。
いずれにせよ、ゲームコミュニティは少なくない部分がこの分散型SNSに移動しつつある。
元よりゲーム用だったDiscordやSteamはいうまでもなく、Redditの最大手サブレディットもゲームコミュニティである「r/gaming」であり(Reddit中3番目。他はミームと質問)、Blueskyは多くのゲーム開発者など主要人物も利用し始めている。
これはわたし自身、「I.N.T.」を通じた海外取材でも明らかになったところで、具体的にはわたしが取材した10社のスタジオおよびパブリッシャーのうち10社すべてが積極的に分散型SNSに主軸を移し、そこでのコミュニティ運営に予算を投じていると答えた。母数からして偏りが生じているのも否めないが、偶然にしても十分すぎる一致といえるだろう。
また決まって彼らが分散型SNSとコミュニティ運営を重視する理由として挙げるものが、既存のプラットフォーム社会の限界である。2000年代のマスコミ的手法も、2010年代の大手SNSのインタレストグラフも、既にゲームを認知・運営するうえでは効果的とは言いづらくなっている。その点、分散型SNSは現状まだまだ爆発的な露出効果はないものの、直接ユーザーとの人間的な信頼関係の構築することが、長期的にゲームやスタジオのブランドを最大化する手段となっているのだという。
実際、分散型SNSを通じて培われたコミュニティは、単なる消費者の集団(ファン)と異なり、消費以外の様々な協力が可能となる。バグや内容に対するフィードバックに始まり、アップデートの要望、ファンアートなどの二次創作、ユーザー同士の大会や交流など、従来のSNSでは難しかった(少なくともスタジオが直接コントロールできなかった)ユーザーとの多様なコミュニケーションが分散型SNSで実現している。
また分散型SNSは性質上、リアルイベントなどにも移行しやすい。これも従来のSNSであれば単なるファンサービスやマーチャンダイジングで終わるところ、場合によっては行政や学問を巻き込んだ様々なイベントを起こしうる。例えば、わたしが去年訪れたオーストラリアの「PAX AUS」では、『Cult of the Lamb』のコミュニティで知り合ったファン同士が、実際に『Cult of the Lamb』の世界観を模した式場で結婚式を行うということもしていた。
これらは開発者にとって、単なるプロモーション以上の意義がある。開発者によっては、もはやコミュニティとの接点こそがゲームを作る最大の動機と答えており、既に分散型SNSを通じたコミュニティは手段でさえなく目的化している。これは自己資本で経済的な合理性を必ずしも追及する必要のないインディーゲームにおいて、特に顕著なカルチャーとなっている。
総じて、分散型SNSにおいては、もはやマスメディアや従来型SNSのような「盛り上がり」は期待できない。しかし短期的な「盛り上がり」の代わりに、長期的な「信頼」に基づいた人間同士のコミュニケーションが醸成され、それは「いいね」等で可視化できない財産として今後ビデオゲームコミュニティの中心を担っていくのではないだろうか
日本のゲームコミュニティの将来
さいごに、ここまで世界的なゲームコミュニティを総括してきた中で、「日本」という地域に限定したゲームコミュニティの現状と将来について検討したい。
ずばり、わたしが「危機的」だと不安視したのは、まさに日本のゲームコミュニティの将来のことだった。
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