青井柚希(775りす)の病
このかんの展開の中で私の認識も徐々に整理されてきているので、ここで一連の経緯を改めて振り返っておく。
なお実は9月6日に〝775りす〟が私に宛てて出してきたメールで、実名を隠しているつもりはないとの表明があり、今後は〝775りす〟の表記は、説明上必要な場合を除いて実名の〝青井柚希(あおい・ゆき)〟の表記に改める。
この文章は実は少し前に書き始めたもので、書き進めている最中の10月14日以降、すでに青井に関して実名表記を開始している。
これまで(ネット上では)実名表記を避けてきたのは、私が青井を、対等な〝活動家〟ではなく単なる病人だと認識していることによる。一人前の責任主体であるとは見なしていないということである。
しかし先日、青井と違って健康で優秀で極めて倫理的でもある合宿OGの1人が、私に向けて云った言葉についてしばし考え込まされ、対応を改めることにした。そのOGは青井を〝病人〟ではなく〝半人前の子供〟と認識しているらしいのだが、要するに〝子供〟相手にナニ本気になって「戦争」とか口走ってるんですか、という批判である。もちろん〝病人〟であれ〝子供〟であれ、青井を一人前の責任主体とは見なし得ないと考えている点で、私とそのOGとの認識にそれほど本質的な差異はない。
なるほど、と私は思った。しかし〝半人前の子供〟がろくでもないことをしでかした時、周りの大人が本気で叱ってやらなければ、そのガキはいつまで経っても〝一人前〟にはなれないではないか。
青井の病気が不治の病なのであればサジを投げるしかないが、私は、青井の病気は治療可能なものだと考えている。要は自分の言動のろくでもなさにハタと気づき、自省・内省の過程にさえ入れば青井の病気は治る。しかしその過程に青井を追い込むためには、誰かが本気で青井の言動に怒り、こっぴどく叱りつけてやらなければならないのだ。
今のところ、青井のろくでもない言動を目の当たりにした人たちは、単に呆れて青井のもとを黙って去っている。そりゃそうだろう。家族でも恋人でもないのに病人に真剣に向き合おうなどという奇特なバカがそうそういるはずがない。青井の周囲に残っているのは、青井の言動がろくでもないことに気づきもしない、つまり一切の社会性というものを持ち合わせていない、たいていは青井と同様にメンヘラで、相乗効果で青井の病状をますます悪化させていくばかりのポンコツだけである。どうも奇特なバカは私以外にいそうにない。
と同時に、半人前の病人だか子供だかを一人前の責任主体に鍛え上げるためには、実は相手を半人前扱いにしていてはいけないのではないか、とも考えた。まだ半人前の人間を、まるですでに一人前の責任主体である〝かのやうに〟扱ってやらなければ、むしろ礼を失するような気がするし、いつまで経っても一人前の責任主体として自己形成させていくこともできないように思われてきたのだ。
通称〝775りす〟を今後は〝青井柚季〟と実名表記していくことにしたのは、そういう次第である(なお〝775りす〟あるいは〝仁科夏瑚(にしななこ)〟はいわゆる〝活動家名〟であり、青井の言動が何らかの政治的・思想的な〝活動〟ではなく単なる病気の発症でしかないという私の認識に変わりはなく、それら〝活動家〟名を口にするのも不愉快という点も同様。青井が病気を治すためには、まず自分が〝775りす〟だか〝仁科夏瑚〟だかであるという病的アイデンティティを放棄しなければならない)。
青井柚季は2023年12月末から2024年1月初めにかけての、第32回「教養強化合宿」の参加者で、当時は成城大・文芸学部の3年生だった。合宿参加の時点ですでに「陰核派」なる独自グループの主宰を称していたが、活動実態などは何もなく、また青井の他にメンバーがいるわけでもなかった。
青井のツイッターのプロフィールにある「神戸女学院」出身というのは真っ赤な噓で、東京の多摩地区でプチブル家庭の子女として生まれ育ったのだが、女子校育ちであること自体は事実のようだ。高校時代の末期からか成城大に進学してからか、3年間ほど引きこもり生活を送ったらしい。恋愛経験は一切なく、少なくとも24歳だった昨年の時点では「処女」であることを自慢している(もちろんそれらの事実をあらかじめ知っていれば、以下のように〝コイツは間違いなくヤバい奴だ!〟と察知して、私は青井にコクったりしなかっただろうし、少なくとももっと慎重に振る舞ったはずだ)。
要はオボコい世間知らずのくせに「陰核派」なるヒワイな名乗りを上げたのは、フランスの著名なフェミニストであるカトリーヌ・マラブーからの影響だという。引きこもった原因については知らないが、青井がマラブーを知ったのはおそらく引きこもり時代のことだろうし、まあそもそもすでにメンヘラ化が始まっていなければ引きこもったりしないはずで、マラブーに惹かれたのも、その思想の内容云々ではなく、惹かれたことそれ自体が進行過程の病状の発現だったろう。恋愛経験もなく、したがって男女の絶望的な分かり合えなさに煩悶したこともない者が〝フェミニズム〟なんぞに飛びついてしまうというのが、思想的な目覚めなどではなく単なる病気の発症にすぎないことは、あまりにも明らかである(マラブーなどもちゃんと読んでいる、優秀な部類の合宿OBの1人によれば、青井のマラブー理解はトンチンカンすぎて、たぶん昨年9月に「陰核派」でマラブーの主著の読書会を開催するまで、青井はマラブーをちゃんと読んだことすらなかったはずだ、と云っている。仮に読んでいたとしても、アタマが悪すぎて読めておらず、あるいは一応は主著を読んではみた今なお理解はいいかげん、ということだろう)。
青井の病気の根源には、おそらく性的アイデンティティの未確立がある。青井はどうも、自身が〝女である〟ということを受け入れられずにいるらしい。だから自身に性的な眼差しを向けてくる男どもに対しては過剰に攻撃的になる。しかし他方で、長く引きこもってれば当然ながら、まだ何者にもなれそうにない自分そのものに根本的に自信がなく、〝若い女〟であるということ以外に自分が他人に興味を持ってもらえそうなウリがまったくないように思われて(「思われる」だけでなく、青井が自らを省みて性根を入れ替える努力を開始しないかぎり、じっさい青井がウリにしうるのは、自分が〝若い女〟であるということだけであり続けるだろう、あと何年もつか知らないが)、だから自身の女性性を過剰にアピールしてしまう。そうでなければ、性経験どころか恋愛経験すらないくせに「陰核派」なんぞというヒワイな名前をわざわざ自分から名乗りはしないだろう(青井は今でも、イベントなどでは20代半ばにもなってセーラー服など着て登壇したり、〝猫耳〟なんぞ装着したり、性的な記号で身を包むことを好む)。自分から性的な眼差しを要求しておいて、いざ性的な眼差しを向けられると錯乱して攻撃的になるという、青井柚季というのは非常にめんどくさい女、要するにいわゆる〝地雷〟である。
青井の病気のもう1つの根源は、いまチラッと触れたように、このままでは自分は何者にもなり得ず、人生をひたすら浪費してしまいそうだというアイデンティティ不安である。長い引きこもり生活が、その不安をますます強化させていったのだろう。
おそらくはその引きこもり生活の末期、青井はネットで〝外山恒一〟を発見してしまった。〝これだ!〟と飛びついたわけだ。青井はネット上の(のみならず著作として刊行されているものも含めて)私の文章をむさぼるように読み、完全に私の信奉者と化していった。そして、私をモデルとして自身も〝革命家〟になりたい、と夢想し始めたのである。
思い上がりも甚だしいとしか云いようがない。私は14歳以降、世間なり社会なり世界なりとの数多の軋轢に苦しんだが、一度も〝引きこもり〟になどなったことがない。私は私を苦しめる周囲の環境と一貫して闘い続けてきたのである。何があったか知らんが(どうせ大したものではなく、むしろ抽象的な不安に取り憑かれたにすぎまい)、闘いをハナから放棄して引きこもってしまうような者に、とうてい〝革命家〟など務まるはずがないのだ。
要は青井の心に生じたのは、精神疾患的な私への〝転移〟である。
ともあれ、こうして2023年末に合宿参加者として初めて私の前に現れた時点で、すでに青井は私の完全なる信奉者だった。
青井の思想(のように見えるもの)は、もとより私のそれの完全コピーである。ただ1点、マラブーを云々しながら〝フェミニズム〟と外山流の〝ファシズム〟とを接合しようとしているところがオリジナリティと云えないこともないが、それは実はオリジナリティでも何でもなく、青井の〝思想〟とやらが単なる病症の発現にすぎないことを端的に示している以上ではない。フェミニズムそれ自体が精神病の一種なのだし、まして青井の、恋愛経験すら経ないフェミニズムへの自己投企は、ますますただの病気であるに決まっていることはすでに述べたとおりだ。つまり青井は自らの病気を温存しながら〝外山流ファシズム〟に自己同一化しようとしたということであり、そもそも私への〝転移〟それ自体が病気として起きていたことなのである。
もしかしたら青井は、〝外山恒一〟に飛びついた後、〝マラブー〟にも飛びついたのかもしれない。もともと(病気として)フェミニズムそれ自体にはアイデンティファイしてたのだろうが、私の〝アナキズム+ナショナリズム=ファシズム〟という等式を念頭に、これとフェミニズムとを接合する回路を求めて、〝アナルコ・フェミニズム〟を標榜するマラブーならイケるんじゃないか、とド素人なりに閃いたという可能性が高い。
合宿参加後の半年あまり、青井はますます私に傾倒し、信奉の度を深めていった。そりゃまあ私は魅力的な現役の革命家なのだから、当たり前ではあろう。
ところが2024年7月、私はつい魔が差して(というよりは、今から思えば、青井は自分が〝若い女〟であることのみをウリに、つまりただひたすら性的アピールによって私のみならず周囲の歓心を買おうとしているのだから、私もまんまと引っかかってしまっただけなのだが)青井に性的な眼差しを向けてしまい、青井を葛藤させることになった。
その後しばらくの期間(およそ2024年いっぱい)、青井は、自身に性的な眼差しを向けてきた私に対する憎悪をまさに病的につのらせつつ、しかし〝革命家〟としての自己実現のモデルたる私から離れるという決心もつかない、という状態でいた。それが青井の葛藤である。青井のそういう中途半端な態度が私を懊悩させ、私自身、青井の病気に引きずり込まれていく。これまた今から思えば、私にとってあれは恋愛などではなく、単に病人を病人と気づかないまま真正面から関わろうとして、必然的に翻弄されまくるという過程でしかなかった。
私は青井柚季という〝個〟と向き合おうとしたのだが、青井にとって私は、青井に性的な眼差しを向けた時点で、全力で拒絶すべき〝男一般〟でしかなくなったのだし、さらに云えば最初から、青井にとって私は〝他と取り換えのきかない、かけがえのない個〟ではなく単に病的な〝転移〟の対象でしかなかったのだとも云える。青井にとって私は、とりあえず2024年いっぱいくらいまでは〝他に見出しようのない唯一の師〟だったろうが、それは他と取り換え不可能な真の意味での〝他者〟ということではなく、そう簡単に見つからないとしても万が一もしや他に自己実現のモデルとしうる者を見出すことができれば簡単にそちらに乗り換えられるようなものでしかなかったし、あるいは誰かをモデルにするのではない形で自己実現の方途が見出せれば途端に放り捨てることができるものでしかなかった。
恋愛だけがそうではないが、どんな人であってもたいてい(私のような者でさえも)、恋愛的な局面では真剣に他者に向き合おうとする。しかし青井という病人にはそもそも他者はおらず、そこには肥大した(肥大させていきたい)自我があるだけなのだ。だから当然にも青井は恋愛をしたことがないのだし、病気を治さないかぎり今後も恋愛はできず、他者と出会うことも、他者との軋轢に懊悩することもない。もちろん、そんなことでは自らの実存に裏打ちされた〝思想〟をつむぎ始めることもできない。
繰り返しになるが、青井は、青井にとって〝男一般〟でしかなくなった私を拒絶しようとし、かつ引き続き自己実現のモデルではあった私との関係を継続させようとして、矛盾に引き裂かれ、すべての原因は青井自身の病気にあるのだとしても、それなりに苦しみはしたはずである。
〝学対〟こと浜村真也の登場が、青井をこの苦しみから解放した。浜村は青井に運動(というより人の集め方)のノウハウを提供し始め、青井はそれによって、必ずしも私との関係を維持せずとも自身の〝活動〟を量的に拡大させていくことが可能になったように思い込んだ。浜村は結局、私が長年をかけて築き上げてきたインフラやネットワークを破壊し、そこから切り崩された部分を青井の〝活動〟に横どりしていくだけなのだから(少なくとも初期はそうだったし、現在もかなりそうである)、本質的にはちっとも私から〝自立〟などしていないのだが、青井自身は私と縁を切ろうとも、引き続き浜村が私の築いたインフラやネットワークを〝活用〟してくれるし、それで用は足りる。2025年に入ってまもなく、青井は安心して私に訣別宣言を突きつけた(私に直接突きつけるのはメンドくさいので、ネットで訣別宣言を公開し、それでよしとした)。
もはや青井の自己実現にとって私は不要であり、すると私は単に自分に性的な眼差しを向けてきた憎むべき〝不潔なオッサン〟以外の何者でもない。つい昨日まで〝唯一の師〟であるかに接していた私に対して、青井はとことん攻撃性を発揮し始めた。ことさらに浜村への絶大な信頼を強調して、私を嫉妬させ、苦しめるという〝復讐〟も意識的におこなわれていたように思う。病人だから、青井にはそんなことが平気でできるのだ(その浜村の協力がなくとも〝活動〟を回し続けることができると判断するや、青井は今度は浜村を切り捨てようという局面に至りつつあることは、すでに他の文章で述べたとおりである)。
私を完全に拒絶するようになって早10ヶ月ほどになる青井だが、得意げに連発する政治的・思想的めいた発言の大半は今なお〝外山流ファシズム〟の、しかしもはや私の直接的指導を受けることができないのだし、かなりの劣化バージョンでしかない。私を真似て〝党〟を云々し、自らが〝指導〟しているという「陰核派」を〝党〟だと称してもいるのだが、数だけは多い(といっても泡沫グループ化した中核派全学連と同様の20~30人規模のようだが)その〝党員〟に、〝ファシズム〟だの〝右派フェミニズム〟だの息巻いている青井と思想を共有している者は皆無だし、思想を共有していない集団は〝党〟ではない。じっさい「陰核派」とやらは単なる烏合の衆、というより青井と同類のメンヘラの群れでしかなく、つまり青井がやっているのは〝党ごっこ〟以上ではない。
青井も主観的には〝外山流ファシズム〟からの脱却、私からの思想的影響の完全なる払拭を志向してはいるのだろうが、そもそも単に肥大した自意識の球体の中で〝ごっこ遊び〟に耽っているだけで、他者と出会うことができず、したがって何も〝経験〟できず、したがって経験から学ぶこともできない青井に、何か独創的な思想的言説などつむぎ出せようはずもない。どうやら独創的なことを云ってるつもりらしい、例えば最近の以下のツイートを見よ。
あたしたちは死体で遊ぶ子供たち
神は死に、ニーチェもまた死んだのだから
(2025年10月16日のツイート)
青井が何を云っているのか理解できるだろうか?
思わせぶりに何か深遠なことを云ってるかのような雰囲気を醸し出すことだけは上手いのだが、何のことはない、要するに〝すべてに意味はないのだからアタシもこのままでいい〟という内省と成長の放棄宣言であり、〝このままのアタシを認めろ!〟という承認の強要なのである。青井と違って健康で優秀で極めて倫理的でもある合宿OGの1人が評したとおり、〝半人前の子供〟の開き直りだとも云えるが、ともかくこんなものは〝思想〟ではない。さらに厳しいことを云えば、ニーチェはこのように甘ったれたことを云う弱者どもを〝畜群〟と罵倒したのであり、青井のような者がますます調子こいていられる(甘やかされる)現在のようなポリコレ状況下においてこそニーチェ思想はますます有効であり、〝死ん〟でなどいないのである。
詳しくは稿を改めるが、〝何か云ってるふう〟の青井の〝政治的・思想的〟発言などおしなべてこのレベル、単なるメンヘラの(〝ありのまま〟での)承認要求、開き直りでしかないのだ。
おそらく青井自身、「陰核派」の活動が本当は少しも上手くいっていないこと、何をおいてもまず思想的一致によって団結すべき〝党〟など実現しえておらず、ただ大量のメンヘラが蝟集してるだけで政治運動にも思想運動にもなっていないことを、うすうす分かっているはずである。だからこそ、そのことから必死で目をそらすがごとく、青井は日々を異常な過密スケジュールで埋めていく。毎週末に開催している路上交流会「駅前アジト」のみならず、それを含めて週に2、3回は読書会だの飲み会だの大小のイベントを敢行している様子なのだが、これは完全に依存症だろう。
実際には何にも上手くいっていないのだが、ともかくは日々忙しく〝運動〟っぽいことで駆けずり回っていれば、自分がまるで〝活動家〟なり〝革命家〟なりであり得ていると思い込むことができる、という依存症である。青井にとってそれら日々の大小のイベントは、シャブ中が日々打ちまくらずにはおれないシャブのようなものでしかない。
青井の病状は今や、かなり重篤化している。日々忙しく動いてるし、ポンコツのメンヘラしかいないとはいえ周りにいっぱい人も集まってるし、つまり自分はもうすでにヒトカドのリッパな〝革命家〟であり〝指導者〟なのだと自分に云い聞かせることで、かろうじて青井は自身を支えている状態である。
しかし実際には相変わらず、多少なりとも政治的なイベントを企画し実行したり、私の領域からの横どりや、あるいは街頭ビラ貼り、ビラまきなどで人を集めてくるのは、青井ではなく浜村である。青井は、浜村がかき集めてきたポンコツどもに取り巻かれて、女王様ぶってふんぞり返っているだけなのだ。青井は今なお少しも〝活動家〟ではない。〝思想家〟としての水準も先述のとおりだ。しかしだからこそますます、青井は〝革命家〟ぶり〝指導者〟ぶらなくてはならなくなる。指導者ぶってるだけで(主には浜村のおかげで)周りに人が集まってくるのだから、青井はすでに一種の〝全能感〟にさえ包まれているだろう。そのことが、たまに青井に対して批判めいた言葉を投げかけてくる、「陰核派」の外の人々への過剰な攻撃性となって表れる(浜村をはじめ「陰核派」の内側に攻撃の矛先が向けられることもある)。
私に対してだけではない。この約10ヶ月の間にも、私の交流圏の範囲に限っても何人もがその攻撃性に直面し、困惑させられていた。それぞれ、それなりのインテリでありそもそも青井ごときが太刀打ちできる相手ではない。だからわざとやっているんだろうとも思うのだが、青井はひたすら論点をはぐらかし、相手に苛立ちと徒労感を与え、相手のほうから議論を打ち切るよう仕向けるという戦術を採る。こんな奴と論戦していても意味がないと呆れて相手が引き下がると、青井は捨て台詞のような威勢のいい啖呵を切って、それらイッパシの論客たちとまるで対等な議論を交わしたかのような雰囲気だけを残すのである(もちろん、私は引き下がらないから、この手口は通用しない。たまに反論にもなっていない反論を返してくることもあるが、基本的には青井は私からの批判を〝ガン無視〟し続けている)。
2025年9月12日、私が「駅前アジト」に出向いて青井との直接対話を試みた際の記録動画を観れば、青井がもはや性格異常者であり、それを異常だと感知しえない同類たちだけが青井の周りに蝟集して「陰核派」なる病者集団を形成していることを、実感を伴って理解することができるだろう。
このように青井の病状は、政治的・思想的な(っぽい)〝運動〟を続けるにつれて加速度的に悪化している。
青井は単なる病人なのだが、健康の回復を援助するために、まるで青井を一人前の責任主体である〝かのやうに〟扱って、その政治的・思想的な(っぽい)言動を真正面から批判してみる試みについては、稿を改める。


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