「いとこの戦死が嬉しかった」…軍国少女だった91歳の後悔 市民の間に蔓延した“同調圧力” #きおくをつなごう #戦争の記憶
「これでお国のためになった」いとこの戦死に感じた“喜び”
家族が誰も出征しておらず、母が「一人前」でないと言われ続けることに、梅本さんも子どもながらに、どこか劣等感を感じていた。 そうした中、太平洋戦争開戦の翌年の1942年、いとこの吉田隆一さん(当時24)が満州(中国東北部)で戦死したとの知らせが届く。親戚から戦死者が出たことに、梅本さんが抱いた感情は、悲しみではなかった。 「戦死したときに私、嬉しかったんです。うちの親戚で戦死者が出た。これでお国のためになったというふうな気持ちになってね。悲しいというより、うれしかったんです、戦死が」
梅本さんは、いとこの吉田さんの遺骨が収められた白い包みが届いたとき、「私のいとこが死んだんや」と、喜びながら周囲の友人に言って回ったという。 吉田さんの葬式は「村葬」として、村をあげて行われた。国のために命を捧げたことを、すべての人が称えていた。悲嘆にくれる空気は、まったくなかったのである。
「本当に申し訳ない」戦後80年経ったいま、抱く“後悔”
梅本さんが11歳だった1945年8月15日。日本は敗戦を迎えた。 社会全体を覆っていた空気は一変した。梅本さんの母・いとのさんを“一人前でない”と言っていた人たちも、「うちは主人も息子も兵隊に取られて帰ってこない。おばちゃんの勝ちやったな」と漏らした。 日本が負けることを想像すらしていなかった梅本さんも、呆然とした。生活は戦時中よりむしろ、戦後の方が苦しくなり、ひどい食糧難にあえいだ時、初めて戦争を恨んだという。 いとこの戦死に「嬉しさ」を覚えたことも、いま思い返すと、強い後悔の念に駆られる。 「ようあんな気持ちになったなと、今から思うとね。いとこに本当に申し訳ない。いとこが亡くなったのをあんなに喜ぶって、(これほど)馬鹿げたことはないんですね」 「せやから、その時は全体がそういう雰囲気やったんやろなと思います。いいとか悪いとかいうのではなしに、そういう世界やったんですね」 市民の間に蔓延した“同調圧力”が、戦争遂行の推進力となったという現実は、現代を生きる私たちにも、鋭く突きつけられている。