武田の靴
武田修宏というサッカー選手がいる。
僕は未だにあまりよくわかっていないが、とにかくスゴいサッカー選手らしい。引退後もバラエティ番組で天然キャラを炸裂させるなど、スポーツ選手の枠に収まらない活躍をしているマルチタレント。
5歳くらいの時に、武田修宏モデルの靴を履いていた。
黒地に深い緑のデザインがあしらわれたスポーツシューズ。
サッカーが好きでもないのになぜ持っていたのかはよくわからないが、履き心地が良くて色味も好きだったので、とにかく毎日のように武田の靴を履いていた。
武田が人名かどうかすらもわかっていないのに、僕は生意気にもあの靴を「武田の靴」と呼んでいた。脱ぎ散らかしてどこかにいったら「武田の靴、どこ?」と言い、洗われていて履けなかったら「武田の靴じゃないと嫌だ」と言う。武田、武田、武田。親すらもあの靴を「武田の靴」と呼ぶ。
武田の靴は、どこへ行くにも一緒だった。
あれほど僕の一部だった「武田の靴」のことを、僕は今の今まで完全に忘れていた。
武田修宏がテレビに出ていても、靴のことを思い出すことは今まで決してなかった。
ではなぜ、「武田の靴」を僕は思い出すことができたのか?
小さい頃にかけがえのない宝物だったものたち、しまじろうのパペット人形とか、『二頭を持つキングレックス』とか、他にもいくらでもあるし思い出せないものもたくさんあるが、彼らのことはある時点を境にキレイさっぱり忘れてしまう。成長するにつれて「不要な記憶」「不要な愛着」と判断され、僕の脳がごみ箱に捨てているのかもしれない。
しかし、"ごみ箱を空にする"ボタンを押したことはないので、武田の靴もキングレックスも「そらいろのたね」(好きだった絵本)も、ごみ箱の底の底に圧縮されて埋没しているだけ。自発的に思い出すことはまずないが、何かの拍子で外部から刺激を与えられると、デスノートを再び触った夜神月のようにブワーッと思い出すことがある。
「そらいろのたね」は、ブックオフで何気なしに絵本の棚を物色していたら見つけた。背表紙を見ただけで、全てを思い出した。絵本を手に取る必要はなかった。絵本を読んでいた時の陽の光と家の匂い、当時のリビングにあった小さなジャングルジムの質感まで、鮮明に蘇ってきた。少年がラジコンで遊んでいたら、キツネくんが種との交換を要求してきて、少年がもらった種を土に植えたら家が生えてきて、家がどんどん大きくなって、ゾウさんやイノシシくんなど友達みんなが住めるようになって、キツネくんがその様子を羨ましがって、ラジコン返すからその家を返してくれと主張して、みんなを追い出して、一人で広い家に住んで、それでもまだ家は大きくなって、天まで届いて、パーンと破裂して、おしまい。なんて儚く業の深い物語だろうか。優しいタッチの中に、家がどんどん大きくなるという奇怪な事象と、友だちも家もラジコンすらも失われた諸行無常の終わり方。そのまま僕たちの住む宇宙ごとなくなってしまったかのような巨大な空虚感。僕が何よりも愛していた本。
どうして今まで、「そらいろのたね」のことをこれっぽっちも思い出さなかったのだろうか。脳のごみ箱はあまりに機能が優れすぎている。
それでも、「そらいろのたね」は絵本そのものと再会したことで思い出すことができた。
武田の靴は、武田修宏をテレビで見かけても思い出すことはない。
ではなぜ僕は、武田の靴を思い出すことができたのか。
思い出したきっかけは、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃんの靴の裏にうんこがついているというドッキリを観たから。靴の裏にクッサいうんこがついているというワンカットで、僕はようやく武田の靴を思い出せた。
早い話が、僕の武田の靴もうんこを踏んだのだ。
いつどこで踏んだのかは覚えていないが、お気に入りの靴、竹馬の友、生まれて初めてのファッションアイテムだった武田の靴の最期は、あまりにも無惨だった。
道に落ちているうんこを、ガッツリ踏んだ。洗ってもう一度使うという選択も取れなかったくらい、しっかりとうんこを踏み抜いた。
クサいだけだったら、別に良いじゃないか。僕はまだ武田の靴を履きたい。そう食い下がった記憶がある。僕はニオイと周囲の目に鈍感だった。
それ以来我が家では、うんこのことを「武田」と言うようになった。僕も、母も、妹も、「武田の靴」と言い慣れていた流れのまま、うんこのことを「武田」と呼ぶようになった。
もちろん、何がもちろんなのかわからないが、もちろん、尻から出るうんこのことは「武田」とは呼ばない。「ちょっと腹痛いから"武田"してくるわ」とは言わない。
「武田」と呼ばれるのは、「道に落ちているうんこ」だ。武田の靴は、道に落ちているうんこを踏み散らかして逝ったのだから。たとえば道を歩いていて、「あっ!その先、武田が落ちてるよ!危ない!」というような、極めて限定的な場面でしか登場しない。それほど貴重なシチュエーションでしか登場しない言葉なのに、なぜかいつも、道にうんこが落ちている時にとっさに口を衝いて出る言葉は、うんこより武田なのだ。
本人には本当に申し訳ないが、僕たちの中では武田とはうんこのことであり、道に落ちているうんこは常に武田なのだ。一方で、武田修宏本人を見てもこれっぽっちもうんこは連想されない。僕たちにとって「武田」という言葉は、愛されていた「武田の靴」の最期の置き土産だった。祖母が亡くなった後にも一陣の風の中に祖母の声を空耳するのと全く同じで、靴そのものがこの世から消えても、僕にとって何よりも大切だった武田の靴は、うんこの中に宿って生き続けていたんだ。
クロちゃんの靴の裏にうんこがくっつけられたおかげで、僕は再び、かけがえのない思い出だった「武田の靴」、そして「武田」と出会うことができた。
ありがとう、クロちゃん。
ありがとう、武田の靴。
ごめんなさい、武田修宏さん。
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