哲学と正しいカタカナの果てに

僕は高校から大学時代にかけて、2ch(現5ch)の洋楽板をよく読んでいた。

洋楽板に限らない話だが、インターネットではしばしば「俺とお前、どちらが正しいか」というバトルが繰り広げられている。
彼らが主張する正しさは往々にして、たとえばこのバンドはXというプロデューサーと懇意でしかもXは売れ線の曲を作れという指示をする人だから〇〇という曲を作ることになったんだ、とか、何代目のギタリストがどういう性格の人でそのギタリストが所属していたのが何年から何年までだからこの時代のライブはこうなんだ・・・というように、バンドの歴史や洋楽界全体のダイナミズムなどに関する「知識」がその正しさの根拠になっていて、ゆえに正しさ論争も互いの知識の多寡で勝敗が決する傾向があった。

そんな日常茶飯事の論争群の中でも僕がものすごく覚えているバトルが、Nirvanaスレで毎週のように繰り広げられていた「Nirvanaの正しいカタカナ表記」論争だ。
Nirvanaはアメリカのロックバンドなので、別に日本語(カタカナ)に起こした時の正解があるわけではないが、雑誌やCDなどでは「ニルヴァーナ」と表記されるのが一般的。しかしこれは実は間違っていて、英語の正しい発音に準拠すれば「ナヴァーナ」である、ニルヴァーナという表記は「ニバーナ」と書いているのと同じくらい幼稚で誤ったリスニングであって、洋楽板好きを名乗るのであれば正しく「ナヴァーナ」と表記すべきである、ニルヴァーナと書いているヤツらはその時点で洋楽に詳しくない"にわか"である、みたいなことを言う人がいたりする。
知識を根拠として自説の正しさを押し通そうとする洋楽板のノリの中でも、「正しいカタカナ表記」は"英語の発音"という全く別軸の知識で攻めてくる点で「極北」ともいえる論争で、僕はいつも楽しくそういった論争の行く末を見守っていた。

大学では哲学を専攻していた。
哲学の授業は、教授の話を聞くだけの「講義」のコーナーは少しだけで、過去の哲学者が書いたテキストを読んで筆者の主張について解釈・議論する「演習」のコーナーが多かった。
僕は「演習」の時間があまり好きではなかった。ある人はテキストに書いてあることを一言一句そのまま解釈しようとしているし、ある人はテキストを書いた哲学者の思考のクセや他の著書を参考にしながら意図を捉えようとするし、ある人はもっとメタ的に当時の世相や学派から文章に隠された前提を分析しようとする。どの読み方が正しいのかは僕にはよくわからないが、ここでもやはり「どれだけ知っているか」の競争になりがちで、「僕はこのテキストはこういう意味だと思った」「いや、それは〇〇という別な文献を参照すると間違っていて」「そもそもこの哲学者は~~という説を支持している人だからこう読むのが正しくて」みたいな感じで、意見に意見を重ねて深めていくというより、素朴な意見が知識に押し流されていくような感じで、よく知っている人たちの口数がどんどん増えて知識の披露会と化していくうちにチャイムが鳴って消化不良のまま終わることが多かった。

僕はどちらかというと、哲学の知識がない状態でも、限られた情報の中で読み解ける最大限の推理・考察をする方が好きではあった。もちろん、哲学の研究は推理ゲームではないので、過去の哲学者や研究者たちが積み上げていった叡智をちゃんと知っている状態で解釈・議論することが本来の学問的なやり方だと思うし、そこに関しては何も意見はない。
議論することと文章にすることにも隔たりがあるように思う。たとえば、議論ではなくて誰かが書いた文章を読む時には、「私はカントの○○を読んでこんなことを感じました」みたいな読書感想文には何の興味も持てなくて、その○○とやら以外の他の文献や周辺知識を補足しながら体系的に考察・分析する文章の方が断然面白い。
でも、顔を突き合わせて会話しながら展開する「議論」というコーナーに関しては、「私はこう感じた」という素朴な感想も僕はもっと知りたいし聞きたいと思っていた。そういうところからこそ何かが生まれる気がしていた。しかし、知識が足りないということで議論の場から弾き飛ばされていくと、最終的には一番知識がある人だけがリングに立っているバトルロイヤルにどうしてもなってしまう。授業の前半でまっすぐ「私はこう思った」という感想を言っていた人が、知識王に蹴落とされるような格好で授業後半にいくにつれて発言量が減っていく、という様子を間近で見ていると、授業が終わるたびにゲンナリした気分になったりする。
そうはいっても、こういう議論を経て学術的に厳密な文章を書き上げられるだけの力をつける、という訓練もコミコミでの「哲学研究」だということもなんとなくわかるので、単純に自分が哲学研究に向いていないのだろうと思い、僕は次第に授業から少しずつ距離を置いて図書館で一人ひっそりと文献にかじりつくようになっていった。

僕が「ナヴァーナ」論者に対して抱いていた感情は何だったのだろう、と最近思う。
彼らはいわゆる「荒らし」で、ニルヴァーナに関する情報交換やノスタルジーに浸るスレッドの流れをぶった切って、英語を正しくカタカナ表記にするとはどういうことなのか、という一切答えもなければ建設的でもない論戦を仕掛けてくる。一般的には好まれない姿勢ではあるものの、僕はなぜかいつも「ナヴァーナ」の登場を期待しながらスレッドを覗いていた。
彼らも一種の"知識王"ではあるんだけど、でもどこか愛おしいというか、ニルヴァーナそのものに関する知識で攻めてこないところに、一種の倒錯したワクワクを感じていたのかもしれない。洋楽板なのに、洋楽の知識じゃなくて、英語の知識(いや、知識といえるほど卓越もしていない初歩的な発音のくだり)という一本槍で、ニルヴァーナの歴史や変遷に詳しい知識王たちに勝負を仕掛けている姿が、論争の勝ち負けに関係なく痛快だと思っていたのかもしれない。

歳を経るごとにどんどん、素朴な感想だけでは知識という巨山に勝てない現実を突きつけられていく。知らないより知っている方が偉い。知らない人は議論に参加できません、仕事ができません、生きていけません。「知」が社会の隅々に充満して、「知」がない人は零落していって当然である。
じゃああなた、そんなにニルヴァーナの「知」をたくさんお持ちなら、当然、発音は「ナヴァーナ」ですよね?と切り返したくなる気持ちも、なんだかわかるような気がしてきている。そういう噛みつき方で、充満している「知」の空気を壊すことができるのかもしれないと思うし、壊した先にあるのは「荒らされたスレ」ではなく、「そういえば英語をカタカナで正しく表記しようとする意味って何だろう?」という、素朴だけど力強い問いだと思いたい気持ちもある。




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