こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。この夏は、読んでみようと思っていながらも、なんとなく後回しにしてた本を何冊か読みました。
そのうちの一冊が『鈴木邦男の愛国問答』(集英社新書)。鈴木邦男さんはもっともリベラルな右翼として私は一目置いていたのですが、世間的には知る人ぞ知る、くらいの認知度だったので、2023年に亡くなったときもテレビニュースでは報じられなかったと思います。だから1年近く、亡くなったことを知りませんでした。
私は2022年に刊行した『思考の憑きもの』の「世にも奇妙な「反日」の巻」で鈴木さんの著書からいくつか引用しています。
歴史の教科書を反日教科書と激しく攻撃していた右派に異を唱えてたのが、右翼の鈴木さんだったのが意外でした。初めから終わりまで日本を否定してる反日教科書なんてものはない。解釈がわかれる歴史的事件に関しては両論併記してこどもたちに考えさせればいい、とリベラルど真ん中の意見を述べてます。そもそも反日という言葉が相手を全否定する暴力的な言葉なので禁句にすべきだともいってます。相手が右派だろうが左派だろうが、間違っている言論に対しては間違いだと正面切っていえる希有な人でした。
情報へのアンテナの張りかたがやっぱり自分とまったく違うので、知らなかった情報がいろいろありました。日本での劇場公開時にそれこそ反日映画と右派から叩かれた映画『靖国』ですが、中国でも上映禁止だったということを初めて知りました。
嵐山光三郎さんが著書で、憲法9条の「戦争の放棄」に疑問を呈してるそうです。放棄とは本来しなきゃいけない義務を無責任に投げ捨てることだから、9条の精神とは合わない。あれは「戦争の禁止」とすべきである、と。
なるほど。憲法改正をしたがる人たちは総じてキナ臭い方向へ変えるべく、世論を誘導してますけど、逆にもっと平和色を強める方向への改正を主張するカウンター的な運動があったっていいはずですよね。これは盲点でした。
鈴木さんのことをさっき、もっともリベラルな右翼などと紹介しましたが、もしあなたが「リベラルな右翼」などありえないと思ったなら、あなたはリベラルと左派(左翼)を同じだと誤解しています。鈴木さんはそのへんの違いも本書で端的に説明しています。
「今の日本に〝右翼と左翼〟がいるのではありません。〝話し合える人と話し合えない人〟がいるんです」
まあ、そういうことです。リベラルな人は人間関係において「対話」を重視します。リベラルでない人が人間関係において重視するのは「支配と服従」です。
前回のブログの反証可能性とも重なりますが、リベラルは自分を絶対正しいとは考えません。自分と異なる意見・価値観の持ち主が存在することを認め、彼らのことを知ろうとします。だから話し合いや対話を重視するし、多様性を支持します。
リベラルでない人は自分の信じる価値観だけが唯一正しいと思ってるので、話しあう余地などあるはずもなく、異論を唱える者を権威や力で支配・排除する行為を正当化しがちです。当然、多様性も否定します。彼らが対話といった場合、それは実際には密室での脅迫を意味することが多いので要注意です。
近頃日本でも、外国人排斥みたいな流れが強まってます。私はそういう人たちに問いたいのです。あなたたちは外国人と話し合ってみたのですか。おそらくほとんどの人はまったくその経験がないでしょう。
高市早苗さんは鹿を蹴っ飛ばしてる外国人がいると批判して、わけのわからん和歌を詠んでましたけど、そんな平安貴族のまねごとをしたって当事者には何も伝わりません。鹿を蹴飛ばしてる外国人に対して、なぜそんなことをするのだ、やめなさいと直接対話してわかってもらわないかぎりは、何の解決にもなりません。
働いて働いて働きまくるみたいな宣言もしてましたけど、高市さんは問題の具体的な本質を理解して解決しようとする意志も能力も低いのが欠点です。問題解決能力の低い人ががむしゃらに働いても骨折り損になるだけだし、カバーする周囲の人たちの負担ばかりが増えてしまいます。
右派政党の外国人批判に同調してる人のなかには、外国人がゴミ出しなど生活ルールを守らないことへの不満を述べてる人がいます。そういうみなさんは、ルールを守らない外国人と一度でも対話してみましたか。私は近所の中国人がゴミ出しのルールをわかってなかったので直接教えました。あるいは、詳しいゴミの出しかたが各国語で書かれたパンフレットを区役所でもらってきて、ポストに入れておくといった地道な活動をしています。もちろん無視する人もいるけど、わかってくれる人もいます。少なくとも和歌を詠むよりは対話のほうが確実に問題を解決できます。
努力も工夫も対話もせずに不満と被害妄想を募らせて、あげくの果てに政治運動で排斥しようだなんて、人間として哀しすぎますよ。
[ 2025/10/16 17:31 ]
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