2006年12月12日


 本日、2本目のエントリとなります。ちょっと面白い情報が入ったのと、きょうは比較的に手が空いているので、久しぶりに複数エントリにチャレンジ(大げさ)です。

 今朝、パソコンを開いたところ、alison-001様からのコメントに興味深いことが書かれていました。コメントには、公明党議員に対し、過去の創価学会の池田大作名誉の発言に従い、教育基本法改正に反対することを呼びかけるよう訴えているブログがあると記されていました。

 アドレスを教えてもらって訪問してみると、それは次のような内容でした。ふーん、「りぼんぷろじぇくと」が何なのかは知りませんが、よくまあこんなことを思いつくなあ…。以下、引用です。

 《次は、「りぼんぷろじぇくと」有志からの呼びかけです。公明党に働きかけようというもので、これは今、最も効果的だと私も思います。
=========
今週、国会に行けない方がた、ぜひFAX・電話アクションにご参加ください。公明党には、山下栄一参議院議員のような、しごくまともな方がおられます。

「世界11月号」の佐高信さんの論文、「公明党の原理的滑落〜このまま「下駄の雪」になるのか」の中で「池田名誉会長の教育基本法見直し不要論」という小見出しのもとに、池田大作氏の以下のような見解が引用されています。

2001年5月23日付の朝日新聞「私の視点」に、池田大作氏は、教基法は「見直すより大いに生かせ」と書いたそうです。

「昨今、教育改革が政治日程に上る中、小泉政権の下でも「教育基本法」の見直しが議論されている。私自身は拙速は慎むべきであると考える。基本法の眼目である「人格の完成」など、そこに掲げられた普遍的な理念は、教育の本義に則ったものであり、新しい世紀にも、十分通用するからだ。たしかに、基本法がうたう「人格」や「個性」は抽象的だという指摘もある。しかし、憲法に準ずる基本法の性格を考えれば、抽象性ゆえの普遍性はむしろメリットとして大いに生かせるのではなかろうか。
 第一に「グローバリゼーション」(地球一体化)はとどめようない時流である。そこでは国益と同時に人類益への目配りが欠かせない。普遍的かつ世界市民的な視野を養うことが、ますます重要になる。第2に「教育勅語」に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまうからだ」(抜粋)

このことを、衆参両院の公明党議員に訴えませんか?

わたしたち(りぼん・プロジェクト有志)は、FAXアクションを展開します。よろしかったら、あなたもひとことを添えて、FAXしてください。

公明党のスタンスを糾弾するのではなく、池田名誉会長が心を痛めているのでは、と心情に訴えるような文面のほうがいいかもしれません。

以下に、(ファックスのない人もいるので)電話とファックスのリストをあげます。(※以下略)》

 それで、驚いたのはこれからです。同僚記者が本日、国会議員会館をうろうろ回ったところ、上記のブログと呼応するように、似たような文面で、池田名誉会長の言葉を引用して教育基本法改正に反対するよう求めるファクス(工作文書)が公明党議員の部屋に殺到していたそうです。

 同僚がそのファクスを何枚かもらってきたので、この場を使って紹介します。本心かどうか池田氏を持ち上げながら、自分たちの主張を受け入れさせようとしているようです。

 ・「公明党衆議院議員殿 池田名誉会長は心から日本の子どもたちの未来を考えておられると思います。そのお心に今回の教育基本法改正案はかけ離れたものとなっているのではないでしょうか」(兵庫県西宮市)

 ・「公明党議員の各位へ 池田名誉会長は、心から日本の子ども達の未来を考えておられると思います。そのお心に、今回の教育基本法改正案はかけ離れたものとなっています。会長のお考えと、自民党に寄り添うような公明党の態度の間に、大きな矛盾を感じます」(神戸市)

 ・「公明党議員のみな様 この所の自民党に寄り添うような公明党の態度は、池田名誉会長のお考えとは違うのではないでしょうか。池田名誉会長が一番、心を痛めておられるのではないでしょうか」(神戸市)

 ・「公明党衆議院議員、参議院議員のみなさま 2001年5月23付の朝日新聞『私の視点』に、池田大作氏は、教育基本法は『見直すより大いに生かせ』と書かれています」(東京都)

 ・「拝啓 池田名誉会長のお考えも朝日新聞に改悪を慎むべきと述べてこられました。しかしながら、自民党に寄り添うような公明党の言動には大きな矛盾を覚えます」(東京都)

 公明党議員のもとには、このような明らかに、いくつかのお手本というか、ひな形があるであろう文書が、大量に送りつけられているそうです。一体どういう団体が指令・指示しているのでしょうか。このりぼんナントカだけではない気がします。日本には、まだまだこういう組織的な工作を実行する人たちが多いのですね。

 以前のエントリで、教育基本法改正に反対する自治労や日教組、全教などのはがき、ファクス作戦の実態について報告しましたが、いやあ、こういう搦め手でくるとは。侮りがたいですね。でも、実際は公明党議員にはあまり相手にされていなかったようですが。


 昨日のエントリで教科書問題について触れたところ、実際のところ、教科書自体にはそれほど影響力はないのではないか、とのご指摘がありました。それはある程度、真実だとは思うのですが、私はやはりこの問題にこだわりがあるのです。

 そこで、古い話ではありますが、10年前に書いた記事を紹介させてください(実情はそう変わっていないと思うので)。当時、中学校の歴史教科書の巻末にある執筆者・監修者欄に掲載されている人に、片っ端から電話をかけて取材した内容です。

 私は学生時代、歴史が好きで、歴史教科書は音読して必死で覚えたものでした。日本史は、近現代史部分の描かれ方があまりに暗いので好きになれなかったのですが、教科書執筆・作成には次のような実態があるようです。
 
【プリズム】歴史教科書の実態 明かされぬ執筆者 名前貸しの教授も 
[ 1996年10月18日  東京朝刊  社会面 ] 
 来春から使われる中学校社会科(歴史)の全教科書(7社)に「従軍慰安婦」が登場するなど、子供たちが教科書で学ぶ近現代史は「日本=悪」という自虐史観・反日史観に貫かれている。では、教科書執筆者らは、現状をどう考えているのか。執筆の実態を追った。(教科書問題取材班

 「日本がアジアに対して加害者であったと、学生に知らせるのが大事。学生は何も知らず、数年たったら忘れられてしまう」と基本的な執筆スタンスを示すのは、日本書籍監修者の児玉幸多・学習院大名誉教授(八六)=元学長。

 天皇陛下や皇太子さまにも講義した日本交通史の権威である児玉教授は「教科書には目を通して、全体的に意見した程度」と断ったうえで、南京事件や慰安婦記述についてこう話す。

 「南京事件の(被害者の)数字ははっきりしないが、あったのは事実。慰安婦については研究記録もなく、細かいことは分からないが、(中国などへ)出かけた人はみんな知っている。教科書に載せて当然」

 中・高校の学習指導要領を作成する文部省の教科調査官も務めたことがある清水書院監修者の星村平和・帝京大教授(六五)は「中学の歴史教科書の叙述は戦後、あまり変わっていない。新しい学問が反映されておらず、もう少し客観的に書いたほうがいい」と指摘、「実は、今回は執筆にも編集にもタッチしておらず、出版社に頼まれて名前を貸しただけ。執筆者とは、一度も話したことがない」と明かした。

 教育出版執筆者の安田常雄・電気通信大教授(五〇)=思想の科学研究会会長=は「慰安婦は、実証的に見れば歴史学研究として始まったばかりで、資料そのものもまだ収集プロセスにあるのは事実。でも、日本が国際社会、特にアジアで生きていくうえで載せる必要がある」と、近隣諸国への配慮を強調する。

 安田教授は「編集会議でも、慰安婦記述に特に反対はなかった」と言い、子供への影響については「教科書は教材の一つにすぎず、後は現場でどう教えるかだ。そもそも、教育現場で教科書がそんなに強い影響力を持つのだろうか」と疑問を呈した。

 同じ教育出版執筆者の鳥海靖・中央大教授(六二)は「教科書の自虐的な面は否定できない。戦後二十年ほど続いた左翼史観の名残もある。推測だが、各社が慰安婦の強制連行をにおわせる記述をしたのは、韓国への配慮と、採択率をにらんだ販売政策では」と分析、「日本は侵略したが、侵略には侵略の目的と理由がある。しかし、教科書ではその結果だけ書いても、『なぜか』と理由を書くスペースがないなど、どうしても結果として単純化しなければならない部分がある。もっとも、執筆者同士の歴史観も共通してはいないが…」と話した。

 同社監修者で中央教育審議会委員の河野重男・東京家政学院大学長(七一)は「近現代史は、もっと肯定的な表現で書くべきだったかも」と迷いも見せるが、「教科書は現場教師や生徒の反応を分析、検討して改善に努めていけばよい」とするにとどまった。

 だが、今回、本紙の取材に応じた学者は比較的、知名度が高く、歴史認識もそれほど偏ってはいない。

 星村教授は「聞くところによると、中学校以下の教科書は大体、現場の教師が書いて、大学教授がチェックすることが多いのが実態ではないか。(慰安婦など)記述が横並びになるのは、出版社が営業を考えるからだろう」とも語った。

 実際、今夏の本紙連載「子供たちはこんな教科書を使っている」で、秦郁彦・千葉大教授は日本書籍の教科書中の「ルーズベルトが一九四三年に死亡」(正しくは四五年)「ヒトラーが一九四三年に暗殺されかかった」(同四四年)など単純ミスを指摘、「不合格にすべきだった」としている。

 教科書がつくられる過程は、ほとんど国民の目に触れない。執筆者の中に、マルクス主義的な傾向を持つ歴史科学協議会(歴科協)や歴史学研究会(歴研)、歴史教育者協議会(歴教協)などのメンバーが二十人以上いることもあまり知られていない。

 今回、取材班は各教科書会社にも「執筆者を選ぶ基準」「近現代史の担当者」の二点について聞いた。

 それに対する答えは「執筆者を選ぶ基準は外部には言えない。教科書は共同著作であり、どの部分をだれが書いたかは公表できない」(教育出版、東京書籍、日本文教出版)というのが代表的なものだった。さらに、「著者たちから『公表を差し控えてもらいたい』と要請された」(日本書籍、清水書院、帝国書院)、「歴代、京大系が多い。思想ではなく長年の系列で決まる」(大阪書籍)という説明もあったが、全体としてガードが堅く、多くを語ろうとはしなかった。(了)

 …10年もたてば、少しは改善されているかもしれませんが、当時、取材を終えた私は暗澹たる気持ちになったものです。学生のころ、懸命に覚えた内容は、やはりこんなものだったのかと。学生のころは、今より教科書の「権威」を信じていましたから。

 その後、新しい歴史教科書をつくる会が結成され、私も「ようやく左じゃない教科書が生まれるか」といろいろと期待し、取材もしましたが、韓国や、日教組や左翼過激派をはじめサヨク・リベラル勢力の妨害工作もあって採択率は低い状況が続いています。

 自分で本を読んだり、ネットで検索したりして教科書に書いてあることが必ずしも本当のことではないことに気付く人が大多数であれば、あまり心配することはないのかもしれません。

 ただ、一応、政府の検定に合格してお墨付きをもらった教科書が偏向していて、その上でサヨク教師に副教材やプリントで洗脳されたら、子供たちも、なかなか本当のことに目覚めるまでには大変だろうなあ、と心配なのです。

 私は、比較的早く、小学校6年生ごろには、「平和教育」の名目で行われる「とにかく何でも日本が悪かった授業」はおかしいと気づきました。でも、それまでは立派な大人である先生方が支持する社会党が一番いい政党なのだろうな、と漠然と思っていました。政党の意味もよく分かってはいなかったのですが、なんとなく。

 私の場合、情緒的な平和教育への反発もあって戦史小説を読みふけったり、北方領土の歴史を勉強して一人で反ソ反共を気取ったりと変な中学生となり、あげく産経新聞に入社してこんなブログを書いているのですから、何がどういう効果を生むかは分からないものではありますが…。

↑このページのトップヘ