行方不明映画の系譜〜『バルカン超特急』から『チェンジリング』まで
ヒッチコックの代表作のひとつ『バルカン超特急』(1938)は革新的な設定の映画だった。
走行中の列車内で行方不明事件が発生し、乗客の誰もが行方不明になった老婆のことを知らないと言う。主人公だけがその存在を知っている。古典的なサスペンスだが、その後に与えた影響は大きい。
H「これと同じ話が三度も四度も映画になっているんだよ。」
T「『バルカン超特急』が何度か再映画化されているという意味ですか。」
H「いや、再映画化されているということじゃない。人間が突然消えてしまうというドラマの発端が、かたちはちがうけれども、何本かの映画のもとになっているということだよ。」
フランソワ・トリュフォー『ヒッチコック 映画術』
ここでとり上げる最初の「超特急の落とし子」はオットー・プレミンジャーの『バニー・レークは行方不明』(1965)だ。
画面に現れない行方不明者
設定だけではなく、ヒッチコックの良きパートナーだったソール・バスの素晴らしいタイトルデザインも魅力的なこの映画は、『バルカン超特急』の発展形であり、この手のサスペンスの到達点と言っていいだろう。なぜなら、行方不明になる人物が画面に登場しないからである。
このことによって、観客はその人物の存在を疑わざるをえない。主人公アンと弟スティーブンの姉弟への感情移入がここで阻止され、むしろ疑念を抱かせることができる。さらにスティーブンの言動が観客をより混乱させるものであるため、観客はアンをまったく信用できない。
ここが『バルカン超特急』との大きな違いである。『バルカン超特急』は完全に主人公に感情移入させるように作られているが、『バニー・レーク』は主人公に感情移入することを拒む。アンが完全なる孤独に追いやられてしまうが、だからこそ結末が感動的なのだ。
行方不明になった登場人物が最初から不可視化されているという設定は他の行方不明映画にはない独自のものであり、最大の魅力である。121年の映画史の中で行方不明映画は多数作られたが、この設定に影響を受けた作品は、少なくともポピュラーではない。『バニー・レーク』自体も町山智浩の『トラウマ映画館』で名が知られるようになった隠れた傑作だった。
『バニー・レーク』についてもっと知りたい方は、『トラウマ映画館』を読むといい。例えば、こんなことが書いてある。
これらの映画で、主人公たちは周囲から異常者扱いされ、そのためにかえって取り乱し、孤立し、自分でも自分が狂っているのかもしれないと思うほどに追い詰められていく。このカフカ的不条理ゆえに「消えた旅行者」の物語は人々を魅了してきた。
しかし、問題は結末だ。このプロットの魅力と釣り合うだけの謎解きは滅多にない。
[…]『バルカン超特急』や『恐怖のレストラン』は後半大アクションになる。カフカ的な恐怖は結局陳腐な絵空ごととして終わってしまう。
『バニー・レークは行方不明』はそれを見事に回避し、最後まで観客を失望させない。オットー・プレミンジャー監督の才能によって。
プレミンジャーは「消えた旅行者」の話が人々を恐怖させ続ける理由がわかっている。それは実存的不安だ。人は周囲の記憶と書類なしには証明できない不確かな存在なのだ。その意味でこのジャンルの最高傑作は『恐怖のレストラン』の原作者でもあるリチャード・マシスンの短編小説『蒸発』だろう。まず主人公の知りあいが一人ずつ消え、次に彼に関する記録が少しずつきえていく。ついに自分の体以外何もかも失った彼は、コーヒーショップで手記を書きながら消滅する。こんな風に。
わたしはいま、飲みかけの一杯のコーヒ
2000年代の行方不明者は明暗が分かれた
2000年代に2本の行方不明映画が公開された。ロベルト・シュヴェンケの『フライトプラン』(2005)とクリント・イーストウッドの『チェンジリング』(2008)である。
『フライトプラン』は飛行機内から消えた息子を探すために奮闘する母親の姿を描いた作品で、『バルカン超特急』の直系の子孫と言えるだろう。
2本の映画は似ているが、『フライトプラン』の設定の甘さはよく指摘されている。また、上記の町山の指摘の通り、終盤の大味な展開は面白くない。ジョディ・フォスター演じる母親が過剰なパニックに陥り悪意をばらまき続けるという設定も観客をいらだたせる。これこそが最大の失敗だ。主人公に感情移入させないでどうする。
『チェンジリング』はかわいそうな映画だった。決して出来は悪くないのに、同年公開のイーストウッド会心の一作『グラン・トリノ』があまりにも話題になったため、日陰に追いやられてしまったのだ。
この映画の特徴は、ゴードン・ノースコット事件という実話を元にしているということだ。権力の腐敗により悪夢が実現したと理解した観客は主人公に感情移入し、悪が叩かれることを期待する。『バルカン超特急』と同じ構造である。これが見事に果たされるからこそ高い評価を得ているのだ。『フライトプラン』との違いは主人公に感情移入できるか否かである。
ただし、この映画はロス市警=権力の腐敗を描くという点に比重が置かれていることは間違いないので、純粋な『バルカン超特急』型サスペンスとは言えないだろう。
もはや単純な「消えた旅行者」プロットは通用しなくなっている。どこかで工夫することが求められる。イーストウッドはそこに権力との対立を持ち込むことでプロットに新鮮さを生み出したのだ。
『バニーレーク』を超える映画は現れるのか
誰かが行方不明になるというサスペンスの定番は今後も描かれ続けるだろう。しかし、『バニー・レーク』を超えられるかどうか?
コメディ映画は未だにチャップリンとキートンを超えられない。ミュージカル映画は『雨に唄えば』を超えられない。行方不明映画もまた、『バニー・レーク』を超えられないのではないか。
画面に現れないまま行方不明になる子供、観客を巧みに混乱させる弟、観客から感情移入されない頼りない主人公。これらの設定を揃えることは誰にでもできる。しかし、歯車を噛み合わせることは容易ではないようだ。