とはいえ、雑多な情報に遭遇する機会の多い現今社会において、決して結実する事は無い雑多で無益な情報に伴うものには概して、人を惹き付け易い外面を備えているだけで核心部分は薄弱という物が常であります。そうして近視眼的理解の人間を増やしてしまうだけになるという悪しき側面があるのはインターネットというメディアが広汎に普及してからは特に顕著な事でありましょう。心の「起り」というのは単純明快な方が神経発火(=知覚の動機)的にはとても楽でシンプルな体系ですから、ここから感情の起りが色々つきまとわせる事が出来るのでついつい甘んじてしまうのでありましょう。人々は漠然とした物に紐付けできずに普段は捨て去っている様な情報に対して外部から単純な紐付けを行なわれると、そこに拘泥する事となるワケですね。対立項を与えられると途端に事物への明澄度が増すかのように理解を伴ったりするものでしょう。
二元論、倫理観、宗教観、思想、政治的・社会的な側面に対して普段なら全く興味を示していない事に対してでも、対立項を伴わせて神経発火という特に怒りの感情に対して神経発火を起されればアラ不思議。自身の信念と向き合う事での同調 or 対立を生んでしまうワケですから、こうして人々の心を玩ぶ事など実に容易なことでありますね。誰もがなんちゃって愛国者になっている人は多いのではないかと思います。
その意外な事実には、自身が常々ストレスの捌け口が分らずに対立項を外部から与えられる事で気分がスッキリしている事に起因しているだけという事にすら気付いていない人は少なくはなく、寧ろ増大しているのが現実でありましょう。
音楽的な話題、例えば絶対音感というものをひとつ取ってみても、それに対する理解とこの手の本としては珍しい程のベストセラーとなった最相葉月著の『絶対音感』を重ね合わせる事もできるというのも首肯したくなる現実でありましょう。最相葉月著の『絶対音感』から端を発する誤謬は、西洋音楽史と音響心理学面の素養が全くないまま「絶対音感」という事への真相を急いてしまうだけの人たちを増やしてしまったというのは残念な点でありましょう。
最相葉月の先の著書は多くのソースを傍証しておき乍ら肝心の面でバランスを欠いている点が少なくとも3点ほどはあります。しかもそれが、答を急くタイプの人間からは最も真相である様な部分に対してそれまでのバランスを欠いたような仄めかしで語っている部分があります。機会があるかどうかは判りませんが、もし機会があれば最相葉月著『絶対音感』を正しく読む方法のような批判と指南を書いてみようかとも思いますがそれは何時になることやら(笑)。私が語りたいのは絶対音感の事ではなく、絶対音感というひとつのケースを取り上げてみても人々には誤謬を備えてしまっている事が多い、という事を挙げただけに過ぎず、他の側面でも、知っている様で知らない事など沢山ありますよ、と言いたいワケですね(笑)。
例えば、加齢に伴って超高域の帯域が聴こえなくなってしまったりというケースは一般的社会にて広汎に知られている事でありましょう。それは、高域周波数を捉える有毛細胞が欠損する事に起因するものですが、自分自身の経験でなくとも広く知られた側面だと思いますが、難聴のそれ自体が総じて高域から失われて行くのかというとそれは全く違う事でもあり、伝音難聴と感音難聴と分類される難聴が実際には存在しているというのは過去にも触れた通りですが、音量を上げればイイというモノでもないというのが難聴の実際なのであります(故に分類されている)。
難聴≒耳が遠い、という理解は「耳が悪い」と言ってしまうと「善し悪し」の面での語弊を伴うので表現としても芳しくないのは当然ですが、そうした配慮の必要性から総じて健常者が「耳が遠い=難聴=高音が聴き取りにくい=声張り上げりゃ判るだろう」という皮相的理解に陥っている事も気付かずに聴覚を理解してしまっているのは、自身の経験に伴っていないのでピンと来ないという事に起因するものでありまして、音に関する事や聴覚に関してよっぽど興味を抱いている人でなければ、そうそう伝音・感音難聴について理解している人は少ないかと思います。換言すれば、私が列挙する語句に於て聞き慣れない言葉があれば、それは「知らない事」であるとも言えるでしょうし、知っていそうで知らない事などを殊更耳に関することはこっぴどく語っておいた方がよかろうと思い、こうして語っているのであります。
更にもう一つのケース例が結合音。結合音の存在も恐らくは知らない人の方が大多数でしょうし、結合音の聴取すら実感した事が無い人の方が大半なのではないかと個人的には思います。器楽的経験を伴わせると途端に実数が少なくなってしまう音楽社会の実際であるとはいえ、ひとたび楽器のチューニングという経験さえあれば、「うなり」という、音の「滲み」を実感する事があり、その「うなり」を引き合いに出せば結合音というのは理解に容易くなります。ところが、2014年5月21日現在でのウィキペディア日本語版の結合音の説明には誤りがあり、「うなりは差音ではない」複数の部分音を持つ複合音を聴き取る時では、それらの異なる部分音同士の周波数の差・和に依って生じてしまう結合音なども存在するものであります。
音や聴覚に対する認識とは、知っている様で実は本質を知らない、寧ろ、誤解を生じた理解とやらを、自身のほぼ無意識下レベルの直感的感覚と自身の偏向的な嗜好に準えているだけに過ぎないという事が非常に多いものであり、器楽的な経験のある人ですら、あまりに普遍的な感覚に対して音への深部の理解がステレオタイプな理解になってしまっている人は以外にも器楽的素養のある人ほど陥穽は深い物となるのも事実でありまして気を付けたい所だというのは繰り返し申しておきたい所なのです。なぜかというと、聴覚に異常が見られない限り通常は一般的に「調性」感という物をごく自然に我々は獲得していきます。作曲ですらパラメータ如何によって自動作曲ができようとも、「調性」という偏りは機械では調性感としての心を持ってくれはしないのです。調性感を持つ偏りを確率的に可変させる事を操作するそれと、人間の知覚面での調性感というのはまるっきり違うのです。この調性感が耽溺の源泉のパラメータだとすれば、音を聴く事での煩わしさはその対極にある心理と言えるでしょう。こうした心理的尺度の偏差を図式化したものが以前語ったサーストーン・スケーリング(=心理尺度)にあてはめることの出来る偏差の例の一つなのです。どんなに素朴な音感であろうとも、機械が持つことの出来ない調性感を持っている事だけは誇らしげにあっても良いとは思いますが、調性ベッタリの曲ばかりをいつまでも聴いていてもそれはそれでアレな例の一つかもしれません(笑)。
可聴帯域、結合音、絶対音感に関する類の理解は往々にして誤解を生じかねず、近年の音楽界では珍しいベストセラーとなった最相葉月著『絶対音感』に於ても先述の様に肝心な部分が抜け落ちているので、特に読み手の器楽的経験に準えてしまう類の者が読んだ場合、誤解の度を強めてしまう懼れのあるベストセラー著であるため、そこから誤解の度を強めてしまってステレオタイピックになってしまっている人は20世紀末以降、相当数増えているのではないかと実感する事しきりです。
ステレオタイプ。それはつまり、正常に音楽を聴いていれば自身の調性感を基準に自分の音楽的素養の基準にマッチする or しないという音楽的基準が構築されている筈なのに、固定観念が生ずるのは、調性感があまりに普遍的であるので惰性で音楽を捉えてしまっているが故の事でもあるでしょう。熟達した人間ですら音楽に惰性感を伴って耳にしてしまう事など否定はできない例でもあります。
機械では獲得できない調性感、その先の偏向的な惰性感と固定観念。これを払拭する様に音楽を聴くという事がどれだけの人が出来るでしょうか!?器楽的な経験を順に追って行くとすると、調性社会での枠組みのある一定以上の音使いは相当聴き込まないといけません。大概の音楽的な旋律は人間が奏し易い類の演奏に伴って生じているものなので、指や手の運びは、幾多のパターンを覚えて行く事によって幾多の音程の跳躍パターンを覚えて行く事となります。
それと同時に、旋律は和声を欲しがり、和声は旋律を欲しがるという有名な言葉がある様に、和声にも体系がある様に、それらの響きの「パターン」を理解する必要が生じます。つまり、調性を詳悉に知るという事は、やがて半音階組織を知り、調性感の稀薄な組織への理解と、何れはもっと複雑な音組織を獲得する必要があるのでしょう。音楽にはこうした熟達への道程を急いてしまってはいけないのです。私が少年時代の頃の同年代の者の中には七度の和音感が全く出来ておらず、長七(=メジャー7th)の和音など汚いとまで言っていた位でした(笑)。
器楽的な素養を高める事に必要とされる物に、楽器の操作=つまり演奏の熟練が要求されるのは間違いありません。身体的な熟練が伴う訳であります。身体的な技の熟達には訓練という反復がいつしか無駄な動きを払拭して呉れるものでありますが、そうして克服した先には惰性も待ち構えているというのが残酷な現実でもあります。調性感ですら惰性を伴って聴いてしまおうとする。惰性を伴わせないように音の並びを操作して半音階的に聴かせようとする体系もあるのは御存知の通り。惰性を伴わせない為に、演奏の為の不文律を破る事もあります。楽譜を左から右に読む事すらも惰性と偏向と捉えて別の見方を要求する為に図形化したりする事も、惰性感を排除する狙いがあっての事です。惰性という偏重が調性感を呼び込む、という事を排除したいが故の事ですね。
孰れにしても、音楽の、特に知覚面に関する事で私が述べて行く事に於て知らない事実があれば、そこには恐らく読み手の方は重みを増して理解しようとするでしょう。そこが私の狙いとする所です。知っていそうで知らない部分などをちりばめつつ語って行く予定です。
国内某所の公衆トイレでは、若者が屯〈たむろ〉しない様に17000Hzのモスキート・トーンをスピーカーから発して、高域の音波を捕える有毛細胞がまだ活動中の若者には不快な音として感じる様に工夫を凝らしていたりなど記憶に新しい所ではありますが(笑)、加齢に伴い超高域の音が「能動的に」聴こえなくなるというのは楽理的に詳しくない人々でも大体持ち得る知識のひとつであります。とはいえ、おそらく大多数は、高域を捉える有毛細胞の欠落が無い事を優位と捉えてしまい、若い事は良い事>老齢者の耳と理解してしまっている人は決して少なくないでしょう。そこまで齢を重ねた人々を蔑視する事がなくとも、若さを備えている事による限定的な能力にプレミアム感を実感したいが故に、モスキート・トーンを聴いてみたいという衝動に駆られる人が出て来るという訳ですね。
とはいえ、4kHzよりも上の周波数への音程感というのは結構曖昧にもなってくるのでありまして8kHzの音をその後に出しても1オクターヴ上昇したと捉え切れなくなるという事実はそうそう知られない部分でしょう。これは臨海帯域という言葉で説明できる事なのですが、オクターヴ感すら曖昧になってくる更にその先のオクターヴの相貌という領域に、倍音が附加された領域と捉えるのではなく、基音を一所懸命聴こうとするのは甚だ滑稽な「音感」であるとも言えるでしょう。その先の20kHzという可聴帯域がすぐ先にあると雖も、強制的に骨伝導に依る振動を耳の後ろに当てたりして大きいエネルギーだと超音波クラスと可聴帯域を超越する100kHz程の音も聴こえるというのだから人間の耳は実はかなりのスケーリングで音を捕えているのだという事があらためて判ります。これは非線形音響と呼ばれたりする事ですが、120〜170dB辺りの、人間が不必要としてしまう位の大きなエネルギーの部分を非線形音響とカテゴライズされていたりもするのです。まあ140dB位なら耳はまだ損傷はしないでしょう(笑)。
私自身、不定期乍ら2、3年に1度位の頻度で聴力検査を受けたりしますが、その際耳の後ろ部分、つまり能く加齢臭が臭う場所と呼ばれるような所に円錐形のような物体を当てられて測定される事があります。道路の測量などで円錐の分銅の様な物がぶら下がっていたりしますが、ああいう円錐の物体を想像して頂ければイメージしやすいと思うのですが、聴力検査というのも色々な物があるのだなあ、と実感した事が何度もあるものです。
そうした超音波領域の振動を骨伝導やらFM変調やらを使って強制的に振動させるというやり方で聴かせるという臨床試験は疾っくに行なわれているのが現実ですが、高い音圧エネルギーであるというのも述べておかなくてはならないでしょう。驚くべき事には可聴帯域外の複合音に依る周波数の差=結合差音を可聴帯域になる様にした場合、通常なら差音以外の複合音の周波数は可聴帯域外なので聴こえない筈なのに非線形音響だと聴こえるという事。これから判る事は、耳というのは可聴帯域外の音を決して「null」(=ゼロ)という風には処理していないという事なのです。全く知覚していないのであれば可聴帯域外の振動数は総じてゼロと等しい筈ですが実際はそうでないので差音も認知できるという事なのです。
それ以外に今度は、先の非線形音響の様に耳をつんざく程の高い音圧を得ずとも、我々の耳というのはたかだか60dB程度で耳には結合音の加音と差音以外にも耳内倍音と主観結合音と呼ばれる類の音を作ってしまうのですが、これは単に音波の整数倍(=自然倍音列)の音が生じてしまうという特性も忘れてはいけない部分です。結合音には加音と差音がありますが、その他に主観倍音=耳内倍音という整数倍の振動が生じてしまう物もあるのはあまり知られていない事ではないかと思います。たかだか60dBの音の大きさから耳内倍音は生じてしまう訳ですから人間の耳とは大変です。
ウィキペディア日本語版に眼を通すと結合音に関する一部の「うなり」に関する記述は誤りがありまして、例えば440Hzと442Hzの周波数の差によって生まれる「うなり」。これは結合差音と同一です。言い方が悪いですね「結合差」とでも言っておきましょうか(笑)。
それのどこが悪いのか!?
「音」ではないから表現に配慮しただけの事なのですが、先の周波数の差分=2Hzそのものは耳には音として聴こえない振動=うなりとして認識するワケです。以前にも電話の通話時に相手が出るまでの『プルルルルルル・・・』という音は、400Hzと7Hzの振動数なのですが、7Hzの方を音としては聴かずに「うなり」として聴いてしまうので400Hzがプルルルルルルル・・・と鳴っている様に感じるのですが、この可聴帯域外の振動数が可聴帯域内まで高められれば「音」として実感する様になるワケです。概ね20Hzより高くなれば低い音が「ブーン」と発生して来るのであります。うなりは可聴帯域外のもので可聴帯域内のそれが結合差音であるという説明は溝部國光著の『正しい音階』でも詳述されておりますし、他の音響心理学関連図書でも取り上げられている事実であり、日本版ウィキペディア編集者は何らかの誤解があって編集しているのは明白ですので、それをソースにして知識を蓄えない様に注意をしたい所です。
この際ですからDTMFマトリクスでも載せておきましょうか。え!?「マトリクス」とはけしからん!「メイトリクス」と発音せよ!と思われる方も少なからずおられるかもしれませんが、取り敢えずは普く膾炙されている方を撰ばせていただきますね。いつぞやのrelativeとリレイティヴ(リラティヴ)とやらもそれと同じ事なんですけどね(笑)。余談ですがDTMF Matrixのトーンは、縦軸と横軸の双方が重なり合うものが複合音として各キーに割り当てられているものなので、単音は発しません。
まあ以前にもプッシュ信号の自然七度やらも論じたりしたものですが、音というのはこういう風に考察するだけでも、一般的に知られていない様な側面は多数存在するのであります。ベーケーシ(余談ですが、最相葉月著『絶対音感』内ではベケシーと書かれております)は死体の献体からの研究が後に解釈が変更される事もあってベーケーシの25kHzも図示されている事すら誤解を招きかねないものですが、高域の可聴帯域外の実例で最も最古と思われる例がサヴァールの実験ですね。
サヴァールというのは微小音程の単位として知られてもおりますが(1半音=25サヴァール)、サヴァールの実験というのはおそらくやその後のレコードの回転数などにも影響を及ぼしているのではないかと思える所もあって大変興味深いのであります。LPレコードの回転数は1分間に33 1/3回転、12000°とも言い換える事ができるでしょう。(120°×100)。
サヴァールの実験は82cmの輪に720個の歯を与えて、歯の打撃数に依る音を捉えていたのですが、打撃数が24000=1秒間に33.333333…回転を与えても聴こえたというのが世界最古の可聴帯域外の実験例の記録ですね。
また、この33 1/3回転という所についつい興味を抱いてしまうのでありまして、LPレコードの回転数はそれの1/60と言えますが、オクターヴ換算するとほぼ6オクターヴ下(5オクターヴ+1088.26871セント)になるのが興味深い所です。6オクターヴ低めた振動数が伝わらない様にする為にRIAAカーヴという規格にも知られている様に、低域を極力抑えてレコードの溝をカッティングして、その後電気的にRIAAカーヴという特性で戻して再生音を得るという事なのですから、こうした数字の一致が見せてくれるのも興味深い所です。
オクターヴという相貌を意識してしまうと、1:5という音程比は2:5あるいは4:5であっても「1・2・4」の部分はオクターヴ上昇していくだけで等価な音になります。処がシュトックハウゼンは1:5という音程比をオクターヴ相の繰り返しにならぬようにその音程比を25等分する訳ですね。100Hzという音は20Hzとは1:5の音程比。20Hzのオクターヴ相は40Hz、80Hzという風にオクターヴ相に埋没させる事はできますし仮に100Hzとの間に4:5の音程比が生じても差音は20Hzという不思議。
それの何が不思議なのかというと、人間の耳の基底膜というのは20Hzという「間隔」が直線的に順次竝んでいる様なものでして、1000Hzと1020Hzの違いにおいてもそうですし、この「直線的」な間隔という所を見越して「習作II」の特殊な音律が生じているという点も忘れてはなりません。
本来純正音程比1:5の真のオクターヴ相の繰り返しは起らず、春秋社刊デイヴィッドコープ著「現代音楽キーワード事典」内では81等分平均律という風にも語られておりますが、それについてそれ以上詳しく述べられていないのは残念な点であります。直線平均律法(異なるオクターヴ相で異名同音が生じない=No Two Alikeな音)と総音程音列と直観と音色旋律を視野に容れている物が「習作II」と私は理解しているので、お読みになられている方が迷われない様念のため触れておくことにします。
東南アジアのとある地方では1250セントを1オクターヴとする音律の報告もある位で、下二桁の50セントは何れ5オクターヴ重畳させれば最小公倍数でオクターヴ相は一致するものの、5オクターヴ先で一致する時は、200セント上方の音にいつの間にか「着地」する事と同様です。言っている意味が能く判らないでしょうか?仮に1250セントでヘプタトニックを形成してドレミファソラシドと歌っていったとすると、5オクターヴ先での導音を歌った直後の「ド」が「レ」の方へ「移調」している事と同意になるのです。直線平均律では、この「着地」が如何様にも同じ音には着地しないのが最も興味深い点なので、そうした側面を念頭に置いてもらうえれば今後も判り易くなるのではないかと思います。
これらの様な音の不思議の最後に、ユニゾンとて、ある一定以上の音量で奏すると互いに滲み合ってしまって振動数が揺らぐモノなのです。位相歪みが発生します。ユニゾンとて大きい音量では溶け合わないというのが不思議な所です。こうした側面を今回は一気に語っていましたが、器楽的な側面も含めて音の不思議な側面を語りつつ今後も取り上げる事があるので念頭に置いていただきたいと思うことしきりです。皮相浅薄な知識で音を捉えるな、という事だけは声高に語りたい部分ではあります、ハイ。