先日アップした動画で、松野平介が駆けつけた京都の寺を妙覚寺と字幕に書きましたが、妙顕寺の間違いでした。信長公記には妙顕寺と書いてあるのですが、記憶を頼りに確認せずに動画の台本を作ってしまいました😢ごめんなさい
以下に、その部分の信長公記を現代語訳しておきます
先年、安東伊賀守(安藤守就)が不届きな振る舞いをして追放された折、その家中に松野平介という者がおりました。
たいへん勇敢で、抜け目ない男であるとの噂が信長公のお耳にも達し、召し抱えられて、多くの知行(領地)をお与えになりました。これは松野にとって、とても名誉な出来事でした。
本能寺の変の時、松野平介はかなり遠方にいたので、時刻が過ぎてから妙顕寺へ駆けつけました。ところが斎藤内蔵佐(斎藤利三)とは旧知の縁があったため、内蔵佐(斎藤利三)の側から妙顕寺へ使者を差し向けてきて「急いで参上し、明智日向守(明智光秀)に礼を申し上げよ。そうすれば何事も差し障りはあるまい」と伝えてきました。
すると平介は「自分は信長公に召し出されて仕えてきた者である」として、右の経緯を諸寺の僧たちに一々聞かせましたうえで、
「かたじけなくも、分不相応なまでの御知行を賜りながら、いざという時にお役にも立てず、そのうえ主君の御敵(明智光秀側)に降参するような主を崇めてよいはずがない。無念である」
という趣旨の書状を、知己の人々に送り届け、書き置きを残して追腹(殉死の切腹)を遂げました。
「まことに、命は義のためには軽い」と本文に認め、この一件の締めくくりとしたのです。
Read more