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<講釈>穢れ

2006年 聖霊降臨後第13主日(特定17) (2006.9.3)
<講釈> 汚れ   マルコ7:1-23
1. 「汚い」と感じるもの
人間には「汚い」と思う感覚がある。人間以外の動物にそういう感覚があるのかどうかということについては、わからない。この感覚は人種、性別、年齢、宗教、文化の違いを超えてすべての人間が持っている基本的感覚である。ところが、何を「汚い」と感じるのかということになると、もう収拾がつかなくなるほど多様である。一口に言って、この感覚は個人差、民族差、文化差が大きい。汚いと感じる対象は事物にとどまらない。心の汚さとか行動の汚さをも含む非常に文化的な価値観でもある。その意味では、汚さの感覚は個人的な要因も否定できないが、大きな枠としてとらえると時代と民族の枠から、つまり文化の枠から誰も自由ではない。もし、自由であるとしたら、その人は「変人」である。その意味で、文化は「内なる自然」、あるいは、「内なる環境」であるとも言える。文化はわたしたちを内から支配する。
2. 「汚れ」の観念は、文化の所産
汚いという感覚の対極にある感覚が「きれい」という感覚であり、これは「美しい」という感覚と重なる部分も大きいが、本質的には異なる感覚である。「きれい」という感覚には「安全・安心」という感覚が伴い、わたしたちはそれに近づこうとする。その意味で、「きれいなもの」は魅力的もある。それに対して、「汚いもの」には「危険」という感覚が伴う。どういう意味で危険なのかということについては、それ自体によって異なるが、「汚いもの」はそれに触れるものに危害をもたらす。人間は汚いと感じるものを遠ざけ、自分自身も遠ざかる。「汚いもの」「人を汚すもの」を排除し、遠ざかるというのが、文化であり、本日のテキストでいう「昔の人の言い伝え」(3)である。ここには昔の人が「汚い」といったものは、汚いのであって、それを「汚い」と思わない人間は、人間でない、という構造がある。この構造が、民族差別の感情を生み、排外主義を強化する。
3. ミツカン水の文化センター
お酢で有名な株式会社ミツカングループが社会貢献活動の一環として1999年に「ミツカン水の文化センター」を設立した。「水」と「人々のくらし」との深い関わりを「水の文化」として捉え、「水の大切さ」を啓蒙するとともに、「水」に対する意識の向上を目指す、というのが目的で、活動内容は、研究活動としては、「水と心」、「水と共生」、「水と交流」、「水と生活」の4つの領域を柱として、それぞれ専門家を集めて研究活動を展開し、それらの成果を年3回の機関誌「水の文化」を発行している。その他、ライブラリー事業として、「水の文化」に関わるデータベースをホームページ上で開設し、当センターが所蔵する約3000 冊の他、水文献研究会所蔵の約1万冊分の文献データを公開している。また、ホームページでは機関誌「水の文化」のバックナンバーがすべて公開されている。ここで公開されている資料は非常に貴重で、読んでいてもとても楽しいもにになっている。たとえば、最近号(22号)では「温泉の高揚」というテーマのもとに温泉をめぐる様々な点が取り上げられている。
さて、この「水の文化」11号のテーマは「洗うを洗う」で、「洗う」という人間の行動と水との関わり、洗濯や入浴に始まり、汚れや穢れ、衛生問題等々非常に教務深い論文や講演が掲載されている。その中で、やはりわたし自身の関心から「涙はなぜ美しいのか」という宗教学者・山折哲雄氏の講演が非常に興味深く読んだ。山折氏自身の水についての原体験から始まって、インド教、イスラム教、仏教、神道、キリスト教等における水との関わりが丁寧に論じられている。その中心点は「水の内面的な浄化力」に対する信仰ということであろう。この信仰を現代人は失ってしまった。
山折氏は、原始神道と仏教について興味深い点を論じている。
歴史的にみると原始神道というのは、地上にある汚れたものをサッと洗い流すことができるという感覚を持っていた。禊ぎはまさにその象徴。身体にサッと水をかければ、汚れが消えて汚物が洗い流されるという感覚である。それが一種の清浄感、清潔感と繋がっていた。そもそも自然が美しく水が清冽ですから、ちょっとでも汚れたものはすぐ目立って意識されるわけです。そのため、水で洗い流すことになる。
しかしその原始神道の世界では、内面のいやらしいもの、内面の汚れたもの、罪、悪、そういうものを洗い流すという風には決してなっていなかった。もともと縄文人は、内面的な罪、悪という感覚を強くは持っていなかったと思う。ここが問題なわけである。「人間は本来罪深い存在である」という思想をもたらしたのは仏教である。仏教は内面的な罪、汚れを問題にした。それが、人間には清らかな人間と、不浄な人間がいるという差別感を持ち込むことになった。その仏教が、それまでの原始神道と習合していくわけで、原始神道にも水によって人を浄めるという信仰があったのですが、それが日本に入ってきた仏教と結びついて、内面化した。そこで、はたしてその内面的な罪は、水の力によって浄められるのだろうかという問題がでてきた。
結局、水だけの力では人間の内面の汚れ(業=罪)を処理することができないので、懺悔とか、修行ということが重要性を持つようになる。
この講演が語っていることの全体を紹介するのには時間的にも難しいので、唯一点だけ、この講演のタイトルになっている「涙はなぜ美しいのか」ということについて、本日のテキストとも関連しているので紹介しておこう。
最後に、汚れのもう一つの側面、汚物について言いますと、汚物の典型は大便でしょう。大便というのは、排泄した途端に汚物になる。しかし、その直前は汚物と思っていない。小便もそうです。排泄する直前まで汚物ではない。なぜでしょう。
この問題に答えるのはなかなか難しい。謎ですね。新陳代謝で排泄されたものは、その途端に汚物になるということです。ただ例外がある。涙です。涙という排泄物は、排泄した後も汚物にはならない。なぜでしょう。
これにも、答えることが容易ではない。ある人が「唾液もそうだ」と言いました。でも、唾液というのは口から吐き出されたとたんに汚物に変ずる。それはやはり涙の美しさとは違う。有用な排泄物だけれど、唾として吐けば汚く感じます。ほとんど、涙だけが唯一汚物にならない排泄物。それはなぜか。
この問いには山折氏は答えていない。それぞれが自分で考えなければならないからでしょう。
4. 内と外
本日のテキストにおいて、「昔の人の言い伝え」が教えている点は、汚れは常に自分の「外にあるもの」である、ということであろう。汚れは外から来る。外からくるものは「汚れている」という思想である。この思想に立つと、常に「内は清く」、「外は汚れている」ので、外の汚れを内に入れ似合いという主張となる。この規定が、自己と他者、自己の民族と文化は常に清く、正義であり、この文化と対立するものはすべて「汚れ」、悪となる。
それに対して、イエスの教えは根本的に対立する。「汚いもの」は「内から」出てくるのであって、「外から」入ってくるもので「人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(15,21)。
5. 「腹の中に入り」
実は本日のテキストから省かれている部分(17節~20節)に非常に重要な言葉がある。こんなに重要なのにこの部分が省略された理由はおそらくこの部分が礼拝の時に読むのにはあまりにも下品だからだと思われる。この部分はイエスと弟子たちだけでの会話である。この会話の中でイエスは次のように語る。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」(18~19)。この言葉は、ここでの食事の前に手を洗うかどうかということについての議論というよりも、ユダヤ人の間で「汚れた食べ物」として規定されているものへの批判であると思われる。この種の規定は、ユダヤ教に限らず、いろいろな宗教において見られるものである。
ところが、日本文化においては食べ物に対する忌避の規定が非常に少ない。ほとんどないと言っても言い過ぎではないであろう。仏教における肉食の忌避という規定が「汚れ」の問題というよりも、殺生の回避というの問題ではあり、その意味ではイスラム教やヒンズー教とは異なる視点に立つと思われる。神道も基本的には食物の忌避という規定はほとんどない。おそらく、日本という土壌では食生活について忌避を規定するような余裕はなかったのかも知れない。食べられるものなら、何でも食べるというのが日本文化の根底にあるのかも知れない。(ただし、この段落については、素人の思いつきであり、専門家の指導を必要とする。)
イエスは汚れや浄めに関する伝統的な祭儀規定を笑い飛ばす。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」(18~19)。この言葉は強烈である。すべての文化の、すべての宗教の食物規定を破壊してしまう。食物規定だけではない。穢れとか浄めという価値観を否定してしまう。キリスト教における聖水とか聖品という価値観も例外ではない。この言葉の前では、宗教という営み自体が無意味化されてしまう。
先ず第1、イエスにとって「汚れ」とは心の中の問題であり、清さとは倫理性となる。第2に、食べ物は心の中に入るものではなく、「腹の中に」入り、心とは無関係に体を養い、役割が終われば体から排出される。人体から排出される汚物から魔術性が剥奪される。第3に、その意味において、すべての食べ物の忌避性は否定される。
このメッセージは、当時の社会において、そして同時に今日でも、非常に大きな福音であり、食における人間の自由の宣言であり、解放である。その経済効果も無視できない。
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