【多事蹴論103】加茂ジャパンは苦難の連続だった――。1994年10月の広島アジア大会で元ブラジル代表MFのパウロ・ロベルト・ファルカン監督が率いる日本代表はベスト8で敗退。ノルマだった4強入りを果たせず、退任となった。94年12月には横浜Fの加茂周監督に白羽の矢が立ち、フランスW杯出場を目指す日本代表を率いることになった。

 これまで日本サッカー協会の川淵三郎強化委員長(Jリーグチェアマン)は日本代表にプロ指導者の必要性を訴え、オランダ人のハンス・オフト監督、ファルカン監督を就任させた。外国人路線を方針転換したことについて「日本人に戻したのは選手とのコミュニケーションの問題から」としファルカン監督と選手の意思疎通がうまく図れなかったことを踏まえての決断だったという。

 その上「(93年に)Jリーグができ、日本にもプロの監督が誕生したから。それに加茂は天皇杯を取ったので代表監督をやる資格が十分にあると考えた。強化委員たちも『加茂監督で』ということで決めた」。また新政権誕生を機に川淵氏は退任。協会副会長の立場で日本代表をサポートすることになり、現役を退いた元日本代表DF加藤久が委員長の職に就いた。

 ただ加茂ジャパンは「ゾーンプレス」という前線から圧力をかけるスタイルを掲げるも、結果に結びつかなかった。川淵氏は「世間から批判が出ていたわけではないが、強化委員会から『加茂では世界に行けない』との意見が出ていた。ゾーンプレスにしてもオリジナルではないとか、戦術的な見解からで加藤から『監督を交代したい』との話が協会の幹部に上がってきた」。

 加茂監督と契約満了となる95年11月を前に名古屋のアーセン・ベンゲル監督や磐田のオフト監督に後任を打診するも固辞される中、V川崎のネルシーニョ監督に依頼することになり、協会内部で合意した。川淵氏は「長沼(健会長)さんがみんなの前で加茂に電話して『申し訳ない』と話していた。『これからどうするんだ?』と聞いたら加茂は横浜Fの監督に戻るということだった」。

 ところが、ネルシーニョ監督との交渉に入った段階で長沼会長が突然「加茂続投」と方針転換した。川淵氏は「会議をしてネルシーニョと決まった翌日に関西学院大のOB会に出て変わっちゃった。何でなのかはわからない…。どうなってんの?ってね。でも会長が決めたことだから」と困惑。その後、協会はネルシーニョとの交渉を一方的に打ち切った(詳報は連載第50回参照)。

 川淵氏は「加茂に電話を入れたら『会長が言うのであれば…』ということだった。記者会見が迫っていて、横浜Fにも加茂続投の了承を取った」という。最終決定を下した長沼会長は「加茂でフランス(W杯)に行けなかったらオレが辞める」と発言。ドタバタでフランスW杯出場を目指すことになった。 (敬称略)