【押井守】不遇の時代を迎えて気づいた「作家である必要はない」理由
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』が世界的に評価されるなど、日本を代表するアニメーション監督として知られる押井守。そんな彼が「ファイナルファンタジーシリーズ」のキャラクターデザインなどを手がけた天野喜孝とタッグを組んで生み出した、1985年発売のOVA『天使のたまご』が、4Kリマスター版となって全世界で公開される。 そこで今回は、押井氏自身が「不遇の時代」であったと形容する『天使のたまご』公開後のキャリアを中心にお話を伺った。 【関連画像】4Kリマスターされた『天使のたまご』の名場面をチェック! ――押井監督の作家性を前面に押し出した『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』がヒットしたあと、翌1985年にOVA『天使のたまご』が発売されました。まずは、この時期の心境について教えてください。 押井 当時はイケイケだったから何をやってもいいんだと思っていたけれど、『天使のたまご』(以下、『天たま』)は、見る側に準備がなかったところにいきなり出してしまったという不幸があったかな。静謐なファンタジーというか、派手なアクションシーンがあるわけでもないし、まずどう見たらいいのかわからなかったんだと思う。 ――商業的な側面が『天使のたまご』にはなかった、ということですか。 押井 そう。いま思うと『ビューティフル・ドリーマー』は「うる星やつら」から派生している映画だから、同じようなテーマを扱っていても見やすかったんですよ。最近でいえば『魔法少女まどか☆マギカ』みたいなもので、とんでもないことやっていても魔法少女というベースがあるから見ていられる。 ――確かに、事実として『天使のたまご』はいわゆるヒット作品とはなりませんでしたね。 押井 いまから思えば、少なくとも「人様のお金で作って、不特定多数に見てもらって回収する」という商業主義の世界でやることではなかった(笑)。 でも僕は全然後悔していない。やりたいことを全部成立させたし、いまの(アニメ業界の)状況では生み出せない、まさに希少種みたいな作品にはなったから。 ――『天使のたまご』以後、アニメ監督としてのオファーは減ったとご自身で振り返られています。 押井 覚悟はしていたけれど、これほどとは思わなかった。ものの見事に干されたからね。アニメ業界は狭い世界だから、余程のことがなければ監督には仕事があるはずなのに、本当に仕事が来なくなってしまった。 ――その空白の3年間は、どう過ごされていたのでしょう? 押井 山ほど企画書を書いた。月に何本かそれをまとめて持ち込んで、それ以外はひたすらゲームをしていた(笑)。 「手がちぎれるほどゲームをやっているのに、なぜこれで食えないのか」と思ったことが『アヴァロン』(2001年)の企画に発展したし、『立喰師列伝』もそのときの企画。のちの仕事のほとんどが、このときの企画書をベースにしている。 けっきょくのところ野心は満々だったし、挑戦的な企画ばかり持っていくものだから、「面白いけど、うちではちょっと……」で終わっちゃってね。いま思えば当たり前だよ、「こいつ反省してないじゃん」ってことなんだから。 ――そのころの企画のひとつに『ルパン三世』幻の劇場版第3作があったかと思います。どんな内容だったんですか。 押井 宮(崎駿)さんは多分『ルパン』自体が好きだったんだけど、自分でもう一回やる気はなかったから、後釜を探していたんだよ。それで僕が誘われて、徳間康快さんと話をして、「じゃあやりますか」とその場で企画がスタートした。企画をやっている間は、お金をもらって建築や核兵器、イスラエル関係の勉強もできたから、とにかく楽しかった。 旧約聖書のメタファーに満ちたお話なんだけど、これがなんでダメになったかと言えば、やっぱり懲りていなかったからだよ。『天たま』と同じことをやる気配が濃厚になったから、脚本が上がった時点で「これは無理です」と当然のごとく流れた。 実際、いざ久々に仕事やった仕事でも『天たま』と同じものが出来上がってしまったしね。