【無料記事】前原雄大の覚悟
【前原さんが死んじゃった】
2025年10月12日の夕方に前原雄大プロが亡くなった。
森山茂和日本プロ麻雀連盟会長からLINEが来て、それを知った。
私は「麻雀日本シリーズ」の生配信中で夏目坂スタジオにいたのだが、あまりのことに、つい口に出して「前原さん、死んじゃった」と言ってしまった。
スタッフたちが「え!?」と驚いたことで我に返った。
「申し訳ないが、こういうことの発表には段取りが大切なので、今のはまだ誰にも教えないでほしい」と伝えた。
皆「分かりました」とは言うが、口々に前原さんのことを話し始める。
それはそうだ。仕方がない。私がバカなのである。
会長からは「年を越せるかどうか分からないよ」と言われていたので、私はそれなりに心の準備はできていたつもりだったが、やはりショックだった。
が、それよりも先に考えなければならないことがあった。
翌日は月曜日で、萩原聖人さんが「Mリーグ」の解説をする日だった。
「今回も入場時の口上をやってほしい」と言われていて、その内容を一緒に考えてもらえないかと頼まれていたのである。
すでに半分ぐらいは原稿を萩原さんと日吉辰哉プロに送っていたのだが、訃報を発表するタイミングによっては、内容を変える必要があるかもしれない。
すぐにでも会長に発表のタイミングを相談したかったが、会長の気持ちを考えたら、そういう事務的な連絡をする気になれなかった。
とりあえずは、発表は火曜日以降のつもりで、普通にやろう。そうじゃなかったら、またやり直せば良い。
そう考えることにした。
【前原さんとの最後のLINE】
実は私は前原さんの病気がどんなものなのか知らなかった。
三田晋也プロから聞いたのは、立ち上がったり歩いたりすると、それだけで死亡してしまう可能性があったということである。
最後の1ヵ月は、その状態で対局をしていたというのだから、驚いた。
鳳凰戦の引退宣言の際に私が書いた原稿を送ったら、普通にLINEが帰ってきたし、達人戦では普通に勝っていた。予選は1位通過で、元気なら決勝も戦って、優勝するかもしれないと私は思っていた。
だが、会長と前原さんの間ではもう話が決まっていて、決勝は辞退する予定だったらしい。
「実際、卓上で死ぬ可能性があったので、肉親が必ず会場にいるようにしていたのです。いないと、スタッフを含め全員が警察の検証を受けなければならなかったもので」
私の記事を読んだ前原さんは「ありがとうございます!」とお礼を言ってくれて、その後このことを教えてくださった。
あの人は、本当に卓上で死んでもいいと思って戦っていたのだった。
「まだ、現時点では(達人戦に出場することの)医師の承諾をもらえていないのです。一度すべての対局から身を退くと、医師、看護師、ヘルパーさん達に伝えてしまったので」
前原さんは周囲に迷惑をかけたくないから、鳳凰戦だけでなく、完全に引退しようとしていたのである。
だが、会長がそれを許さなかった。
夏目坂スタジオの事務局で、会長と前原さんが引退について電話で話をしていたのが、三田には聞こえていた。
どうも前原さんが話の最後に「会長、これまで本当にありがとうございました」と言ったらしい。
会長は「お前、そうじゃないだろ。まだ終わりじゃないんだよお前は」そう言って「達人戦には出てもらうからな」と伝えたという。
小島武夫プロが引退してから、急激に心身ともに衰えていったことが、ずっと会長の心に残っていたのだろう。
「小島さんのためを思って、綺麗に引退してもらうよう段取りしたけど、麻雀打ちが麻雀をやめたら気力がなくなっちゃうのかな。前原にはそうなってほしくないから、達人戦だけは打ってもらおうと思って。少しでも長生きしてもらいたいし、あいつもできるだけ長く麻雀を打ってたいだろうから」
会長は私にはそう言っていた。
私が前原さんに「達人戦、本当に楽しみにしています。たくさんの人が待ってます」と送ったら「そこが会長の狙いなのでしょう(笑)。こちらはたまりません(笑)」と返ってきた。
「会長の愛情だと思います」
私がそう送ったら「会長には感謝しかありません。今回のことだけじゃなく、ずっと感謝しております」と前原さんは返信をくれた。
【人との縁】
引退の時のnoteには、私は「卓上で力尽きるなら尽きてくれ」と失礼かもしれないことを書いて、ご本人に送った。
それでも前原さんは「良い文章ですね!」とほめてくれた。
まだギリギリ20世紀だった頃、プロ連盟に入ったばかりの私にも、前原さんは「文章上手だね」と言ってくれた。
当時創刊された「ビクトリー麻雀」という雑誌に書いた原稿を読んでくれて「面白かった」とか「ここが良かった」とほめてくれた。
編集長の渡辺参郎さんには、私も可愛がってもらったが、前原さんはもっと可愛がってもらっていたと思う。
私にはよく「前原はねえ、あいつはバカなんです。バカでどうしようもないんです。でもそれが可愛いんです」と参郎さんは言っていた。
雑誌は数年で廃刊になってしまったが、前原さんはずっと参郎さんのことを気にかけていて、時々連絡をしていたらしい。参郎さんがガンを患って「黒木にあいてえなー」と言っているのを教えてくださった。コロナの時期だったので会いに行くことはできなかったが、20年ぶりに電話で話をすることができたのは、前原さんのおかげである。
参郎さんは私にとっても恩師で、最後に「元気にやってますか。おれのことを文章に書いてくれたっていうからさ、送ってくれよ。目がわりいから、おっきな字で印刷して、ファックスで送ってくれよ」と頼まれたのが嬉しかった。
前原さんは、そうやって人と人のつながりを大切にする人だった。
ロッキー堀江さんが亡くなった時も、悲しみにくれる奥さんを支えてあげていた。
かなり前にプロ連盟を辞めていった人だったが、つながりはずっと大切にしていたのだろう。
10年ぐらい前からだろうか。理事会で何かを発言すると、私のことを「若殿を見つめる爺やのような目つき」で見てくることが多くなった。私が何かを発言すると、目を細めて微笑んでいるのである。
理事会が終わると「本当にありがとう。連盟のことを考えてくれて、会長を支えてくれてありがとう」と言ってくるようになった。
私はそういう、ベタベタしたのは正直言うと苦手なのだが、前原さんは本気で私のことをねぎらってくれていたのだ。
私は私なりのつとめを果たしているだけなのだが、前原さんから見たら、自分たちの次の世代のプロ連盟を守ってくれる一員として、頼もしく思ってくれていたのだろう。
ただ、こと麻雀においては、前原さんの期待に応えることができなかった。
前原さんは、麻雀のことも褒めてくれた。
「あなたは能力があるけど、自分が周囲からどう思われているかが分かっていない。それが分かってきたら、もっと勝てるのに」と言われた。
勉強会などで、私の打牌を見て「それは違う」とストレートに指摘してくれたこともあった。
「ちゃんと勉強してちゃんと戦って、勝ってほしい。あなたが勝って打ち手としても大成してくれた方が連盟のためになる」と言っていた。
でも、前原さんが生きている間に、私は打ち手として何も残すことができなかった。
【会長との絆】
前原さんはプロ連盟が設立されてすぐに入ってきた新人時代、すぐに辞めようと思っていたらしい。
だが、森山さんに出会って、考えが変わったという。
麻雀の話をして、こういう人がいるなら、残ってやってみても良いと考え直したのである。
以来、ずっと森山さんとの絆は深く、長く続くものとなった。
若い頃からずっと、夜中に長電話をして麻雀の話をしてきたが、それは最近まで続いていたというから恐ろしい。
私がまだ20代だった頃、ある番組収録の後に居酒屋に入って、前原さんが「今日は本当に配牌が良かった」と言ったら、森山さんが「俺の方が良かったと思うよ」と返した。
前原さんが「いや、私の方が良かったと思います」と言うと「バカ、俺の方が良かったんだよ」と、なぜか森山さんがムキになってくる。
前原さんは多少、声を荒げて「かなり良かったんですよ、私の今日の配牌は」と主張し始めて、森山さんはおしぼりでテーブルを叩きながら「俺の方がいいっての!」と怒る。
私は傍らでゲラゲラ笑っていたが、2人は気にせず、ずっと配牌自慢合戦をやっていた。
前原さんは小島さんにも灘麻太郎プロにも、荒正義プロにも伊藤優孝プロにも可愛がられていた。
が、森山さんとの絆は特別だったと思う。
森山さんは時々「前原のバカが!」と怒っていることもあったが、一番、打ち手として頼りにしていたのは前原さんだった。
「プロ連盟はどこの団体と比較しても雀力では絶対に負けない」という強さの象徴が前原さんだった。何かあったら前原さんが出ていって強さを証明してきた。
数々のタイトルを獲得してきた前原さんが、麻雀のことで少しでも迷いがあったら相談する相手が森山さんだった。
自分の麻雀を最も理解し、客観的に見てアドバイスが可能なのは森山さんだけだと信じていた。
9月27日の「達人戦」の予選最終戦が前原さんの現役最後の対局となった。
予選は1位だったが、決勝には出られない。
自宅のベッドで麻雀を見るしかできない前原さんは、きっと「最強戦」で森山さんの試合を見ていただろう。
73歳になっても、元気よく「アトミックリーチ」を掛けて、中堅選手のカベとして立ちふさがっている姿を見て、笑いながら涙を流していたと思う。
私は記事に「卓上で力尽きる」話を書いたが、もしかしたら前原さんにとっては、こういう最期の方が幸せだったかもしれない。
卓上で死んだら迷惑がかかる。それよりも静かに、森山さんの雄姿を見て、色々なことを思い出しながら眠る方が、戦いの最中に果てるよりも良かったのかもしれない。
私なりに、勝手にそんなことを思った。
世間への発表は、月曜日は休日だったから火曜日以降にしようという話になった。
そしてどうせなら「Mリーグ」がお休みの水曜日が良いという結論になった。
これは森山会長による配慮であるが、前原さんもそういう配慮に、最期に感謝していると思う。
萩原さんと日吉には、前原さんが亡くなられたことと、発表が水曜日になることを伝えた。2人とも複雑な心境だったとは思うが、そうせざるを得なかった。訃報は聞かなかったことにして、精いっぱい視聴者にエンタメを楽しんでもらうために、プロに徹した。萩原さんの口上は、やっぱりカッコ良かったし、面白かった。
前原さん、これで良かったですよね。最後にまたほめてくれて、ありがとうと言ってくれていると、勝手に解釈しますからね。
前原さん、残念ながら私はあなたの強さのかけらも受け継ぐことができないポンコツ雀士ですが、プロ連盟のことを思う気持ちはしっかりと受け継ぎます。これからも、リーダーとなる人を支え、尽くすことを誓います。その点だけはご安心ください。
(了)
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