学術エアプネット論客が社会学の質的研究を全否定する理由:彼らの悲しき論文読解術
Twitterで叩かれる三大学問は文学、女性学、そして社会学である。ちょっと前の話になってしまうが、いつものように寝て起きてTwitterを見たら社会学が叩かれていた。正確には教育学だが、さておき、この世界では学術雑誌もうかうか論文の紹介が出来ないようだ。
【体育における「できて当然」という規範は、男子生徒の男性性のあり方をどのように形づくるのか?】本研究はこの問いに答えるために、体育嫌いを自認する大学生10名を対象にフォーカス・グループ・インタビューを行い、そのうち男性5名の語りを分析しました。従来の体育は運動能力や競技成績に基づい… pic.twitter.com/Jt80YR06Kp
— 教育探究ひろば (@tankyuhiroba) September 19, 2025
ところで、なぜTwitterに跋扈する学術エアプたちは、社会学、とりわけ質的研究の要素が大きな論文を叩くのだろうか。
結論から言えば、彼らに論文を読みこなす能力が全く欠如しており、そのために論文中のごく僅かな要素だけに注目して論文の信頼性を決めつけるほかないからだ。
今回の記事では、論文の断片をチラ見せすることが学術的議論だと思っている人々の内心を暴き、彼らの奇々怪々な言動の根源を明らかにすることを目的とする。とはいっても、何ら難しい話をするつもりはなく、ネットミームを借りれば「彼らは馬鹿だ、と書くだけでこの長さ?」になってしまうのだが。
ネット論客の悲しき論文読解術
前提として、ネット論客たちには論文をまともに読みこなす能力が欠如している。そんな能力があるならネット論客などやらなくていいからだ。自分は賢いという自意識とそうでない現実を埋めるため、彼らは自分にできる最大限の力を使って論文を読んだふりをする。その手法を暴いていこう。
参加者数しか手掛かりがない
論文読解において最も手っ取り早い方法は、論文の内容を全否定することである。論文は一般的に、妥当な部分と疑問のある部分で構成されており、全肯定できるものも全否定できるものもない。論文読解の重要な作業のひとつは、こうした混在から確からしいものと不確かなものを切り分けて整理することである。
が、もちろんネット論客にそんなことはできない。なので彼らは都合のいい論文は全肯定し、都合が悪ければ全否定するという戦略を取らざるを得ない。
しかし、ここで問題が起こる。論文が確かな部分と不確かな部分の混在である以上、不確かな部分を挙げたところで全否定はできない。「そこは問題点だね。でもここは確かだよね」と返され、彼らは相手の話の難しさにパニックを起こすだけになる。
そこで、彼らはひとつの解決策を編み出した。それが、参加者数に注目するということだ。つまり、調査の対象になった人数や実験に参加した人数を見て、少なければ信頼できないと全否定するという方法だ。
10人のうち5人から話を聞いた結果、「体育が単なる運動技能の習得の場ではなく、男子生徒の男性性を再生産する装置として作用していること」が示されるのすごい。
— rionaoki (@rionaoki) September 19, 2025
なんというか結論の複雑さとデータの量のコントラストに痺れる。 https://t.co/gqvMHZ4SPL
体育嫌いな10名大学生のうち5名の異性愛男性に聞いただけなのに結論が出てしまうの??体育嫌いな10名をどこからサンプリングしたのかも謎だけど、この「仮説」で体育カリキュラムにもの申すのはさすがに勇み足でしょ。 https://t.co/yzB6YXS0Lh
— 柴田英里 (@erishibata) September 20, 2025
一般に、参加者数は多いほど信頼性の高い研究だとされている。この戦略はそうしたイメージを利用したものだといえるだろう。秀逸なのは、数さえ見ればそれ以外のところを見ることなく全否定できる手軽さと、どの程度の人数がいれば妥当なのかを好き勝手に操作できる恣意性だ。この2つが揃えば、いくらでも素早く自分に都合がいい結論を導くことができ、しかもなんか学術を分かっている雰囲気も出せる。
残念ながら、実際には参加者数は研究の信頼性を決めるひとつの要因に過ぎない。確かに人数の少なさは一般化可能性の問題を引き起こすものの、人数が多ければ問題がないかと言えばそうでもない。
例えば、人数が多すぎると統計的仮説検定は僅かな差異を有意だと判断する傾向がある。これによって、実質的には意味のない差異を過大評価するということが起こりかねない。また、自分に都合のいい結果になるまでサンプルを増やし続けるといういわゆるn増しが起こっている可能性もある。理想的な手続きで研究するのであれば、事前登録によって参加者数をあらかじめ決めておくか、せめて検定力検定を用いて自分の研究の参加者数が妥当であることを示しておきたいところだ。
逆に、人数が少ない研究が無価値かといえばそうでもない。例えば、上に挙げた研究のような質的なものは仮説生成に大いに役立つ。ここから先は量的な調査を行うとしても、その仮説を考える際に研究者が頭の中でだけで考えるよりも、数人でもいいからインタビューをして人々の考えを明らかにしてからのほうが妥当な研究になりやすいことは想像できるだろう。
加えて、質的研究はそもそもの数が少ない属性の人々を扱うこともできる。珍しい難病の患者がどのような生活を送り何を考えているかなどを知りたいとして、100人200人集めるのは困難である。では、全く研究をしない、という態度でいいのだろうか。それよりは、一般化可能性に保留がつくとしても、少しでも明らかにして論文に残すほうが研究の発展に貢献するはずだ。今後、研究技術の発展により、そういう珍しい属性の人を扱う量的な調査ができるようになるかもしれない。そのとき、研究をしたいと考えた人の道標になるのは、こういった不十分かもしれないが確かに残っている論文の知見である。
まぁ、ネット論客がこういう小難しいことを理解できるはずがないのだが。ちなみに、記事の冒頭からここまで約2000字ある。Twitterの投稿すらまともに読めない彼らには絶望的な文字数だろう。
この記事は『九段新報+α』の連載記事です。メンバーシップに加入すると月300円で連載が全て読めます。
グラフがあればエビデンス
ここからは当該の論文から少し離れて、より一般的な彼らの戦略に触れていきたい。まず挙げるのは、グラフさえあればエビデンスとして扱ってしまう彼らの悲しき性だ。
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