ときどき、世界そのものが“ひとつの宇宙”みたいだなと思うことがあります。 どこまで行っても果てがなく、目に見えるものも、見えないものも、すべてが静かに連なっている。 それぞれの場所には独自の空気の流れや時間の速さがあって、そこに生きる人々の呼吸のリズムや、風の匂いさえも少しずつ違う。 それなのに、ある瞬間、不思議なことにまったく別の場所の出来事や感情が、ふっと胸の奥で響き合うことがあるんですよね。 まるで、離れた銀河のどこかで小さな光が一瞬だけ共鳴するように。 そんなとき、人と人とのあいだには見えない橋がかかっていて、宇宙の深いところで何かがそっとつながっている気がします。 そのつながりが、どんな仕組みで生まれているのか――それを考えるのが、なんだか楽しいんです。 ところで、英語には英語の世界があり、日本語には日本語の世界があります。 歴史的に言えば、両者に接点はないんです。 そこに点接点らしきものを何とかみつけ出し、 「employ=使用する」とやったのが辞書です。 でも、それは神様が決めたものではありません。 何年も、こうでもない、ああでもないとやってるうちに、 こうした方がよかろうとなっただけですよ(笑) オームの法則や万有引力の法則みたいなものとは違いますよ。 長年の経験に基づいた取り決めですから、多くの場合、 守った方がいい、便利というだけですよ。 なので「朕は国家なり」タイプの先生は怖いですよ。 ギロチンにかけてやってもいいぐらいですよ(笑) でも、イギリスと日本と別々の道とはいえ、人類共通の何かは あったんです。 だから『日葡辞書』も『和英語林集成』みたいな本も出来たんですよ。 そこで質問ですが、 言葉というものは、いったいどこまで世界を共有できるのでしょうか。 私たちは辞書という“通訳装置”を通して、異なる言語の世界を少しずつ覗き込もうとしますが、そこに見えているのは本当に同じ景色なのでしょうか。 もしかすると、「employ=使用する」と書かれたその一行の裏には、英語が育ってきた空気の匂いや、使う人の手触りのようなものが静かに隠れているのかもしれません。 言葉は単なる記号ではなく、それぞれの文化や思考が凝縮された“ひとつの宇宙”のようなもの。 その宇宙どうしが時々ふっと重なり合う瞬間に、私たちは「通じた」と感じるのではないでしょうか。 では、その“重なりの瞬間”とは、どんなときに生まれると思いますか? ๑๐/๑๕