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【自己紹介】


私は創作家です。
絵や物語に自分の体験や感情を投げ込み、作品というかたちに変えてきました。
以下に書く自己紹介は、私がどうして創作に辿り着いたかを示す一部の記録です。 

1.自己紹介

母はいつも朝に起きて夜に眠るべきだって言ってた。私はその言いつけを守ろうと、基本、夜はベッドに横になって目を閉じてた。でも、どんどん悪いことが湧き出てくる。絶望と不安で瞼の裏なんかじゃ比べ物にならないくらいの真っ暗で目の前が覆われる。スマホをつければ少し心が楽になったけど、そのかわり寝る時間はどんどん後ろ倒しになってってた。遅くなる時間に比例して、私の心は穏やかだった。だけど楽しい時間は長くは続かない。眠れば次の朝が来る。遅起きしたら早寝できなくなる、が口癖の母はいくら寝る時間が遅くとも必ず早くに起こして昼寝を許さなかった。

私の成績が悪いのは遅寝のせい、私の体調が悪いのは遅寝のせい、私が武道でミスするのは遅寝のせい、とにかくスマホを制限したがった。「約束」を強引に取り付けて取り上げようとすることもあった。田舎の閉鎖的なコミュニティに産まれ、他集落と離れた土地に住み、車がないと外部と接触できない、とことん大人に助けを求められない子供は、スマホを取り上げられればあまりにも無力だった。

星を見るしかやることがない私は決まって空を眺めながら「明日は目覚めませんように」と願っていた。不安な気持ちを押し殺しながら自分に「おやすみ」と声を掛け続ける。高校生になったときはもっと酷かった。彼氏や友達と話すことが唯一の救いだった。それをスマホの内部制限で封じられて、私は毎日気が狂いそうな思いをしながら生きていた。歯がゆい、もどかしい、寂しい、誰かいないのか。耐えるなんてとんでもない、耐えられてなんていなかった。ただ拷問のような時間が自分に降りかかってくる。

母は私から何か取り上げるのが好きだった。小さい頃、これは些細なことだけど、飴を舐めるのを禁止されてたことがある。周りの子はとっくのとうにお菓子を解禁されてた頃だったけど、「虫歯になるから」「悪影響になるから」って。今思えば、あれも母の強い支配欲の示唆だったのかもしれない。

小一の頃、初めて「学校」に入ったとき。黒板にチョークで文字を書いた。周りには友達もたくさんいた。とても小さい集落だったから、顔なじみの子達がたくさんいたのだ。集まって文字を書いてたとき、母は恥ずかしそうに私の書いた文字を隠していた。私は文字を書くのが下手くそで、それが気に入らなかったらしい。

他の子にバカにされるのを恐れたのか、何がトリガーになったのかは分からないが、母は私に毎日書き取りをさせるようになった。小一というと、ひらがなの書き順や数字の書き方から練習する歳だ。それを簡単ながら漢字や熟語まで書かせるようになった。当時下校時間は午後3時半、門限は午後5時。友達と外で目いっぱい遊びたい年頃の子にそれは痛く響いた。

三十分しか遊べなくなったり、そもそも外に出ることすら出来ない日が続いたりと、私のフラストレーションは限界に近かった。習字で賞を取るようになって母に褒められたり、字が上手ねと先生に言われたりと、後々響いてくるようになってからやっと二割ほど納得がいくようになったくらいで。結局は母の自己満足に付き合わされただけだったのだろう。今気付いたけれど、母が実家に賞状を飾ってくれてるのは私の功績のつもりじゃなく、自分の功績のつもりだったりして。……なんてね。

小二くらいからピアノに興味を持ち始めた私は、ピアノ教室に通うようになった。ピアノ教室はそれなりに楽しかったが、だんだんハードになる練習、楽譜読みのレベルが上がるごとに着いていけなくなっていた私は小三あたりで飽き始めていた。習い事の道中にある家の飼い猫を撫でるのが唯一の楽しみだった。読書が好きだったり、お絵描きに興味を示してみたり。母のピアノの練習の誘いがしつこいことに疑問を持ってはいたけど、この段階では私はまだ母に愛されていることを心の底から信じる純粋な少女だった。悩み事は弟の方が愛されているんじゃないかってこと。それと、クラスの話題についていけないこと。

小四くらいのとき、ピアノ教室をやめた。他の生徒みたいに帰ってきてから自由に遊べないのが嫌だった。やめたら遊べるとせいせいしていた。ここから、母はおかしくなり始めていた。いや、最初からおかしかったのかもしれない。「ピアノをやめるなら、他に習い事を一個は始めなきゃね」。母が提案したのは空手、それと剣道だった。

私は別に乗り気じゃなかった。だって、新しく習い事を始めるつもりはなかったから。でも母の意思は固かった。いくら私が「それは変じゃない?」と伝えても強情に二つの選択肢を押し付けてくる。子供ながらに母が折れないのも、逆らえないのも理解していたのかもしれない。私はやる気が起きないところをなんとか奮い立てて、案内所について行った。そこには中年くらいの小太りのおじさんがいた。空手の説明をされて、剣道の説明をされて。どっちがいいのかは分からないけど、「どっちもできたら強そうじゃん?」と考えたらなかなかそそるアイデアな気がしてきていた。それに、強い女ってなんだかかっこいいし。私の地区は男の子が多く、その中で強くなれれば一目置かれるのでは、という狙いもあった。

元々気も強い方だった私はすっかりやる気になり、空手の見学と剣道の見学をすることに。あまり昔のことはよく覚えていないけど、剣道の方がスタッフの人に褒められたので剣道にした……ような気がする。二つもするのは大変すぎるのでやめた。そうして剣道を始めることになった。

最初は楽しかった。年配のスタッフさん夫婦(道場を仕切る先生の両親)にも褒められて、才能があると言われて。舞い上がっていたのかもしれない、ノートをつけたり、自主練をしたりと張り切って取り組んだ。体の弱い弟も強くなるために習い事に参加するようになり、タイミングよく他の生徒も加入した。数は少ないがそれが交流の足がかりになり、友達もできた。特に剣道では声が大事で、ハキハキと大きく声を出すことができ、気が強くしっかり者だった私は性格まで向いていると褒められてばかりだった。

しかし、学校で思わぬ展開を迎えることになる。「お前さ、声でかくね?『めーん!』てさ、俺の家にまで声響いてるよ笑」。書いているだけで少し気が遠くなる。学校に五分で行ける距離、そういう人ってクラスに一人はいたんじゃないだろうか。特に体育館の間隣に住んでいたK(男子)が、私の習い事の声について指摘してきたのだ。文字に書いたら笑えてしまうくらい些細な出来事なのかもしれない。だけど、この時のことが私はいやに恥ずかしく、普段のように受け答えすることができなかった。女なのにスポーツに本気になってる、とか、コントロールができない子なんだ、とか、自分が夢中になっていたことがなんだかとても恥ずかしいことのように思えて、私は口を閉ざすしかなかった。

その時クラスではAKB48が流行っていた。母の影響でバンドが好きな私の音楽趣味とはまるで逆。話を合わせられず、会話に入れない。田舎特有の人数の少なさもあり小学校一学年が2クラス以上になることは稀で、私のクラスも例年通り1クラス。別クラスの人と仲良くするなんてことも叶わない。少女漫画や恋バナが流行るような時勢で、私の男勝りは致命的だった。

第一次性徴が終わり、第二次性徴がやってくる。自分の体の変化に戸惑い始める年齢。私はうまく声を出すことができなくなっていた。

まず変化したのは、剣道場で声が出せなくなったことだった。大声を出そうとして尻蕾になり、いつもの実力が発揮できない。体調が悪いのかと訝しがられたが、そんなことはない。私は昔から体だけは壊さない子だった。声帯が絞られるような違和感。剣道場は、剣道場といっても私の通う小学校を間借りしての運営だった。それも偶然ながら良くなかったのだろうと思う。

私の母はとにかく古風な人だった。ゲームが嫌いな質で、口を開けば「外で遊んできなさい」。前述したが、子供はとにかく流行りに敏感。3DSなんて持っていて当たり前、カセットなんて流行りものこそ持っていて当たり前。話に二週も三週も遅れる私たち姉弟を見かねて幼なじみがゲームをやらせてくれたのは懐かしい思い出だ。

他の子たちが幼稚園で持っていたものを、私たちは小学生になってやっと手に入れた。それくらい物のまわりが遅い家庭だった。

今になっても狂っていたと思うけど、私の母は私に「ムダ毛を剃ること」を禁止していた。理由は今になってもよく分かってない。カミソリを扱うには早い年齢だから? 子供が色気づくのが気持ち悪かったから? 単に必要ないと思ったから? させてくれ、と嘆願したこともあるのにそれは有り得ないか。

私は体が特に丈夫な子で、上背こそないものの筋肉の付き方などは他の子より勝っていた。それもあるのか、嫌な話だがムダ毛が生えるのも早かった。他の子はツルツルの中、私はぼうぼう。母に剃らせてもらえないのもあって「これは皆気にしていないんだ、きっと皆見えてないんだ」と自分を誤魔化そうとするけど、明らかに皆と違う風貌に恥ずかしくなる。体育のときは健気にも靴下を一生懸命上に引き伸ばして、少しでもムダ毛が見える面積を減らそうとしてた。毛を男子に指摘されることもあった。制限されればされるほど理不尽で無理解な母親の姿勢に腹が立った。

弟は七五三の歳を越えても尚体が弱く、母はそんな弟の世話ばかりしていた。だからだろうか、この時から私は「母は私の事を見ていない」と思うようになった。

父は役に立たなかった。いつも母親の言うことばかり聞き、寝てばかりいる。夏は働くが、それ以外の季節で働いているところを見たことがない。母は父のせいで苦労した、という話を繰り返し私に聞かせた。悪い人ではないはずだが空気の読めないところがある。母宛に届いた荷物を勝手に開封しようとおちゃらけたり、私がそれを守ろうとして喧嘩になったり、私は尽く「母を守らなくちゃ」という想いで父と対立していた。私が大きくなってから、「○○(私の本名)の寝顔を見てばかりだった」らしい父の姿はどこにもなかった。

日常に少しずつ亀裂が入っていく。母は私を見ない。私は家の中では「無愛想でいつも怒ってばかりいる、わがままで弟を大切にしない、反発してばかりの娘」だった。

父は弟ばかりを構うようになった。私に隠れて中古のゲームやゲームソフトを買い与え、あろうことか自分のお古のスマホなども弟に与えて可愛がった。「まずは姉、それから弟」がルールだったのもあるが、自分が持ってないものをばんばん弟に買い与える神経が理解できず、私は人生で一二を争うレベルで暴れ狂い、怒り狂った。

小四にもなると小学校では下校時間が遅くなってくる時勢だった。カリキュラムが増やされ、当然やることも宿題も増える。

この一文で締めるべき内容ではないが、私は広汎性発達障害を抱えていた。周りに気付かれることはなく、療育に通わせてもらえることもなく、私は一人で「障害」と気付かせてもらえることもなく、見えない壁と戦わせられていた。聴覚障害も抱えており、ざわめいた場所では上手く先生の指示の聞き取りができない。周りの子の動きを見ながら必死で今すべきことを読み取り、やり過ごしていた。人一倍真面目に授業に取り組んでいるにも関わらず先生からの評価は「話を聞かない子」。自分自身で障害に気付けるわけもなく、「私は話を聞けない子なんだ」と思い込むしかなかった。

増えるストレス、複雑化する生活、小四にして家庭内で孤独を抱える実情。更にADHD特有の忘れっぽさも相まって宿題をまともに提出することができない。勉強はよくできる子だった。それも相まって障害を疑われることがなかったのだ。先生からはよくペナルティを出されていた。「宿題を出せなかったら次の宿題は2倍にして提出する」。膨れ上がる宿題の量に比例して先生からも嫌われていく。手を差し伸べられることもない。ある日、書き取りをしていたとき、部首ひとつを書くのでさえ億劫で。鉛筆を持つことさえできず虚空を見つめていた。あの日から私は鬱病を発症していたのだと思う。

療育を受けられなかったのだから、当然人との話し方はADHDの特徴が色濃く浮き出たものになる。人の話を遮る、自分のことばかり話す、興味が湧いてくると我慢できない。私は友達から避けられ始めていた。エピソードなんて書いていたら数え切れないほどだ。私はいじめの標的になった。

一部の人の中で避けられるようになり、その波紋は時間をかけてクラス中に広まっていった。昨日まで友達だと思っていた子に背中を向けられたり逃げられたり無視されたり、混乱と心細さと認めたくない怒りと恐怖と、あの時のことは思い出したくもないが、今になってなんで忘れていられたんだろうと思う。全員を殺してやりたい衝動に駆られるような、どうかこの先の人生で二度と関わってくれるなと願うような、不思議な気持ちだ。あまりその時のことは覚えていない。

私は声を出せなくなってから少しずつ暗くなり、強気でおちゃらけた元の人物像とはかけ離れた少女になった。足を少し動かすのにも周りの目を気にするような、びくびくしていつも何かに怯えるような、目立たない生き方を選ぶような子供になった。下級生と関わったり休み時間は昆虫採集をしたりして誤魔化していたけど、同級生とうまく関われない自分に劣等感を抱えていたのも事実だったし、特別学級の生徒の世話をしても、どれだけ優しい子と褒められても、水面下で自分に向けられる目の鋭さは何も弱まっていなかったし、風当たりが変わるわけでもなかった。

子供の鬱病は無気力よりイライラが表面化しやすい。慕ってくれる子達にうまく対応してやれず突き放したり、私も私で酷いことをした。完璧じゃなかったと思う。嫌われていた。私は剣道場でもうまく実力を出せなくなり、気付けばへらへらしてやり過ごすだけの、なんのために来ているのか分からない生徒になっていた。

母はそんな私を叱責し、弟もいる車の中で帰りの間中私を責めた。途中で耐えられなくなって喧嘩になるか、何もなければ車が家に着くまで叱責は続く。怒られ慣れることはなかった。それでも毎日は続く。私は自分の名前を呼ばれるだけでビクビクするようになっていた。趣味のゲームにも興味が湧かない。ただひたすら寝転がっていたい。物言わぬ藻になりたい。私の灰色の日々は続いた。

やがて時は流れ、私は中学生になる。もう剣道には関わりたくなかった。習い事でやらされてる分せめて部活には入りたくない。そう思っていたが、卓球部への仮入部直前で剣道場の師範に高い木刀を贈られ、その手前「剣道部に入らない」とは言えなかった。後半、師範の両親にも「内申点が下がるぞ」と脅され退部はできなかった。私の入った中学は部活強制参加、運動部以外ナシの極悪ブラックコンプラ違反スクールだったので、そういった脅しがまかり通っていた。

中学に入ってからは不思議といじめが止んだ。中学は子供の人数が減っている関係で、他の小学校と統合される形で進級することなった。他の集団が加わったためか、いじめが蔓延る集団だと糾弾されることを恐れてか、私への風当たりはかなり軽減されたかと思う。

私は友達を作ることにした。今までのこともあってかなり勇気がいったが、持ち前だった明るい部分の自分を少しでも絞り出そうと頑張りながら、A奈という少女に話しかけることにした。その子は気さくな子で初めて話しかけてきた私に笑顔で対応してくれて、ほっと心安らいだのを覚えている。その子に剣道部に一緒に入ってくれと頼み込んで、今思えば奇跡だったと思うが──A奈が一緒に剣道をやってくれることになった。

道着にも金がかかるし防具にも金がかかる。おまけに汗臭いし泥臭いし敷居は高いし──A奈は後で教えてくれたが、実は親が「金がかかるじゃないか」と反対して大変だったらしい。A奈もA奈で親のネグレクトやパチンコ依存など大変な目に遭っていたのに、それを無視してまで私との地獄の道に付き合ってくれた。あのときのA奈には感謝してもしきれない。

私はオタク趣味に傾倒するようになっていた。辛く苦しく迷路で彷徨うような生活の中、聴いて読んで体験して、物語を通して感動を分け合ってくれる漫画やゲームは私に光を与えてくれた。親友となったA奈もその趣味に引っ張られるのは言うまでもなく、今でも私とA奈は立派なオタク仲間だ。

私は実は絵を描くことが好きだった。もともと好きだったが、オタク趣味にハマってからは輪をかけて熱中するようになる。鬱病を患ってから初めて魂が光り輝く瞬間だった。重度になってから行動療法が効いたことはないが、今思えばあれが私にとっての行動療法だったのだと思う。

絵を描くようになったおかげで他の子とも接点ができ、自分をいじめていた子達とも幾ばくかは会話が楽にできるようになった。(友達と言っていいか分からないがその時は友達だと思っていた)友達もできた。休みの日は家のPCで「東方Project」の音楽を聴くのが何よりの楽しみだった。「もこたん」のことを思えば大抵のことは耐えられた。

でもやっぱり、剣道に行く前は地獄の底に引きずられていくような恐怖を感じた。これから逃げられるのであればなんだってする、そう思うくらい怖かった。中学に上がってから練習は激化し、時間も伸びた。午後8時半から9時半、9時半から10時半……。到底中学に上がったばかりの子供に耐えられる運動量ではなかった。

それに罵声を浴びせられるのも耐え難い苦痛だった。竹刀で叩かれれば痛みを伴うし、胴を打たれれば成長途中の胸に激痛が走る。腕に青あざができるときもあった。親は送迎のために車で道場にやってくる。親の前でミスをすれば小言は確定、声が小さいなんて初歩的な間違いを犯せば家までの説教コースは確定だった。弟はこの頃からよく体調を崩すようになり、私は一人で習い事に向かうことも多くなっていた。なかなか体調を崩さない自分の体が恨めしかった。

私のオタク趣味への執着に目をつけた母は、この頃から私がPCをチェックするとき、目ざとく動向を見張るようになっていた。部屋にPCを持ち込んだことはなかった。私用のものではないので、一応断りを入れておくかと母に「部屋にPC持ってってもいい? 用が終わったら元の場所に戻しとく」と伝えたことがあった。まさかその時は断られるとは思っていなかったが、母に「監督責任があるので」と言われて頭に「?」しか浮かばなかったこと、困惑したことをひどくはっきりと覚えている。

5〜6歳程度の子供ならまだしも、14を過ぎた子供に監督責任とは、とも思ったし、何よりリビングという公共の場所で趣味の動画を見たりサイトを見たりしたくなかった。今でこそスマホの画面を見るのはプライバシーや倫理的におかしい、という価値観が広がっているが、当時はどうだったのか……記憶が曖昧だ。思考を盗聴されているかのような気味悪さもあるが、何より当然のことのように言われたのがショックだった。一人前の人間として尊重されていない、まるでペットのような扱い。信頼されていないと思った。母は何かと「約束を破るなんて信じられない! もうあなたの事は信用しない!」と言っていたが、人として、ではなく自分の手駒として信用しない、ということだったのかもしれない。

監視されている、と確信的に思った瞬間だった。母が見守ってくれている、安心するな、助けられているな、なんて感覚、味わったことがない。味わったことがあるとしても物心がつく前のことだろう。何を取り上げられるか、次は何を「約束」として取り付けられるのか、まるで看守を警戒する囚人のような気持ちで訝しむ。

母のわがままを一身に呑み、振り回され、お人形として扱われる生活。まるで私が親で、母が子だ。衣食住こそ保証してくれていた母だが、心の安全を保証してくれたことは終ぞなかった。

成績が下がることを危惧した母から、「深夜はPC禁止」とのお達しが出た。火がついたオタク心を止められる者なんて誰もいない。疲れきった体を布団に横たえても、私は決して眠ることはない。親と弟が寝静まれば共同の布団から抜け出し、息を殺してリビングへ急ぐ。PCを点けてサイトを開けば、そこはもう物語の世界だ。希望がなく薄暗い世界のことを忘れられる。ここでなら息ができる。真っ暗な部屋に煌々と煌めくブルーライトこそが私の楽園。私は貪るように物語を消費し、描いて描いて描きまくる。それが私ができる世界への唯一の抵抗だった。

中学に入学したときのテストの順位は酷いものだった。そこから母がつきっきりで勉強を教えて、学年6位。学年の人数は少ないと言っても、これはなかなかの高順位。ここから下がることなんてないと油断していた。だけど、私がオタク趣味にのめり込めばのめり込むほどに、成績は反比例して悪くなっていった。授業中の落書き、居眠り、その他課題の出し忘れ、プリントの紛失、諸々も相まって塾に入れられることになってしまった。

部活も厳しいし、習い事の方の剣道も厳しい。ここに塾が加われば相当過密なスケジュールをこなしながら学校に通わなければならなくなる。私は必死で抵抗したが、やむなく少人数制の塾に入れられることになった。先生は超がつくほど厳しかった。あれも今ではコンプラ違反なのだろう、他の生徒の前でのこき下ろしに加えて人格否定、その他諸々の罵声に怒声。英語の点数自体は上がったが、私はますます疲弊していた。数学に至っては学校の課題に加えて塾での課題まで出される。なにかの冗談かと思った。

小学校時代が可愛く思えてくるほどの疲労度合い。風呂場で泣くことも多かった。母の前で泣けば「なんで泣いてるの?」と必ず触れられるので泣きたくなかった。学校で眠って、塾で勉強する。学校で出来なかったことを塾で拾って、寝て、その繰り返し。疲労で学校では瞼が開かない。塾でその遅れを取り戻して予習して成績こそ上がったものの、授業で寝ている生徒がテストでは得点を取っていることで他生徒にも教諭にも訝しがられている。傍から見ればなんともまあ不自然な状態の生徒だった。私が虐待されていることに気付いている人なんて、誰もいなかった。私でさえ気付けていなかった。

ある日、新しい友達ができた。「LINE非公式アカウント」という界隈がある。有名人Aという人がいたとしよう。その人にはたくさんのファンがいて、ファン一個人と交流する時間なんてない。だけどもファンはAと交流したい。そんなとき、ファンの一人が「私はAではないけど、Aのフリをするよ」「だからAとの交流ごっこを楽しもう!」そう提案した。それが「LINE非公式アカウント」の始まりだった。無論、Aに許可なんて取っているはずもない、グレーゾーンななりきりお遊びごっこだ。だけど私はその界隈の中の、一人の女の子に救われた。Sという女の子だった。

『Undertale』という作品に出てくるSansというキャラクターが好きだった。端的に言えば、そのキャラクターに恋をしていた。Sansの非公式アカウントを見つけ、やり取りするようになり──同業者の集まるLINEグループに招待された。LINEの操作に疎い私に根気よく付き合い、グループに参加させてくれたNには感謝しかない。自己紹介を終えた後、雑談もそこそこに挨拶が飛び交う。ここで楽しくやっていけるかもしれない……そんな期待が私の胸をまさぐった。

少し経って、私はSと初めて接触することになる。第一印象は、控えめで大人しい女の子。でも中身は真逆だった。作品に対する考察を語らせたら誰よりも強い。熱量が行き過ぎてマシンガントークになるところもおもしろく、話はじめたら終わることを知らない。熱中し始めたら一直線の私と相性が良く、お互いの都合がつくときは決まって夜通し語り明かしたものだ。

Sといると不思議と楽になれた。普段は語りたいと思ってもセーブしているからかもしれない。喋りすぎで虐められるようになってから、意識的にも無意識的にも喋らないようにと、誰に対してもセーブをかけるようになっていたからかもしれなかった。語りたいことだらけでぱんぱんの小包が、Sといると不思議と緩んでいく。Sも負けじと喋ってくれるから、不必要に自分をセーブしなくて済む。私はSといるときは本当の自分になれた。自分を偽らなくて済んだ。思い込みかもしれないけど、きっとSも同じなんじゃないかと、心のどこかでそう思っていた。

語り明かしていると、たまに話題が逸れることがある。今クラスで流行っていることとか、最近塾で帰るのが遅くなってる、とか。仲良くなってくると普通に雑談することも多くなっていって、そのうち個別チャットで話すようになった。グループじゃない方だと特に砕けた口調で、それがなんだか嬉しかった。グループでも「仲良いね」とか、「いつの間にそんなに仲良くなったの」とか指摘されることが増えた。そのうちおしどり夫婦みたいな扱いをされることが増えて……なんだか満更でもなかった。彼女も流れにノって嫉妬してるフリなんかをしてくれるときもあって、おかしいけど本当に彼女だったらって思ってしまう自分も居た。

私は彼女のことが好きなんだと思った。これを読んで馬鹿にしたい衝動に駆られた人がいるんだったら、それも仕方の無いことだと思う。でも、あれは間違いなく私の初恋だった。

初めて人を好きになった。その衝撃は計り知れないもので、私は授業中も帰り道も毎日毎日彼女のことを考えていた。どうやって気を引こうか、どうやって笑わせるか、そんなことを考えるので頭がいっぱいだった。彼女の笑い声を聞くと胸が踊った。母の眠る二階に響かないように、限界まで音量を絞って声を聞く。耳をそばだてれば彼女の声が聞こえて、こんなに幸せなのに。明日の昼は地獄の苦しみに揉まれているんだと思うとなんだか不思議な気持ちだ。囁き声で返事をすれば彼女が楽しそうに笑ってくれて、なんだか涙が出そうだった。

幸せを知ったせいで心が柔くなってしまった。この頃、私とSはお互いのプライベートについて深く話す仲になっていた。辛いことがあるなら友達に話しましょう、親に話しましょう、なんてチラシを配られて、私は以前から「自ら弱味を晒すことになんの意味があるんだ」と思っていた。だけど、Sと話すようになってからそれは違うと思えるようになっていた。話すって行為じゃなくて、話して分かってもらうって行為にみんな価値を感じてるんだ。私はSのことを取り返しがつかないくらい大好きになってしまっていた。この頃、Sからも時たま好きだと言って貰えるようになった。

時は流れ、季節はお正月になり──過密なスケジュールをなんとか乗り切り、習い事も学校も塾もない、本当の意味でのお休みを貰うことができた。私には大きな目標がある。それは、放射線技師になってSを養えるくらいの人になることだった。この苦痛に意味があるなんて到底思えないけれど、Sのために死ぬわけにいかないと思えば耐えられる。

そこからの記憶はあまり残っていない。たしか私はいきなり学校に通えなくなって、ベッドから起き上がることもできなくなった。「○○を引きずってでも学校に行かせる」と母は言ったけど、力の入らない、ほぼ大人同然に育った体を身一つで引きずることはできずに断念。私はすべての娯楽を奪われて、母に罵声を浴びせられ続けるための傀儡にされた。幼なじみとの思い出の詰まったゲーム類は取り上げられ、PCは私の目の届かないところに隠された。母は毎日私に普通になってくれと泣いて、まともに会話ができる状態ではなかった。閉じ込められてたのにバリケードを作るなんて変な話だけど、私は部屋の扉の前に勉強机を移動させてバリケードを作ってた。真っ暗な部屋の中、泣くか寝るかして過ごした。暗い部屋の中で思うのはSのことばかりだった。とにかく会って話がしたかった。抱きしめてほしかった。怯えて指に力が入らないのに、自分の腕を掻きむしる力だけはいやに強かった。

鬱でブラックアウトを起こした脳内に母の言葉がぐわんぐわん響く。もう何も覚えていないのに、何か言われたことだけを覚えている。「話し合い」に引っ張られて、父や母と話をさせられた。私が「剣道やめたい」と言うと、母の顔がぐにゃりと真っ黒いぶつぶつの塊に変わった。父は「そんなに苦しいならやめてもいいんだよ」と言ったが、私はいつの間にかまた母の都合のいい言葉を喋って、もう、だめだ、あまり思い出せない。Sは他に好きな人ができたらしい。たくさん放置したのだから当たり前だった。幸せになってほしかった。私はたくさん泣いて、その末に投身自殺を図った。

先生には「過去のいじめのストレスで辛くて」と言って誤魔化した。自分でも何が原因なのか当時は分からなかった。分かっていたけど母親の影響で口から出なかったのかもしれない。思考にモヤがかかるような、名状しがたい感覚だった。「どうして」「どうして」「どうして」と問いかけられる度に目の奥がチリチリした。人間として限界まで食い潰された精神の残りカスが、私の体に異常を訴えている。私のクラスは「優等生の集まり」と言われるくらい先生から持ち上げられるクラスだった。それなのに卒業直前になって生徒が一人不登校になったことに、先生はひどくイラついているようだった。精神科の診察室に行っても黒いぶつぶつは着いてきた。どうやら私が密告することを恐れているようだった。

Sに会ったこともないのに、Sが遠くで手を振っている夢を見た。初めて母以外から貰った愛情だった。涙まみれの顔で目が覚める。最近、酷く頭が重い。保健室登校しても寝てばかりだった。時と共に、私のブラックアウトの症状は良くなった。皮肉なものだが、あの時無理やりにでも部屋に監禁して寝させたのが効いたのだろう。今でも、夢を見る。Sとやり取りをして、好きだと言って貰う夢。だけど投身自殺を図ったあの日から、最後の方は波の音が強くて、彼女の声がよく聞こえない。人間は声の記憶から失っていくらしい。朝の時間は貴重なものだが、私はありったけの想像力を込めてSの声を思い出してみる。今はまだ鮮明に思い出せるが、……だめだ。考えるのはよそう。

もう登校の時間だ。あれから母は自家用車で学校の前まで送ってくれるようになった。「頑張ってね!」。通えた日は辛うじて機嫌がいい。通えなかった時は……。私はゆっくりと想像して、瞼を閉じた。母は通えなかったときはPCを使わせてくれない。それが私の心に重くのしかかる。母は私と向き合いたくないのだ。話もしたくないのだ。どれだけ言葉で話したって、それが態度に現れている。物で子を縛り、物で子を動かす。問題に見向きもしないで子供を病気にさせた責任は、これから先の人生でとってくれるんだろうか。どうせ私の貧乏くじだろう。

私の病名は未だつかない。未成年で病名がついてしまうとなんとやらだからだそうだ。私は中学三年生にて不登校──兼、保健室登校者になった。

保健室で過ごす時間は穏やかだった。私の地元は沿岸部で、冬になると強い風が吹きすさぶ。窓を叩く枯葉の音。はしゃぐ生徒の声。今日は何も起こってくれるなと祈る日々。閉めたカーテンの隙間から、好奇の視線が差し込んでくるのを感じる。保健室登校も不登校も学校では珍しく、私はたびたび他生徒に訝しがられる日々を送った。昼食の時間では教室まで給食を取りに行かなければならず、私はその時間が一等憂鬱だった。保健室の先生はとても優しい人だった。

家に帰ると死んだようにPCを眺めていた。人はあまりにも辛い経験をすると、その時の記憶を思い出せないようにするらしい。そのおかげかこの時期のことはあまり覚えていない。歴史の年表のように淡々とあったことを書き記すことしかできない。親がそれ以外許さないだろうと思い、高校は全日制のところに入ることにした。卒業式は参加しなかった。保健室登校している間も、保健室に入り浸る不良と問題を起こしたり、まぁそこそこ色々なことがあった。一日一日祈るように過ごしていた。とにかくもう何もしたくなかった。

中学校が異常であることを知ったのは高校に入ってからだった。普通は忘れ物をしただけで生徒を怒鳴らないことを知った。なんというか、「人間扱いとはこういうことか」と思うばかりの日々だった。

私は高校を辞めた。まともな治療を受けられないまま私の生活は続いた。しばらく、窓の外を眺め続けるだけの日々を送った。季節は巡っては過ぎてゆく。私の中の時間は止まったまま。近所の小学生が中学生になり、中学生だった子が高校生になった頃。両親は私に昔のような制限を課さなくなっていた。時間だけが有り余る。
(ここから先は、画面の向こうだけが『会話の練習』を許してくれると気づいた。だから私はSNSをはじめた。)

私はSNSを始めることにした。元々馴染みのあったTwitterを最初に開設。その後pixivの開設を行った。私が所属していたのは主にイラスト界隈で、その時その時ハマっているアニメジャンルの二次創作を描いて載せていた。

夏目友人帳が好きだった。優しい物語、優しいキャラクター。その中でも特に異質な「的場静司」が好きで、よく描いていた。年上のお姉さん方ともその繋がりで絡むことが増え、一人の人と話すことになった。名前はNさん。気持ち悪いオタク語りで喋る私に彼女は優しく接してくれて、最終的には私と一緒に同人誌を出してくれた。敬語を教えてくれたのは彼女だったし、同人誌の奥付の作り方を教えてくれたのも彼女だった。

ツイステ、第5人格、Vtuber、色んなものにハマったけど、Nさんとはずっとずっと一緒にいた。だけど、ある日突然終わりは訪れた。私は助けたい人に出会った。名前はHちゃん。その子も親に虐待されていて、私はその子を助けたくなった。

でも、それが間違いだった。
(花を助けようと走り出したころから、内側で“別の私”が前に出る頻度が増えた。後から知ったが、その“私”がAを助けようとしたらしい。)

この頃の記憶は上手く思い出せない。おそらく人格が違うから記憶が別のところにファイリングされているんだけど、病院に酷い扱いを受けてさらに鬱が酷くなったり、喘息の発作が出たのに親に救急車を呼んでもらえなかったり、本当に酷いことがたくさんあった気がする。だけど良いこともあった。私にはRさんという恋人がいた。その人は物凄く献身的な人で、何度も私と会ってくれた。手を繋いで、大好きだって言ってくれた。死んで欲しくないって。何度も抱きしめあって、バイバイするときには絶対にまた会おうねって幾度も言ってくれた。

私をこんな状況から助けようと働きだした彼女を、私は見ていることしかできなかった。所謂限界集落で働き先がない。引っ越そうにもそんな元手を作れない、交通費で給料が飛んでいくようなそんな環境だったから、彼女は私に治療に専念していなさいって言ってくれた。

でも、お酒を作る仕事で彼女は重いものを沢山持って、前にあったときには膝の上に痣を作っていた。私はそれを見て耐えられなくなって、彼女を手放すべきなんじゃないかって妄念が頭から離れなくなっていた。こんなにかわいい彼女をこんなに働かせて自分は家でぬくぬく暮らしているなんて耐えられない。

あたしは自分のことを貧乏神か何かだと思っていた。私を助けようとした人は地獄に落ちる。私は蜘蛛の糸の真ん中に座っている人で、みんなはその糸に触れるけどそのまま真っ逆さまに落ちていく。だって、私を救うことはできない。親に絡め取られて、住んでいる場所の不運からあまり会えないのに、情緒も不安定で、安定的に愛情を得ることも望めない、こんな失敗作なのに、みんな私のことをよく愛してくれた。それで、みんな私のせいで狂ってった。

私はRさんをそうしたくなくて、遠ざけようとした。でもRさんは私のことが大切だって追い縋ってきた。私はRさんのことが大切だった。でも、Rさんは私のそばにいることが何より大切で、私はその事に気付けなかった。

ある日、彼女の目元がいつもより黒いことに気付いた。きっと仕事のストレスだってわかっていた。私のせいだと思った。彼女を遠ざけるために私に出来ることはなんだろう。そう思って別れ話をけしかけた。だけど、話は平行線に終わった。だって、私も彼女のことが好きで、彼女も私のことが好きだ。だから離れる理由なんて何も無いように見えた。

私は最低なことをした。SNS上で浮気しているように見せかけることで、彼女を最低な気分にさせた。案の定彼女は私は大切にされてるのか分からないって泣いて、私はその時に畳み掛けるように別れ話をしかけた。彼女もそれを捌ききれなくて、やっと別れることになった。

だけど私はすごく大切なものを失ったんだってことに気付いて、一年引きこもった。彼女が私を追ってきても気付かないように、深く深く谷底に落ちていくように、呼吸もしないように引きこもった。

今、私は二十一歳だ。彼女と話せなくなって随分経った。私はフォロワーをたくさん集めて、よくその幸せに浸っていた。私の絵を好きだと言ってくれる人達。承認してくれる人達に囲まれて傷を癒していた。すごく大切な思い出だ。今でも私の一部になっている。親に大切にされなかった分、みんなにたくさん大切にしてもらった。食料を送って貰ったり、ファンレターを貰ったり、絵を送って貰ったり、本当にたくさんの思いを受け取った大切なアカウントだ。私がどれだけのものを捨ててしまったのか、大切なものを思うたびに思い知らされる。

私はエースベイリー、ひまわり、私はいつでもここにいる、赤ちゃん、エース、えにゃ、せんちゃん。長いのでエースでいい。

私の属性を語ろう。オタク、醜形恐怖症、うつ病、自殺志願者。主な持病は複雑性PTSD、そして多重人格。家族構成は母、父、私、弟。現在は一人暮らしをし、生活保護を受給しながら病気の寛解を目指す病人である。

さっきの文章と段落が変わったのは、書いている途中で人格が変わったからだ。

端的に言って私は死に誘惑「されやすい」側の人間だ。

それはなぜか。私の大切な人も自殺志願者だからだ。自分の家よりも金よりも家族よりも大事な人が死にそうなのに手が届かない。距離が空いているせいで枯れていくのを窓越しに見ていることしかできない。そしてその窓は「たまに」しか空かない。私はその窓が開くことと、植木鉢に水が注がれるのを渇望して生きることしかできない。主人公と一緒で役立たずだった。

私の大切な人は、精神科に通っている。私は、そこの医療者が医療過誤を起こすのではないかと憤りながらいつも見守っている。

なぜかというと、私の友人も医療過誤で命を落としたからだ。友人は田舎町の、小さな病院に通っていた。人口が200人あるかどうかの限界集落から、車を飛ばして行く。ガソリン代もばかにならないらしい。「病院が合わない」「なんとなく元気がない気がする」そういった主張は彼女の両親には受け入れられなかった。現実的に無理な話だった。彼女はその現実に殺された。

何年も前から「薬をなるべく使わない根治」を理想とする医者のところに通っていたA。スキーマ療法や認知行動療法を試し、難病と格闘した。だけど、症状はずっと横ばいだった。「頭でわかっていても心がついていかない」「これは私の性格なのかもしれない」それが彼女の口癖だった。

ある時、私に転院の機会が訪れた。私はその病院で投薬治療を受けた。最初はなんの変化も感じなかったが、一か月も経ってくると……変化がみるみる見え始める。私はAと同じようにずっと症状が横ばいだった。頭でわかっていても心がついていかない。鉛のような体をもう動きたくないと願いながら動かす日々だった。しかし、抗うつ剤を飲んでみて一か月。みるみる体調がよくなっていく。一週間に一度の外出も渋るほどだった私が毎日外に出てもなんの問題もないほどにまで回復した。今まではなんだったのかと思うほど心が楽になり、自分を「元気だ」と胸を張って言えるようになった。

ずっと性格なのだと思っていた。単純なことだった。治療方針が合っていないだけだったのだ。

同じような状況にいたAと励まし合いながら生きてきた。私はAにも楽になってほしいと願った。何度もAに私の通っているところに一緒に行こうと提案した。だけど返事はいつも一緒だった。「できない」。親がそこまで送れない。親が許さない。言ったけど拒否されてしまった。今度はAの通う病院に抗うつ剤で治療をしてもらえないかと掛け合った。だがそちらも答えは一緒だった。「できない」の一点張り。根治をしましょう、と。

試すだけでもとなんとか掛け合った。泣きながら土下座をしたこともあった。とにかくAの傷ついている姿が苦しくて苦しくて仕方なかった。つらそうで、つらそうで、なんとかしてやりたかった。

私はAと考えていくうちに、あるひとつのサイトにたどり着いた。〇〇〇〇〇(自主規制)だ。以下、Oと呼ぶ。抗うつ剤や睡眠薬、ライトな層向けには、ダイエットサプリやAGE治療の薬etc……幅広く取り扱っている老舗サイトだ。市販では本来手に入らない薬を入手できる、いわゆる「すれすれ」なサイトだった。しかし、私たちはこのサイトに光明を見出した。

私たちのお小遣いは二人で合わせて12000円ほどだった。まず、副作用やメリットデメリット、作用機序、禁忌を徹底的に調べ上げる。比較的手を出しやすそうな新薬から手を付けた。保険適用でないので十割負担分のお金がかかる。それでも病院以外のところから入手できるというのがとてもありがたかった。

Aはみるみる元気になっていった。街に一緒に出掛けたりもした。元気そうなAの笑顔を見るのが、なによりも、なによりも、嬉しかった。このまま時間が止まればいいと思った。

医療者向けのサイトを何度も熟読した。Aの心体をおかしくしてしまわないように。

それでも、ギリギリなサイトから薬を得て服用させていることに迷いはあった。勇気のいることだったが、二人である計画を立てた。Aの日別の体調、気分の向上の推移を示した日誌を記した。抗うつ剤が有用だったこと、目に見えてAが元気になっていることを医者に話した。

そのあとのことは、あまりよく覚えていない。映像を再生することはできるが、まるで歴史の教科書の年表を見ているかのように心が動かない。ただ覚えているのは、激昂する医者と、まるで人形のように固まってしまったAとAの目から溢れる涙のことだけだった。

私はいつのまにかその病院から出禁を食らわされていた。

抗うつ剤を飲まなくなってから、Aは離脱症状に苦しんだ。何度も死にたいと連呼して、最後には海で自殺を図った。私はAを抱きしめて、自分の通院しているところでもらった薬を飲ませた。Aをずっとずっとなだめながら、絶対に効くから落ち着いて、大丈夫だからね、と、地獄のような苦しみを味わうAを、自分の「生きてほしい」と願うエゴで押しつぶしながら、懸命に延命を図った。

一か月が経ち、程なくしてAは落ち着いた。以前のように笑顔を見せるようになり、すこしは外に出られるようになった。

私の住むところには就職先がない。比喩とかではなく、本当に何も無い。0と言ってもいい。あなたたちの想像するような日本ではない。それが限界集落の現実だから、よく覚えておいてほしい。

私の持っている薬は尽きた。尽きたら当然、次を貰わなければならない。私は処方してもらっている薬はすべてAにあげることにした。私が金を稼いで、自分が必要な分の薬は自分で賄う。そう決めた。

私の両親は自営業をしているので、運よくその手伝いでお金を貰うことができた。私だって、鬱の程度が軽いわけではない。働くのは大変だったし、あまり薬が飲めないときもあったけれど……それでも、

Aが元気なことが嬉しかった。

未来の約束をした。叶わないかもしれないけれど、いつか二人でここを出てルームシェアをしようと、そんな話をした。三日後、二週間後、と遊びの予定を立ててははしゃぎまわった。Aの笑顔を私は横で見ていた。ずっと笑っていてくれと、そう思ったのだった。

「動けない」日は突然にやってきた。体が鉛のように重い。手足に現実感がない。やばいと思ったときにはもう手遅れだった。聞きなれたLINE通話の音を無視することしかできず、

(中略)

この先は書く価値がないことだらけなので割愛する。

私は八か月寝ていたらしい。

Aは死んだ。私だって状況が呑み込めなかった。両親の言葉が、まるでいつまでも響く除夜の鐘のように耳に響いた。私はAの通夜の日も、送り出す日も、気持ちよさそうなアホ面で寝こけていたらしい。

腹が立った、理解できなかった。彼女と約束した未来の予定が頭の中でばらばらに霧散していくのを感じた。なのにカレンダーの落書きは消えてくれない。返せ。返してくれ。Aを返せよ。

Aは私がメルトダウンを起こした一か月〜二か月ほどから目に見えて元気がなくなっていたらしい。抗うつ剤の効き目がどんどん落ちていっていたのだろう。

病院で投薬治療を受けられず、私から薬の支援も受けられず、両親も頼れず、この陸の孤島のような僻地で、苦しみを味わいながら、彼女は死んだ。

私はある計画を立てた。もとから、彼女は投薬治療が必要な体だった。その機会を奪い、苦しめに苦しめ、彼女を殺したのは病院なのだと思った。

医者の顔と名前は憶えている。病院に近付くことができなくても絶対に情報を手に入れるのだと私は躍起になった。

自分に課していた「抗うつ剤を飲まない」という制約を破った。Aの仇がとりたかったからだ。抗うつ剤を飲んでいると頭がすっと落ち着いて怨嗟のような苦痛が和らぐ。これは医者を探すのに好都合だった。

ある日、家族で小さなレストランに寄ったときのこと。覚えのある声が背後から聞こえた。私はどくんどくんと鳴り響く鼓動のリズムに動揺しながら、ウエイトレスから料理を受け取った。

声だけでは判断ができない。トイレに行くふりをして席を立ち、さりげなくKのテーブルをのぞきこんだ。すると、本当にKだった。私は不自然を承知でもう一度席に戻り、スパゲティを頬張った。味なんてほとんどしなかったが、栄養を摂るためにそのときは必死だった。今から〇人を犯すのかもしれないのだから。

いつ声をかけるか。どうやって誘い出すか。どうやって人気のないところまで誘導するか。私の頭には何重にもKを〇すための思惑が張り巡らされていた。

Kは言った。『正直、病院の薬で死なれちゃ困るんですわ』『なるべく薬を使いません!って方針も、ただのリスクヘッジだよリスクヘッジ。病院の薬で死なれちゃこっちの責任みたくなるけど、患者がひとりで死ぬ分にゃお悔やみ申し上げますって言っときゃいいんだからさ、ほんとどこの病院でもそうすりゃいいのにねぇ。』『管理できない患者に薬渡して死なすなんてアホだよアホ。』

頭に血が上る。それなのに妙に冷静だった。勝手に、するすると、Kを誘い出すための台本が出来上がっていく。

レストランの裏手まではKを誘導することに成功した。だけど、Kはそれ以上はついてこなかった。事件が起きた現場はレストランから約9kmも離れた山の麓だった。非力な私がどうやってKをそこまで連れて行ったのか、実のところあまりよく覚えていない。

意識が戻ったときには、Kが目の前で頭を垂れて這い蹲っていた。土下座をするK。じんじんと鈍痛が走る拳。数十秒して、意識がなかった間、自分が何をしていたのか察した。

怒り任せにKを踏みつけている間、私はこう思った。本当にこれが私のしたかったことなのか。私はいつもAの話をそばで聞いてきた。だけど、私は意識を失い八か月眠っていた。本当のところ、Aがこいつを殺してほしいと願っているのかわからない。望んでいるのかわからない。私が殺したいだけなのかもしれない。Aは、どんな気持ちで死んだのか。私を失い、薬を失い、どんなふうに苦しんだのか。電話をかけてもかけても起きない私に、どんな気持ちで、電話をかけていたのだろう? そう考えると急に、見当違いなことをしている気持ちになって、目の奥から熱いものがこみ上げてきた。

病気がAを殺した。世間がAを殺した。僻地がAを殺した。両親がAを殺した。看護師がAを殺した。病院がAを殺した。学校がAを殺した。医者がAを殺した。家庭環境がAを殺した。世界がAを殺した。世界がAを殺した。世界がAを殺した。

復讐の対象がグンと幅を持って広がる感覚と共に、なにかがブチンと切れた。私は世界を知覚している。世界は私を知覚している。この世のすべてを滅ぼすことは私には不可能だ。私が滅べば私の知覚する世界も滅ぶ。最初の復讐論から言ったらまったくの詭弁かもしれないが、私はそう判断した。

私は私を殺すことにした。なにがKの中で起こったのかは知らないが、私はKに訴えられなかった。

そして今に至る。私はどういうわけか、今ものうのうと生き延びている。

抗うつ剤を飲み、安寧の中で日々を過ごしている。あの医者は楽がしたかっただけなのかもしれない。私も、Aも、楽になりたかっただけだ。世界にはいろんな目的を持って生きている人がいて、誰かが勝つこともあれば誰かが負けることもあって、その繰り返しが無限に起きて、そしてどこかで終わっている。強い人が勝って弱い人が負ける、生存競争みたいなものだ。私たちは負けたんだ。ただそれだけのことだったが、私は一生かけてもこの気持ちを終わらせることはできないのだろう。

私はまた鬱をもっている子を好きになり、その子に傾倒している。勘違いしないでいただきたいが、その子とAを重ねようなんてこれっぽっちも思っちゃいない。その子とAは似ても似つかないし、声も顔も体も性格も何もかも違う。そもそもその子を好きになったのはその子が鬱だと知る前のことだし、この状況を克服したいと思っているわけではないから(世界の摂理だと理解しているため)、そもそもAを重ねる意味すらない。私はGちゃんのことが好きだ。ただそれだけだ。なんの偶然かGちゃんも(医療過誤と断定するのはまだ早いかもしれないが)投薬治療を拒否る医者のもとに通っているのはなんとも痛ましい事故だけれど……

私はGちゃんを諦める気はさらさらない。自分のできることを模索し、Gちゃんが辛くないように策を講じ続けようと思う。

失う恐怖や何もできない無力感に苛まれても、それを理由に審美眼を曇らせたくはない。それと、Aのときと違って、今回は明確に決めたことがある。Gちゃんが明確な意思を持って私に〇してほしいと頼んだときに、私が〇してあげること。自分のエゴ(生きてほしい願い)は正義じゃない。その人を苦しめる猛毒足り得る。だから私は、自分の気持ちを優先しない。Gちゃんの痛みをまっすぐに見つめる。そして彼女が本気で終わりを願ったときは、私が私自身の手で引導を渡す。

私は紡(つむぎ)。
しがない自殺志願者だ。


2.創作

私は、過去に書いたこの長い自己紹介を「終わり」とは思っていません。
むしろ、ここから先をどう続けていくかを、私は創作という形で問い直しています。

痛みや喪失をただ抱えているだけでは、きっと私は潰れてしまう。
だからこそ、絵や物語に変えて残し続けることが、私にとって生き延びるための行為です。
もしここまで読んでくださった方が、少しでも私の歩みや言葉に触れてみたいと思ってくださったなら――ぜひ作品にも目を通していただけたら嬉しいです。

▼創作まとめはこちら

作品たちは、この自己紹介の延長線上にあります。
読んでもらえることで、私は「生きていてよかった」と思えるのだと思います。

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【自己紹介】|紡慧(つむぎ-けい)
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