全世界は清朝末期 2.0 に入った
この文章は「全世界は清朝末期 2.0 に入った(全球正陷入晚清时代2.0版本)」という文章の翻訳です。
作者のペンネームは邓曦泽、本名は邓勇。四川大学の教授です。
アインシュタインの「人類への皮肉」から始めよう
アインシュタインがこう皮肉ったと言われる
この世で無限なものは二つある。それは宇宙と人間の愚かさだ。ただ、宇宙については確信がないんだ
この言葉の出典は未確認だが、ここでは便宜的に借用する
「愚かさ」とは何か?
人間関係における利害関係を軸にすれば、感情的にではなく理性的に理解できる
最も愚かな行為とは次の二つである
他人を害し、自分も害する
他人にも自分にも利益をもたらすことを拒む
かなり愚かな行為は次の二つである
他人を害しても、自分に利益がない
他人を助けても自分に損はないのに、それを拒む
それに比べれば「他人を害して自分だけが得をする」ことは、愚かではなく単に利己的・貪欲にすぎない
同様に「知恵」も人間関係の中で理解できる。すなわち「他人を助けて自分は損しない」、「他人も自分も利する」行動である
私はしばしばこう思う。人類の知能は進歩しているが、愚かさの方は一向に改善していない
むしろ、第一次・第二次世界大戦の時代と比べても、知能は飛躍的に発展したにもかかわらず、人類はより愚かになっているのではないか。そして、より大きなスケールで「清朝末期の愚行」を繰り返しているように見える。
ここでいう「清朝末期」とは「認知の論理」と「現実の論理」が深刻に乖離した結果として生じた愚かさと災厄を指す。
清朝以前の王朝では、新たな文明的・技術的勢力の勃興はなく、同質的な勢力同士の競争だった。したがって滅亡の原因は「認知と現実の乖離」ではなく、単なる権力や経済の衰退だった。
だが、清朝末期は初めて「新たな文明と新たな力の衝撃」を受けた時代だった。そして、時代変化を認識できず、認知と現実の論理が大きく乖離し、結果として滅亡した。
同じことが、いまの世界でも起きている。
現代人類も、新しい力、新しい文明の挑戦に直面し、認知の論理と現実の論理が分裂する「清朝末期 2.0 」に陥っているのだ。
グローバル的な「認知の論理」と「現実の論理」の分裂
特定の政治行動は、命題が真か偽かによって決まるのではなく、人々がその行動をどう認識しているかによって決まる
フィナーがパレートの議論から導いたこの一文は、実に深い。それは政治のみならず、あらゆる分野に当てはまる。人間の行動の根拠は事実ではなく「認知」である。
この「認知が現実の変化に追いつかない」ことによる悲劇を、中国人はよく知っている。
清朝末期、世界はすでに産業革命時代に入っていた。だが中国人はなおも農業時代の栄光に酔いしれ、「天朝上国(天の王朝であり大国)」と自称していた。
保守派は言うまでもなく、開明派の李鴻章すらも「中国の政治制度はすべて西洋を凌駕している。ただ火器だけは及ばない」と考えていた。
しかし、現実の論理、すなわち「世界がどう変化し、どのように作用しているか」は、人間の認知とは無関係に進行する。認知が現実と矛盾すれば、現実は容赦なくその認知を打ち砕く。
清朝が真の改革を拒んだ結果、国家も民も、そして支配者層自身も損なった。現実の世界は無慈悲に清を打ち倒し、帝国は滅亡した。
ゆえにパレートの主張は、こう理解すべきである。認知は重要だが、それが現実と合致してこそ有効である。現実と矛盾すれば愚かさとなり、荒唐無稽と破滅を生む。
現代人類もまったく同じ過ちを繰り返している。いま世界では、かつてない規模の大変動が進行している。その変動によって、世界の客観的立場から見た性質はもはや「伝統的世界」とは大きく異なる。
これは認知によって変えられない「現実の論理」である。
にもかかわらず、世界の多くの人々は依然として「旧時代の認知」に囚われている。そのため、本来なら回避できたはずの「他人を害し、自分も害する」悲劇が、再び繰り返されている。
政治は技術の進歩に追いついていない
現代人類は、人類史上かつてない大変局を迎えている。その原動力は科学技術の急速な発展であり、それが人類社会の構造そのものを変えつつある。
AI(人工知能)、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)、遺伝子改変技術、この三つのうち一つでも成熟すれば、世界は根本的かつ不可逆的に変化する。
その中で最も注目されるのはAIである。AIが人間の知能を超えるかどうかは議論があるが、少なくとも中級レベル(複雑な命令を実行し、反復労働を代替する)に達することは疑いない。
この大変局における最大の認知と現実の乖離は、「政治が技術進歩に追いついていない」という点にある。政治エリートも技術エリートも、技術の発展が国家政治・国際秩序・人類の運命をどう変えるのかを真剣に考えていない。
国家政治観念の遅れ
人類の政治進化の歴史の中で、民主と法治は主流となり政治的正統性の典型とされている。いまや、民主・法治・人権・平等といった近代的価値を公然と否定する国はない。
しかし実際には、民主と法治を掲げながら独裁を行う国も存在する。
つまり、民主と専制の間には常に闘争があり、それを「政治制度・イデオロギーの対立」と呼ぶ。
いずれにせよ、どんな体制も「政治的正統性の構築」を必要とする。そして、支配者は常に次の二つの問いに答えねばならない
なぜ私はあなたたちを支配するのか?
なぜあなたたちは私に従うのか?
この答えの違いが、民主と専制のイデオロギー的分岐である。
しかし、民主であれ専制であれ、法治であれ人治であれ、支配と被支配の関係そのものは不変である。変わるのは、支配の形式と構造だけだ。
ここで重要なのは、政治の正統性が人々の「有用性」を前提としている点だ。人が有用だからこそ、支配者は服従を求め、価値を創出させる。
だが、もし人間が「ほとんど役に立たなくなった」としたら?
支配者はもはや人々の承認を気にしなくなる。
そのとき、誰が支配するのか?誰を支配するのか?支配そのものに意味はあるのか?
つまり「人民」はもはや説得や動員の対象たり得るのか?これらの問いは、改めて考え直す必要がある。
だが、人民の道具的価値が下がっても、支配者が安泰というわけではない。
なぜなら、支配者自身も技術権力によって反撃される可能性があるからだ。
実際、人類社会が自ら生み出した「権力構造」そのものが変化している。新たな権力、すなわち技術権力(Tech Power)が台頭しているのだ。
2021年初頭、トランプ前大統領のSNSアカウントがTwitterなど主要プラットフォームによって全面的に停止された。技術企業が大統領の発言を封じ、大統領がそれに対抗できなかった。これは人類史上かつてない現象である。
それはつまり、技術が独自の権力を持ち、政治から自立し始めたことを意味する。近い将来、技術は国家に依存しなくなり、むしろ国家のほうが技術に依存するだろう。
その結果、技術はますます政治から独立していく。
それにもかかわらず、多くの国家の統治者は、民主を装いながらも専制を行い、依然として旧来の権力に執着している。
人民と和解し共に未来を築くよりも、伝統的な支配の維持を優先する。これほど愚かなことはない。
国際政治観念の遅れ
第二次世界大戦後、とくに1970年代以降、技術進歩とグローバル化の相互作用によって、富の生産様式と戦争の形態が大きく変化した。
科学技術・資本・マネジメントが国力の中核を占め、一方で領土と地政の重要性は低下した。世界は「ポスト領土・ポスト地政学」の時代に入ったのである。
資源のグローバル化により生産は「脱地域化」した。富は土地に依存するが、もはや特定の土地・国家に縛られない。
また技術の発展により、武器は容易に地理的障壁を突破できるようになり、地政学の軍事的意義は大きく弱まった。
しかし各国、特に大国は、依然として「領土」や「地政」への執着を捨てきれない。
NATO東方拡大、ロシア・ウクライナ戦争、米中対立、台湾海峡危機、これらはすべて時代遅れの地政学観の産物である。
例えるなら、価値が1000から250に下がったものを、二人の人間がそれぞれ500を出して奪い合うようなものだ。「他人を害し、自分も害する」愚行である。
観念を改めれば、人類は「他人を害さず自らも利する」道を取れる。この「旧時代の思考」に最も責任があるのは、アメリカである。
アメリカはいまも世界の先頭を走っている。ゆえにまず時代の変化を洞察し、思考を転換し、他国を導く責任があるはずだ。
だが残念ながら、アメリカは依然として伝統的地政観に囚われている。
キッシンジャー、ブレジンスキー、アリソン、ミアシャイマー、ウォルツ、モーゲンソー…
いずれも旧来の地政学的枠組みを踏襲・強化し、アメリカ外交に影響を与え続けている。
科学技術エリートの責任放棄
政治だけでなく、テクノロジーの担い手たちもまた愚行の一翼を担っている。
イーロン・マスク、サム・アルトマンらは壮大な構想を掲げているが、肝心の「現実」を無視している。マスクの「火星移住計画」は重要だが緊急ではない。アルトマンの「UBI(ベーシックインカム)」構想も善意だが現実的ではない。
彼らは壮大な未来を語りながら、技術進歩が社会構造をどう変えるかという根源的な問題を見落としている。
従来の経験則はすでに崩壊しているのに、それを無視すれば、さらなる「他人を害し、自分も害する」悲劇が生まれる。
彼ら技術・資本エリートは本来、自らの先見的な認識力と社会的影響力を用いて、人々にこう伝えるべきだった
国家・国際政治の古い認知論理は、すでに現実の論理と断絶している。観念を変えなければ、時代の変化に対応できない
しかし彼らはそうしなかった。それこそが、彼らの最大の責任放棄であり、「地政学的愚行」や「国際的衝突」を招く主要因となっている。
犠牲になるのは誰か?
近年、私はますます確信している。
科学技術という、人類が生み出した最も強力な力は、不可逆的に世界を変えていく。
その帰結として、人類の運命は平等になるだろう
皆で神になるか、皆で滅びるか
20~30年後に振り返れば、いまのロシア・ウクライナ戦争も、台湾海峡危機も、米中衝突も、あるいは各国の政治的醜態も、取るに足らない「短期的な波」にすぎないだろう。
だがその「短期的な波」の中で誰かが犠牲になる。それは悲しむべきことだ。
そして誰がその「可哀想な犠牲者」になるのだろうか
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別の方のコメントに共感しましたが、しかし、見ようによってはすごい反体制的なんですけど、これ書いても大丈夫だったんですかね?、と言うのが気になります。
こんにちは。とても壮大で興味深いお話ですね。 ただ邓さんという方は、技術というものを人間より上位の存在だと考えすぎているようにも感じました。 技術が政治や人間を超えて権力を持つ、という見方自体が一種の思い込みではないでしょうか。 トランプ氏の例に関しては技術が政治を超えたのでは…