「親ガチャ」について
青山拓央先生が著書『哲学の問い』(ちくま新書)を基に話されたオンライン講義で、「親ガチャ」についての話が面白かった。
永井均先生の「山括弧塾」での講義だったので永井先生も参加され、
「親ガチャ」は結局は「自分ガチャ」なのではないかと指摘されたのもなるほどと思った。
「自分ガチャ」はまた、「世界ガチャ」とも言えると。
「世界ガチャ」は「現実ガチャ」(無数の可能世界があるとして、現実にはこれだった)とも言える。
さらには、「今ガチャ」(膨大な時間の中で、なぜか今が今である)というのもあるだろう。
神ガチャ(なんらかの宗教を信じてしまうガチャ)というのもあるだろうか。
自分には一見無関係な気がするが、これは外れも多いからであって、実は回されていたのかもしれない。
存在ガチャ(とてつもなく低い確率のガチャ)が回されていて、自分はそのとてつもない大当たりを引いているのだ、
ということもまあ、言えるのだろう。
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「親ガチャ」についてもう少し考える。
本来「ガチャ」は自分の意思で回すものだが、親が決まるガチャは自分が回したわけではない。
なのでこの言葉を初めて聞いた時は、それは誰が回したのか?という引っ掛かりを覚えた記憶がある。
その点、青山拓央先生も「時間的な逆転性」があるとして注目している。
しかし「親ガチャ」は、言葉として違和感があるからこそ面白いとも言える。
「生まれてみたらこんな親だった」という、そういうくじ引きが、自分の預かり知らないところで勝手に実施されたということ。
引いたわけでもないくじ引きに、当事者として後から気付くという理不尽さ。
「そんなくじ引きあるかよ」という、あらかじめツッコミを待っているかのような表現とも言える。
でも、よく考えてみたら、例えば欠席した日に勝手に学級委員の役職や、文化祭での役割などが決められており、それが酷い貧乏くじだった、という類いの経験のある人もけっこう多いのではないか。
なので「親ガチャ」は、あながちありえない状況の喩えではないようにも思える。
また、これは若い人たちから出てきたスラングだというところにも注目したい。
特に指摘したいのは、いま若い世代が親しんでいるエンタメ作品の中で、「異界転生もの」がいかにポピュラーかという点だ。
設定をよく知らない異世界もののゲームの中にとりあえず入ってみる行為などは、ある意味それ自体がガチャを引く感覚にも近いのではないか。
「ガチャ」がそういう文化の中で生まれてきた用語であることにも意味はある気がする。
それはそれとして。
言葉や文化としての話も面白いが、自分はやはり哲学の方により興味がある。
以下、青山先生の考察に触発されてつらつら考えたことを書き留めていく。
考えを整理する為のメモなのでまとまった結論は出ないが、とりあえずnoteは考えるための道具だと思うので気にしないで書いていく。
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「自分がこの親ではない別の親から生まれてきたら良かったのに」という感慨は、実際多くの人たちに持たれているが、そもそもそういう事態はあり得るのか。
「別の親から自分が生まれてくる」という事態は、どう考えたらいいのかすらよく分からない感じがする。
またこれは親についてに限らず自分が生まれる前の出来事全てにも言える気がする。
「原爆が落とされなかったら良かったのに」という思いは、誰しも自然に持つが、そういう日本に自分は生まれて来ることができたか?というと、出来なかったとしか思えない。
であれば、「〜であれば良かったのに」と思うということ自体が可能なのか、ということがある。
自分が生まれて来なかった世界を想像することはもちろんできる。
想像した上で、それで良かったのだ、と考えることも可能だ。
一方、やはり自分は生まれて来たかったので、悲しいけれど、世界には原爆が落とされてもらわないと困る、という考えに至ることも可能だろう。
しかし、「原爆が落とされなかった世界」でありかつ「自分も生まれて来なくてはならない」となるとそれは中々難しい問題だ。
色々と辻褄が合わないはずだからだ。
例えば祖母が被爆して亡くなった結果、当時幼かった母は親戚に預けられ、その家で成人後に縁談があって、それで出会った父との間に生まれたのが自分だ、という人がいたとする。
この場合、原爆が落とされなかった世界での母はその後の人生がまるで異なっており、母と父は、ほぼ100%出会えないだろう。
いやいやそれでも奇跡というものは起こるもので、違うルートで奇跡的に同じ母と父が出会って子どもが生まれる可能性もないわけではない。
しかし、そうして生まれた子供はこの自分だろうか?
遺伝子の組み合わせは受精の前段階でシャッフルされる。
それが今のこの自分と完全に一致することは確率的にまずあり得ない。
しかしながら、完全にまったくのゼロかというとそうではない。
大きく変わった運命の中で奇跡的に母と父が出逢い、受精前の遺伝子のシャッフルの結果、さらに奇跡に奇跡を重ねてこの自分とまったく同じ遺伝子の子供が生まれてくる。
究極の奇跡かもしれないが、四角い円や、ゼロで割る計算などと違い、想像する自由くらいはあっても良いのではないか。
しかしながら。
遺伝子がまったく同じ組み合わせならば、それはこの自分なのだろうか?
それもやはり違う気がする。
その人物は自分そっくりの性質と外見を持っているかもしれないが、遺伝子の配列が同じだけの他人でしかない。
分岐した世界を生きていく自分は、その時点で他人である。
それと同じで、「生まれ直した自分」もどう考えても自分ではない。
というわけで「違う親からこの自分が生まれて来る」というのは、空想としても筋が悪すぎるのではないか。
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高畑勲監督の劇場版アニメ『ホーホケキョとなりの山田くん』の中に、こんな会話がある。
ある日ふと、のぼるが「もっとかっこよくてお金持ちの家の子に生まれていたら、ぼくの運命も変わっていたんだろうな」とつぶやく。
するとそれを聞いた父親のたかしは「ばかだな、親が違ったらお前はそもそも生まれてこないんだぞ。学校でおしべとめしべの話習わなかったか?」と全否定し、のぼるは「そんなの納得できないよ。変な感じがするよ。親が誰だろうと、ぼくはぼくで、父さんは父さんで、母さんは母さんじゃないか」と反論するのだ。
映画はとくにその先を追求しない。なのでストーリーの中ではちょっと浮いているのだが、この作品の中で白眉なシーンの一つだと思った。


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