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キミは太陽(前編)/Novel by 檸檬香 ルカ

キミは太陽(前編)

20,457 character(s)40 mins

【ポケモンSV二次創作SS『緋色の傷痕』1話(前編)】
「ポケスペ的二次創作書きて~!」から始まったポケモンSV二次創作SSシリーズ
ペパーいわく「何でもイエスちゃん」な主人公が、もし「3つの頼みを全て断りたがる人物」だったら……というIF物語

⚠捏造妄想120%⚠
世界観やキャラ設定の補完、ストーリーの都合による改変多め

⚠キャラクリ済♀主人公⚠
主人公(スカーレット)≠制作者
作中ネームドとのCPなし
アオイ(公式♀主)と見た目・性格・言動が違う

人物紹介【レティ(スカーレット)】
ガラル地方の学校からオレンジアカデミーにやってきた転入生
相棒ポケモンはゲンガーの〈ヴィオレッタ〉
かつて地元ラテラルタウンのジムリーダーに推薦されて、ジムチャレンジ参加資格を持っていたが、とある理由で辞退した
ポケモンバトルで他のトレーナーと勝負をするのが苦手

SVの自機に色々設定を付けて遊んでいたら、思った以上に噛み合ったのでSSとしてしたためてみました。ポケスペに脳を焼かれたオタクなので、シナリオ・世界観の補完のための改変・捏造が盛りだくさんです。一応DLC番外編までのストーリーは練り終わっているので、あとは描き散らかすだけ……。基本的に自分用として書いてるので、解釈違いやミスなんかは大目に見て頂けるとありがたいです🍋

作者Twitter:https://x.com/Lemonade_k_sub
(⇧雑多なサブアカウント)

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 大空を見上げたのはいつぶりだろうか。
 
 奈落の底から這い上がり、初めて目にしたのは、眩しい空に雲、そして太陽。
 頬を撫でる風は温かい。周りの生き物たちからの悪意は感じられなかった。日のよく照るこの地の緑は豊かで、爽やかな草の匂いが鼻腔をくすぐる。
 ここには、うるさいくらいに声が反響する狭苦しい壁も、意地悪な同族もない。どうしようもないくらいの開放感、そして光にあふれている。しばらくぶりに、肺の中いっぱいに新鮮な空気を取り込めた気がした。
 どくん、どくん、と自分の心臓が大きく波打つ。これは心身に負った傷のせいか、凄惨な記憶のせいか――いや、両方であろう。
 恐怖を振り払うように軽く首を振る。顔を上げて、ある場所を目指す。
 分かっている。これは「逃げ」だ。綺麗で優しい思い出の残るあの場所を訪れることで、安心を得たいがための逃避行。確固たる目的も無い。ただただ、見たくないものから目を逸らすだけ。
 
 ――ああ、なんて、なんて見苦しい精神なのだろう!
 
 自覚すると同時に、つくづく自分の弱さが嫌になる。が、あの場に留まれるほど自分は強くない。鼻の奥に思い起こされる血の匂いが、耳の奥にこびりつく怒声が、瞼の裏に焼き付いた酸鼻な光景が、鼓動を一層激しくさせる。
 
 ――嫌だ、怖い、助けて。
 
 弱音は何度も吐いた。もう吐かないと思っても、自然と口からこぼれ出る。
 自分に手を差し伸べてくれる人はもういない。だから、吐いても意味をなさないのは分かっている。それでも枯れた声をあげるしかできない。己を愛してくれた人の温かな手を、優しい声を求めてしまう。
 
『弱いくせに、調子に乗るな』
 
 苛立ちの滲む、低い声が耳の奥で再生される。まるですぐ側にいるかのように明瞭で、ぞっとするほどの破壊力を含んでいた。
 自分は調子に乗っていたのだろうか。乗っていたからこんなことになったのだろうか。自分のせいでこんなことに――?
 呼吸が荒くなる。心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、視界が狭窄する。同時に手足の力も抜けてゆく。
 自分の心は完全に挫けてしまった。頼れる人もおらず、ただ隠れ、庇われ、逃げるだけの弱い生き物に成り果てた。
 きっと、自分はこのまま朽ち果てるだけなのだろう。空腹と疲労で弱った身体と、傷尽き果てた精神とを抱えて、どこかの空の下で孤独に。もはやそう思うことしかできない。
 
 ならば、せめて思い出のあの場所で。
 緋色の夕日が見える、あの場所で。

 ああ、でも、本音を言えば。
 逃げ出さない勇気、立ち向かう強さが、ほんの少しでも良いから欲しかった。
 大切なものを守る力が自分にあればよかった。
 恐怖心を克服するだけの力が、欲しい。
 そうだ、強くなりたい。弱いままは嫌だ。
 
 ――もう、これ以上逃げたくはない。

 *

「押忍!」
 燦々と太陽の照る午前。若い女性のよく通る声が、あたりの空気を震わせる。
「一年生諸君、バトル学の授業を始めるぞ!」
 パルデア地方南部に位置する学園都市・テーブルシティ。最奥部の高台にある、私立オレンジアカデミーのグラウンド。そこでは今まさに、午前最後の授業が始まろうとしていた。
 科目は「バトル学」。ポケモンを使役して行う戦闘バトル、いわゆる「ポケモン勝負」について学習する、必修科目だ。
 同時にこれは、今日転入してきたばかりの少女レティにとって、初めて受ける実技授業でもあった。
「今日は前回に引き続き、テラスタルの仕組みの解説と実演を――」
 この授業の担当は、キハダという若い女教師だった。その身を包む黒と金色のジャージや、はつらつとした雰囲気が、バトル好きで活発な人物であることをよく表している。
 明るいアッシュ系に染め上げた髪が、陽光を反射して目の側で鬱陶しくちらつく。毛先に強めのウェーブがかかった己の前髪を、レティは右手でやや乱雑にかきあげた。
 辺りを軽く見回すと、集まった生徒たちはみな真剣に彼女の話を聞いていた。反対にレティは、早く終わらないものかと考えつつ、ぼんやりと耳を傾ける。
「ねえレティ!」
 ヌオーのようにぼんやりとしていた意識が、現実へ引き戻される。隣に立っていた長身の少女が、小声でレティに話しかけてきたせいだ。
「キハダ先生はね、かくとうタイプのポケモンを使うのがお得意なんだ。今度一緒に特訓させてもらおうよ!」
「……授業中の私語は謹んだ方がいいんじゃないの、生徒会長さん」
「あ、そうだった!」
 素っ気ない返しを受けたクラスメイトの少女・ネモは「しまった」という風に手で口を覆う。そしてすぐに、その熱意みなぎるブラウンの瞳を前へと向けた。
 レティのクラスメイトである、ネモ。女子にしては長身であり、日焼けした肌に散るそばかすが健康的な少女だ。彼女は一年生ながらアカデミーの生徒会長を務め、その傍らでこの地方のチャンピオン級トレーナーとして名を馳せている。
 だがレティにとっては、チャンピオンらしい威厳や配慮の無い人間に見えた。
 
『きみが転入生のレティか。話は聞いてるよ、とっても強いポケモントレーナーなんだってね。じゃあ、早速勝負しよっ!』
 彼女は今朝、コサジタウンにあるレティの家まで迎えに来た。……と思えば、いきなり勝負を仕掛けてきた。出会って十秒も経たない、正真正銘の初対面の出来事だ。
 勝負の誘いは、丁重にお断りした。
 
『入学する時はアカデミーからポケモンを貰えるんだ。絶対に受け取った方がいいよ。え、もうゲンガーがいるから要らないって……そんなこと言わないで、受け取った方が良いって。ほら、このニャオハとかゲンガーと絶対相性良いからさ!』
 同行してきた校長から渡されるポケモンの受け取りを拒否したら、無理矢理に押し付けてきた。その後、自分もちゃっかり一匹受け取り、また勝負を仕掛けてくる。
 ニャオハというポケモンは根負けして受け取ったが、勝負の方は丁重にお断りした。
 
『じゃあ、わたしが学校まで道案内してあげる。一緒に行こっ!』
 登校ルートは分かっている、と何度言っても、一緒に登校しようとレティの腕を引いて歩き出す。大して複雑な道順でもなかろうに。
 
『わたしたち、同じクラスなんだよ。困ったことがあったらなんでも言ってね。もちろんポケモン勝負も、何時間だって付き合うよ!』
 そして頼んでもいないのに、甲斐甲斐しく世話を焼く。
 なぜここまで世話を焼くのかと問うたら、「実家同士がご近所だから」と、彼女は海沿いの白い豪邸を指し示した。なんとなく良い印象が持てなくて、曖昧な返事をした記憶がある。
 
『ねえ、テーブルシティには大きいバトルコートがあるんだ。そこで登校前に一戦、どう?』
 そしてまた、勝負をしかけてくる。それもレティは断った。
 その後も不良集団とひと悶着起こすなど、色々あったが割愛する。
 
 こうして思い返してみると、彼女はかなりのお節介焼きだ。だがそれはきっと、彼女の生来の気質と言い切れるものではない。レティがこの数時間で見た限りだが、彼女が他の同級生に対し、そこまでお節介を焼くことはなかった。
 では、なぜレティにはそのような態度を取るのか?
 理由はいくつか考えられる。レティが転入生だから。彼女が生徒会長だから。勝負好きな、チャンピオンだから。
 そして、同行してきた校長が余計なこと――つまりレティの過去や隠しておきたかった経歴を、彼女に伝えてしまったから。
「――そして最後にテラスタルオーブ保有資格講習の説明をしようと思っていたが、予定変更だ!」
 パン、と乾いた音が目の前で弾ける。軽く両の手を打ち鳴らしたキハダは、同時に笑顔を見せた。
 
「今日はガラルからの実力派転入生も参加していることだし、パルデア地方以外のバトル形式について学ぼう。転入生、頼めるか?」
 
 一瞬、状況が把握できなかった。思わず目を見開き、数度瞬きしてしまう。
 微笑みや期待をたたえたキハダの視線は、レティの方へと向いている。名前こそ呼ばれていないが、この場に「転入生」と呼べる生徒はただ一人、レティしか存在しない。
「呼ばれてるよー!」
 と、ネモが横から囁いてくる。
 咄嗟に視線を左右に向け、自分へ視線を向ける大勢の生徒たちを認識したその瞬間、ぞわ、と背筋が粟立った。一極集中する視線が、刺すような好奇心たちが、嘔吐しそうになるほどの緊張感を生み出す。ざわめきはすべて嘲笑に、視線はすべて軽蔑のそれに変換され、レティの心臓を縛り上げた。無意識のうちに、カーディガンの裾を右手でぎゅうと握りしめてしまう。おろしたてのカーディガンは、いとも簡単にぐしゃりとしわを寄せた。
「キミの噂は教員にまで届いているぞ、転入生。なんでも、チャンピオンランクのネモが推しているポケモントレーナーだというじゃないか。パルデアのジムにはもう挑戦したのか?」
「……いいえ」
 張りのない声で返すレティの表情に、激しい緊張と恐怖が滲む。脈動は激しく、次第に呼吸が苦しくなってきた。
 そのことに気づいていないのか、キハダは「そうか」と軽く返し、再び生徒たちの方に向き直る。
「彼女のことはもう、みんな知っているよな。ガラル地方の学校から一年A組にやってきた転入生だ。なんと今朝、迷惑行為を行っていたスター団員らを相手取って大立ち回り、最終的にはテラスタルで彼らを追い払った。転入初日からこの活躍ぶりとは、さすが元ジムチャレンジャーだな!」
 キハダの話に耳を傾ける生徒たちから、ぱらぱらと感嘆の声が上がる。その中で、一際大きな声を上げた生徒が、一人。
「先生、『ジムチャレンジャー』って何ですか?」
「お、そうか、それの説明がまだだったな……いい質問だ!」
 キハダは、ニカッと満面の笑顔を見せて応える。
「ガラルではパルデアと異なり、誰でも自由にジムへ挑戦できるわけではない。実力者に認められ、推薦された者のみが挑戦権を得る。この挑戦権を得た者を『ジムチャレンジャー』と呼ぶ」
 続くキハダの声は、レティの表情とは真逆に明るかった。
「彼女は、地元ラテラルタウンの公式大会で優勝した。その功績から街のジムリーダー二人の推薦を受けて、ジムチャレンジャーになった。言葉にすると簡単だが、実際はかなり狭き門であるとされていて――」
「あ、あのっ」
 今度こそは、目立たずに。目を付けられずに。大きな喪失を、二度と味わわないように。そう生きようとする自分を取り巻くこの状況が歯がゆくて、レティは思わず声を上げる。
「あの、あたし、本命のジムチャレンジに参加できてないんですけど。何の成果も上げてないし……えっと、そんな噂立てられたり、紹介されても迷惑っていうか……」
 レティは確かに、ジムチャレンジャーとして選出された。今年度の始め、地方を挙げて行われる一大イベント・ジムチャレンジの前に。それはガラル地方のポケモントレーナーにとって、かなり名誉あることだ。
 しかし、レティはその立場を放棄した。ジムチャレンジが始まるまで、残り一週間を切った頃のことだった。
 そして今、このアカデミーに転入してきた。「ごくごく普通の生徒」として学校生活を送るために。ゆえに、己の経歴を自ら他人に明かすことはなかった。転入手続きの際に、母親が校長に話した程度である。広まる余地など無いはずだった。
 だがそれは、賞賛されるべきものとして、校長からネモに、彼女から多くの生徒に伝わっていた。
「そうか、それはすまなかったな。だが、実際にここでは成果を上げただろう。学校中で噂になるほどの活躍で、な。正当な実績と理由があるからこそ正当な評価がなされる――違うか、転入生?」
 腕組みをしたキハダはレティに微笑みかけながら、そう返してきた。謙遜するな、自信を持てとでも言いたげなその表情を見て、レティは思わず唇を噛み締める。 
 レティが控えめな恥ずかしがり屋で、自分の功績を称えられることに萎縮するような少女だと思っているのなら、それはとんだ見当違いだ。 
 レティが、そこらにいる同年代の子供よりかはバトルの能力に秀でているのは事実である。それを認めなければ、一定レベル以下のポケモントレーナーに対する、ひどい嫌味になるだろう。その事実を裏付ける、確固たる経歴もある。だが今のレティにとって、それを理由に注目されるのが何よりも苦痛だった。
 言い返したい気持ちと、それをためらう気持ち。両者がせめぎ合うレティの胸中とは対照的に、続くキハダの声は明瞭だ。
「さて、今日の先生はわたしと転入生の二人だ。転入生からもみんなに言っておきたいことはあるか?」
「いえ、特に……ああ、えーと、あたし左手が不自由なんです。だから、あんまり激しい動きとかできないし、授業に協力するのは難しい、かも」
 いきなり話題を振られてしどろもどろになってしまう。が、レティはなんとか適当な言い訳を吐き出した。願わくば、この状況ごと、まるで無かったことにならないか、と淡い期待を込めて。
 転入初日に事前連絡もなく授業に協力、しかも教える側に回れと言われてやりたがる生徒など、そういない――レティを含めて。
 だが、キハダの返答はレティの期待した通りではなかった。
「それに関しては大丈夫だ。今日はキミに『リアルな他地方のバトル体験談』を聞くのが主目的だからな。わたしからの簡単な質問に答えてもらう形式でやっていくぞ!」
 目の前の女教師は、安心しろ、という具合に笑顔を見せる。それをレティは不満げに見返した。
「一応、行政に登録されるくらいのヤツなんですがね……」
 もごもごと口の中に押し込んだレティの台詞は、キハダの耳には届いていないようだった。
 
 バトル学の授業は、表面上は何の問題もないまま、和やかに進んでいく――レティを除いて。
 みんな、なぜこんなにも無邪気に見ていられるのだろうか。なぜ、何も疑わずレティを成功者として見ていられるのだろうか。今どんな思いでここに立っているのか、なぜパルデアまで来ることになったのか、何も知らないくせに、なぜ。
 この疑問に答えてくれる者は、このグラウンド内に一人も存在しなかった。
 
 キハダから何かを問われ、レティが適当に答える。ただそれを繰り返すだけであったが、レティの気持ちは転がるように沈んでいく。生徒たちの好奇心にあふれた視線、期待に満ちた視線が痛くて堪らないのだ。
 早く終わらないものか、という思いが顔に現れないように、表情筋を固める。そのまま、授業終わりの鐘の音を、ひたすらに待った。
 が、時間というものは、意識すればするほどに、長く感じるものである。
 時計の針の進みが、いつもの五倍は遅く思えた。
 

 結局、レティは授業の要として、授業時間が終わるまで前に立たされる羽目になった。授業後、キハダに「有意義な授業だった!」と褒められたが、それを誇らしく思うことはない。
 さっさとグラウンドを後にし、屋内へ戻る。丁度昼休みに入ったので、レティはその足で購買部へ向かった。
 見慣れぬ校内で迷わないように、一旦エントランスホールを経由する。到着した時には既に、購買部は多くの生徒でごった返していた。
「ねえ、ちょっと良いかな?」
「はい?」
 殊に憂鬱な授業から開放され、軽い足取りで商品を選んでいたレティに、誰かが背後から声をかけてくる。手に持っていた、くさタイプポケモン用の食事パックを陳列棚に戻し、レティは振り返った。
「君、一年A組の転入生だよね」
 振り返った先にいたのは、見知らぬ数人の生徒たちだ。しかも、全員が男子である。
 彼らはレティを囲むような形で立っていた。突然のことに驚いたレティは、咄嗟に後ずさる。勢い余って、背後の陳列棚で背中をしたたかに打ち付けてしまう。がしゃ、と陳列棚とその上の商品が音を立てた。足元でうろうろしていたニャオハは、それに驚いたのか、飛び上がってレティの背中に張り付く。
「え、な、なんですか?」
 状況が把握しきれていないレティは、彼らに向けて震える声でそう絞り出すのが精一杯であった。複数の生徒――それも男子に囲まれるこの状況は、レティに以前受けた仕打ちを思い起こさせる。
 決して怒鳴られたり、殴られたりしているわけではない。というのに、心臓が早鐘を打つ。いつの間にか噴き出た冷や汗が、じとりと背を濡らした。
 レティの感情が伝播したのか、リュックサックの上に登ったニャオハがシャーっと威嚇の声を上げる。彼女はそこで、若葉の色をした体毛を、これでもかと逆立てていた。それが警戒の反応なのは、正面から見ずとも分かる。
 男子生徒たちは、そんなことはお構いなしに、目を輝かせながら問いかけてくる。
「君が『ガラルの大会で優勝した凄腕トレーナー』の転入生だろ?」
「チビで、黄緑色の目、そんでゲンガーを連れてる。噂の通りだ、間違いない」
 男子生徒の一人が、レティの側で赤い目を不機嫌そうに歪めているポケモンを指差した。指を差された当のポケモン――レティにとって一番の相棒であるメスのゲンガーだ。彼女もニャオハ同様、警戒の唸り声をあげる。
 それを見た生徒の一人が「強そう」とこぼす。それに続くように周りの生徒達も、レティに熱い視線を向けてきた。
「オレたちは今度の『宝探し』で、ジムへ挑戦するために特訓してるんだ」
「お前、バトル強いんだろ。ポケモン勝負の相手してくれよ」
 無邪気に期待を寄せる視線。この少女がどれだけ強いのか、品定めをするような視線。純粋な好奇の視線。その全てが、胸を刺してくるような感覚に襲われる。
「……えっと、その」
 何かしら言おうとしても、喉が変にひしゃげて上手く声が出なかった。脈動の音が耳元でやけに大きく響く。慣れていたはずの「他者からの視線」が、いつの間にかとても怖く思えて堪らなくなっていた。無意識に、隣に立つ相棒の手を右手で強く握ってしまう。
「あっ、レティ!」
 そんなとき、聞き覚えのある声で名が呼ばれた。
 前で立ち並ぶ生徒の壁が割れる。その隙間から、見覚えのある女子生徒が現れた。
 日に焼けた顔にそばかす。意志の強そうな瞳。前髪にちらりと入った、グリーンのメッシュ。長身の背後には、艶やかな黒いポニータ・テールが揺れていた。
「ネモじゃないか。久しぶり」
 男子生徒の一人が声を上げる。
「久しぶり。みんな何やってるの?」
「彼女に勝負のお誘いを、ね」
 男子生徒たちとネモは知り合いであるようだった。彼らは固まるレティを尻目に、親しげに言葉を交わす。
「この子、ガラル地方の大会で優勝した実力者なんだろ?」
「うん、校長先生がそうおっしゃってたよ。でも……」
 ネモのブラウンの瞳が、ゲンガーと手を繋ぎ固まっているレティの方を見る。
「今朝からポケモン勝負の気分じゃないみたい。転入したばっかりで緊張してるだろうし……代わりにわたしとらない?」
 彼女がこう提案をしたのは、レティが朝からずっと彼女の誘いを断り続けたからであろう。今朝から幾度もレティに向けた熱い眼差しを、今は男子生徒らの方へと向けていた。
「そっか、それなら仕方ないな。でも、ネモと勝負は、うーん……」
「ムリムリ、オレらじゃ『天才』のネモには勝てねーって」
 男子生徒らの返答は、芳しくない。一人は悩み、一人は手を振って諦めたような口調で返した。他の生徒たちも頷いて、同意を示す。
「あー……そういうことだから、じゃあな、ネモ。転入生もな」
 ネモの誘いにより、先ほどまでの彼らの盛り上がりようは、どこかへ“ふきとばし”されてしまったようだ。若干白けた雰囲気のまま、彼らはレティたちに背を向ける。
「断られちゃった。レティ、すっごい人気だねー!」
 それを見送ったネモは、深くため息をつく。しかし、すぐに笑顔を取り繕った。
「別に……生徒会長さんがいっぱい触れ回ったからだよ」
「アハハ、そうだったね。新しい友達ができて嬉しかったし、転入生だからみんなに紹介しなきゃ、って思ってさ」
 役職でしか自分を呼ばないレティに対しても、ネモは他の生徒たちに接するのと同じ態度を取った。対してレティは、いつ友達になったんだっけ、と頭上に疑問符を浮かべる。
「でも、もったいないな。レティは大会で優勝するくらいの実力があるんでしょ?」
「ただの地方大会だよ。チャンピオンカップに出たわけでもない。そもそも、一個もジムバッジを持ってない。偉大なるチャンピオン様の前では、何の自慢にもならないから」
 熱のこもったブラウンの視線をかわすように、レティは下を向き続けた。
 太陽のように輝かしい、ブラウンの瞳。時折、虹彩の明るい部分が金色にも見える、力強く綺麗な瞳。きらきらと瞬くそれは、彼女の明るい気質と熱い心、強い意志が見え隠れしている。それに、じっと見つめられると、レティは心の底からいたたまれなくなった。
 おどおどすることしかできない、自分自身の弱さが際立つようで。
 何もかもを捨てて、逃げてきた自分の惨めさが、浮き彫りになるようで。
「……でも、ガラルでジムチャレンジャーになるってことは、パルデアでもチャンピオンになれる可能性は充分あるって言えるよね」
 ネモは胸の前で両の手を組み合わせ、うっとりと目を細める。
「レティは、もう一回チャンピオンを目指したいとか、思ってない?」
 昼休みに入り多少の時間が経ったせいか、購買部は更に混み合ってきた。周りの生徒達がちらちらとレティたちの方を見てくるのに気づく。
「生徒会長さん。あたしはジムチャレンジャーには選ばれたけど、本命のジムチャレンジで結果出すどころか、参加すらしてないんだよね」
「うん、そう聞いてるよ」
「――そもそも、あたしはもうポケモン勝負はしない、って今朝からずっと言ってんだけど」
「うん、それも聞いた。で、わたしは『なんで?』って今朝からずっと聞き返してるけど?」
 その答えをまだ聞けてない、という催促が言外に示されていることはすぐに理解できた。レティは深く溜め息をつくと、ネモと共に購買部を出る。この時間の買い物は、諦めることにした。
「あたしは、みんなが言うほどすごいトレーナーじゃないんだよ。勝負だって、ジム巡りだって、したいとも思えなくなっちゃったし。だから――」
 言葉が途切れる。
 昼休みの廊下は、生徒らの喧騒であふれていた。その明るい雰囲気の中で、レティだけ取り残されたように暗い影が差している。
 すっと息を吸い直し、再び口を開く。
「だから、チャンピオンとか、正直どうでもいい」
 以前のレティは、確かにチャンピオンに憧れていた。それゆえにジムチャレンジ参加を目指し、腕を磨いてきた。誰とでもポケモン勝負をしたし、それを心の底から楽しんでいた。だが、今のレティにそんな風に考えられる余裕はない。ゆえに「どうでもいい」のだ。
 ――本当にそう・・なのだろうか?
 自ら口にした言葉に胸が締め付けられる。ネモを拒否したせいで良心が痛むのか、自分の心の傷が痛むのか。レティには分からなかった。
「そっか。わたし、グイグイ行きすぎちゃったかな……」
 いつの間にか、二人はエントランスホールを歩いていた。そこは、アカデミーの図書館も兼ねているため、壁一面に本が並べられている。昼休み中のせいか、紙とインクが織りなすどこか寂しくなるような香りと、多少の喧騒があふれていた。いやに寂しげなネモの台詞も、その喧騒に溶けて消え行く。
 やや気まずい空気のなか、二人で一年A組教室に向かう。
「あ、そういえば」
 その気まずさを飛ばすためか、あるいは単純な好奇心か、ネモは問いを投げかける。ずっと気になってたんだけど、という前置きの後のそれは、傍から見れば大した内容ではない。
 だが、レティにとっては、心臓に“ぜったいれいど”を喰らったかのような、強い衝撃をもたらすものであった。
 
「どうしてジムチャレンジに参加しなかったの?」
 
 レティの歩みが止まった。同時に、冷や汗が背を濡らす。
 せっかく挑戦権あるのにもったいない、試合当日に風邪引いちゃったとかかな、というネモの呑気な台詞が、やけに遠くから聞こえた。
「レティ?」
 返答が無いのを不思議に思ったのか、ネモが顔を覗き込んでくる。
 その瞬間、軽快な電子音とバイブレーションが左の手のひらを震わせる。スマホロトムだった。電話の着信を示すアイコンが、液晶画面に表示される。
「あ、えーと、電話来た。じゃ、じゃあね」
「分かった、じゃあ後でね!」
 ネモの返答を最後まで聞かずに、レティはそそくさとその場から離れた。ナイスタイミングだ、と口に出したい衝動をぐっとこらえる。
 広いホールの端まで小走りで移動し、震えるスマホの画面を見る。「着信」の文字の下には、いくつかの数字が並んでいた。この、感謝したいほどにタイミングの良い発信元に、レティは覚えが無かった。が、特に疑いもせず「応答」のマークをタップする。
『……スカーレットだな?』
 浮遊モードになったスマホロトムのスピーカーからは、機械を通したのか、老若男女の特定できないような声が響く。
 スカーレットとは、レティの正式名称だ。が、そう呼んでくる知り合いはほぼいない。長い名前ゆえに、大抵の人間は愛称の「レティ」と呼んでくるし、レティ自身もそう自称することが多かった。
 そもそも声からして、明らかに知り合いではない。レティは相手の問いには答えずに、自ら問いかける。
「あんた、どこの誰?」
『わたしの名はカシオペア。オレンジアカデミーの……そうだな、関係者とだけ言っておこう。この通話はあなたのスマホをハッキングして行っている』
 カシオペアと名乗る人物は、きわめて丁寧な口調で話し出す。レティの警戒するような態度に気付いたのだろう。名前を聞いてもやはり、レティの記憶にある人物では無かった。
「ふぅん、ハッキングしてデータをどうこうしてくれたってワケ……パルデアの紳士様は随分と礼儀正しい・・・・・方のようだね」
『無礼は承知の上だ。さて、あなたはスター団のことを知っているな?』
 レティの嫌味に、カシオペアは特に感情を揺さぶられなかったようだ。淡々とした口調で、話を進めてゆく。
「スター団って、あの超ダッサいポーズ取ってた不良のこと?」
 星形のゴーグルにヘルメット、着崩した制服がトレードマークの「スター団」。聞けば、一部のアカデミー生徒たちが作った、いわゆる不良グループというものらしい。「なにか大きなことを為そう」という謳い文句に、勧誘ノルマが云々と訴える様子が、レティの記憶に深く刻まれていた。……星をかたどる、独創的・・・なポーズと共に。
 今朝の登校中、レティとネモはスター団員数名が、ある少女に絡んでいるところに出会った。アカデミー正門に繋がる、長い石造りの階段の前でのことだ。ネモが生徒会長らしく団員たちを注意すると、逆上した彼らはレティまでも巻き込んで、ポケモン勝負を挑んできた。
『……そう、あなたがポケモン勝負で追い払った、彼らのことだ。知っての通り、彼らはアカデミーの風紀を乱し、周囲に迷惑をかけている』
「はあ」
『今朝のような勧誘に、基地への立てこもり、不登校……挙げだしたらきりがない。わたしは、そんな状況を看過できない……!』
 つらつらと語るカシオペアに対し、レティはただ相槌を打つことしかできない。
 スター団がかなり大規模かつ面倒な不良集団であることは、ネモから聞いていた。大規模ゆえに、教師たちも中々手を出せずにいるということも。
 だがそれはすべて、スター団員ら本人とアカデミーの問題である。つまり、レティにはほとんど関係ない。
 そのはずが、このカシオペアという人物は、なぜかその話を持ち出した。
 ――すごく、嫌な予感がする。
『あなたは噂通りの、高い素質を持つポケモントレーナーだ。そこで、その腕前を見込んで頼みたいことがある』
「あの――」
『わたしはスター団を星クズに変えるべく「スターダスト大作戦」を計画した』
 レティに口を挟む隙を与えずに、カシオペアは言う。

『あなたには、この「スターダスト大作戦」の同志として、スター団を解散に導く協力をしてもらいたい』
 
 嫌な予感というものは、往々にしてよく的中するものである。レティは深い深い溜め息を吐いた。
 察するに、スター団なる集団を解散させるには、ポケモン勝負を利用するのだろう。レティは昔からよく、その腕前を見込まれて、様々なことを頼まれた。かつてのレティであれば、そのような頼みは基本的に断らずに協力していた。ポケモン勝負が好きで、人との勝負に勝つのはもっと好きだったゆえに。
 だが今と昔は違う。今のレティに、誰かの頼みを聞き入れる余裕はない。それも、自身とは全く関係のない、大人数の不良集団の相手など、天地ひっくり返っても無理な話であった。
「あー、あんた人違いしてんじゃない。あたし……あたしヴィオレッタっていうの。スカーレットじゃないんだ。残念だけど他の人に当たってよ」
 一呼吸ののち、口から出まかせに台詞を吐き出す。上ずった声で、適当に名乗り、どうにかやりすごせないかと願いながら。
 しかしその願いは、流星のごとく地平線の彼方まで飛んで行ってしまった。
 
『嘘は良くないな。オレンジアカデミー総合クラス一年A組、学籍番号805C393のスカーレット・ヴィオラ・ラッセル』
 
「え?」
 心臓が変に再び跳ねる。心拍数が上がり、冷や汗が額に滲んだ。
 機械越しにも分かる、冷静な口調がレティの鼓膜を叩く。
『年齢は十五歳。左腕が携帯獣ポケモン由来重度裂傷により不自由で、第三等級の登録カード持ち。筋肉断裂と神経損傷により、ほとんど動かせないようだな。現在の手持ちポケモンはゲンガーの〈ヴィオレッタ〉、ニャオハの〈ニップ〉。他に四匹のポケモンを所有しているが、携帯獣入国管理システムの不調で現在は離ればなれ。両親はともにポケモントレーナーであり、母親のオリヴィエはガラルの元みずジムリーダー。父親のアッシュは世界ランクトップ層の実力者で、現在は国際ポケモンリーグ連盟ガラル支部長。あなたは幼い頃から彼らの指導を受けて育った結果、ジムチャレンジャーに選出された。推薦者はジムリーダーのサイトウとオニオンで、地元ラテラルタウンの代表選手――だった。そして、今日付けでガラルの私立校・マルスプミラ学園から転入してきた』
 薄気味悪いほど冷静に、かつ詳細に、カシオペアはレティの個人情報をつらつらと並べ立てる。
『――違うか、スカーレット?』
 そう締めくくるカシオペアに対し、レティは何も言えなかった。カーディガンの袖で、額の冷や汗を、ゆっくりと拭う。
『あなたのことは詳細に調べさせてもらった。電話番号も含めて――だから通話を切るなんて無駄なことは止めた方がいい。こちらで制御している都合上、すぐ通話を再開させてもらうことになるからな』
 「通話中」の文字列が並ぶ黒い液晶越しに、牽制するような台詞が投げられる。レティは、「通話終了」のマークに伸びていた人差し指を、しぶしぶ下ろした。
「……わかったよ。確かに、あたしはスカーレットだ。経歴もあんたの調べた通り。……にしても、気持ち悪い上に悪趣味な奴だね。個人情報抜き取られちゃ、手も足も出せない」
 不満と警戒心を、わざとらしく声に乗せて、レティは口を開く。毒を吐くという、精一杯の仕返しも忘れない。
「で、メンバーは何人いるの?」
 レティは軽い舌打ちとともに、問いを投げかける。が、答えは無い。
「ちょっと、黙ってんじゃないよ。まさかこの『片腕しか使えないか弱い美少女』たった一人に、不良退治を全部任せるってんじゃないだろうね?」
『美少女……』
「何、文句あんの?」
 言葉尻を捉えて、何か言いたげにするカシオペアを、レティはスマホロトム越しにぎろりと睨みつける。テレビ電話ではないが、カメラは恐らく機能しているはずだ。でなければ、通話を切ろうとしたレティの行動が相手に分かるはずもない。
『……いや。スターダスト大作戦のメンバーは、現状わたしとあなたと……合計三人だけだ』
「三人⁉」
 予想よりも遥かに少なかったその回答を聞き、レティは思わず素っ頓狂な声を上げる。横を通った女子生徒に咎められるような視線を向けられた。ごまかしの咳払いとともに、声を落としてレティは続ける。
「へぇー、『大作戦』って名の通り、随分と豪勢じゃないの。さっすがカシオペアさん」
『……これで充分だ。特にあなたは、ジムリーダーから推薦状を貰うほど、バトルの腕に秀でている。一騎当千とまでは言わずとも、戦力としては充分だ』
 レティの皮肉をさらりと受け流したカシオペアに対し、レティは低い声を液晶画面にぶつける。
「あのさあ、いい加減にしてくれない?」
『何をだ?』
「経歴を調べたってことは、あたしが当のジムチャレンジに参加しなかったってことも知ってんでしょ」
 察しの悪い通話相手に対し、レティは再び軽く舌打ちを見舞う。こんなこと、話すのすら苦痛だというのに。
「あたしはガラルでジムバッジを一つも手に入れてない、正真正銘のアマチュアトレーナーだよ。それに転入してきたばっかで忙しいし、あんたに手を貸す義理も無い。手持ちだって、今まともに戦えるレベルの子はゲンガーしかいない。そんな奴に不良集団を潰せ、だなんて明らかな人選ミスだ。こんな不毛な会話してる暇あったら、とっとと別の適任者を探しなよ」
 一息でまくしたてる。カシオペアは口を挟まずに聞いていた。
『わたしは何も、あなたの腕前を見込んだだけじゃない。あなたの境遇も鑑みて協力を要請すると決めた』
「は?」
 
『あなたはジムチャレンジャーに選ばれてから、同じ学校の生徒にいじめられていたのだろう?』

 彼とも彼女とも言えない人物は、機械仕掛けの冷たい声で、言葉を紡ぐ。
『理由は恐らくあなたへの嫉妬。あなたはそのいじめが原因で、ジムチャレンジに参加できなくなったのだろう。代わりにラテラルタウン代表としてジムチャレンジに参加したのが、いじめの主犯格と言うのだから、理不尽極まりない結果だな』
「なんで、それを――」
 知っている。変に跳ねる心臓を抑えるように、胸に手を当てる。レティの手のひらに伝わってきたのは、普段の倍の大きさはあろうかという拍動だった。
『言っただろう、あなたのことは詳細に調べさせてもらった、と。公表していない、いや、学校にもみ消されたのだったか……その事実すらも、わたしは知っている。かつて理不尽にいじめられていたあなたなら、きっと――』
「お願い、黙って……頼むから思い出させないで!」
 自然と金切り声が上がった。それを自身の声帯が発したものだと気づくのに、少し時間がかかる。近くを通った見知らぬ生徒の視線が突き刺さった。側で見守っていた相棒ゲンガーが、心配そうにレティを覗き込んでくる。
 口に出されると、いじめられていたという己の境遇を改めて実感させられる。目の奥が熱くなり、視界がたっぷりの水分で滲み出す。何もしていないはずなのに息が上がり、自然と前のめりになった。両脚は生まれたてのシキジカのように震えている――当時の嫌な記憶が涙とともにあふれ出し、ざあっと血の気が引いたせいだ。
「そんな……あたしのこと、誰も知らないところに来たくて、だからここまで来たのに。どうして……」
『あなたはこのことを、誰にも知られたくないのか?』
「当たり前だよ!」
 ぼろりと零れた涙を右の袖口で拭い、噛みつくように怒鳴る。
 弱みを見せれば、食われる――食い物にされる。面白おかしく会話の種にされ、変な噂を流される。その弱みがもし、物質的なものだとすれば、食いちぎり、踏みにじられる。
『そうか……あなたの気持ちは理解できる。だが、こちらもなりふり構っていられない状況なんだ』
 機械越しの声が、また、響く。口調は冷静であったが、先ほどよりも歯切れが悪い。
『……取引だ。あなたがスターダスト大作戦に協力を決めてくれたら、わたしが調べたあなたの情報を他の誰にも漏らさないと約束する』
「なんだ、それ。断ったら全校生徒にバラすって言いたいの?」
 レティは鼻をすすりながら問う。
『そうだ……ああ、そうとも言えるな。わたしにはそれを可能にするだけの力がある。もちろん、タダで協力しろとは言わない。約束とは別に、多額の報酬を渡そう』
「報酬、約束って偉そうに……あんたがしてんのは、ただの脅迫だよ!」
 涙声で反撃しても、特に威圧感はない。レティはそんな自分が情けなく感じて、次から次へとあふれてくる涙をがむしゃらに拭った。
『協力するかしないか、考える猶予を与えよう。次にわたしが連絡するまでに、よく考えておいて欲しい。良い返事を期待している』
「あっ、待って!」
 ぷつん、という音とともに、スマホロトムの浮遊モードが解除され、カジッチュ柄カバーのついたそれが右手に収まる。その重みが、いつもの倍くらいに感じられたのは、レティの幻覚だろうか。
 鼻をすすりながら、どうすればいいんだ、と呟く。その呟きは、薄汚れた壁に当たって砕け散った。
 
 学校という名の箱庭で暮らす子供たちには、明確な線引きがされている。太陽の光の下で、安寧を享受できるもの。または、多くの生徒に蔑まれながら、日陰の側でしか生きられないもの。
 レティは元々、日なた側の生徒であった。だが、ジムチャレンジャーに選ばれてから、理不尽に日陰側に突き落とされた。
 下層のさらに下層、最下層とも底辺ともいう位置にまで墜ちたレティに、手を差し伸べる人間は誰もいなかった。当時仲の良かった友人も他の生徒も、教員も、誰も味方になってはくれなかった。
 きっとそれは、このオレンジアカデミーの生徒達も同じだと、レティは思っている。この忌まわしい過去が知られれば、何をしなくともそういう人――いじめられて当たり前の日陰者だと認識されてしまうだろう。少しでも目につく行動を起こせば、誰かしらの反感を買い、すぐにいじめの対象になるはずだ。それだけは、なんとしても避けなくてはならない。
 だからこそ、既に広まってしまった自身の噂のことを思うと、レティの身震いは止まらなかった。どこから何が漏れるか分からない。誰かがカシオペアのように調べて、真相にたどり着いてしまうかもしれない。さらに厄介なことに、何をどうすれば誰の反感を買うのかは分からない。
 だが、一つだけ確かなことがある。前の学校では、レティがジムチャレンジャーに選ばれたのが、いじめっ子らの反感を買った。
 そう、ポケモン勝負で何か結果を残したことが、確かに、理不尽な悪意の餌となったのだ。
 
「レティ!」
 聞き覚えのある声とともに、背後に手を置かれた。弾かれたように振り返る。
 レティの涙目に映ったのは、恐らくこのアカデミーで一番の有名人。
「電話終わった……って、えーっ、なんで泣いてるの?」
「あ、な、なんでもない……」
「なんでもないわけないよ。絶対何かあったでしょ」
 ネモは真剣な表情で、レティの顔を覗き込んでくる。彼女の両手はレティの肩に置かれ、ぎゅっと力を込められた。
「っ……」
 その姿が、かつてのいじめっ子の姿と重なる。
 囲まれて、責め立てられた時の記憶。生意気だ、と殴り、蹴り飛ばされた記憶。推薦状を破り捨てられた記憶。大切なネックレスを千切り取られた記憶。見て見ぬふりをする人々の記憶。そして、両肩に掴みかかり、詰め寄られる記憶――。
 どれもこれも、鮮明にレティの脳内を駆け巡る。耳の奥には、彼らの怒声がこびりつき、離れない。音も映像も、壊れたビデオのように、何度も何度も脳内で再生された。
 ――嫌だ、やめて。痛い、痛い……怖い!
 心臓がぎゅっと縛り上げられ、吐き気を催すほどの恐怖感が、レティの全身を駆け巡る。見える映像、聞こえる音が、現在のものか蘇った記憶なのかすら判別できなくなっていた。
 ――逃げなきゃ。逃げないとまた、みんな・・・殴られてしまう。早く、早く逃げなきゃ!
「待ってよ、レティ!」
 素早く踵を返し、廊下へ向かって逃げるように駆け出すレティの背中に、驚いたようなネモの声がぶつかる。リュックの上で寝息を立てていたニャオハが、不満そうにシャーッと声をあげた。だがそれを気にする余裕もなく、レティはひたすらに見慣れない校舎を走り抜けた。真っ直ぐエントランスホールを走り抜け、開放された出入り口から外へ出る。乱雑に涙を拭い、無理矢理に脚を動かした。
 真っ白になった頭の中に残ったのは、とにかく「学校」という箱庭から、逃げ出さなくては、という意識のみ。
 自身の経歴を知る者、それに辿り着く可能性のある者が存在する、箱庭――あるいは、人間という恐ろしい生き物が生息する、魔窟のような場所から。

Comments

  • 空都
    October 4, 2024
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