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古代妄想。油獏の歴史異聞
宇佐への道。八幡神の生成
宗像、鐘崎の織幡神社に遺る「幡(はた)」の伝承。神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が御手長という旗竿に武内宿禰が織った紅白二本の幡(旗)をつけ、旗を振って敵を翻弄し、沖ノ島にその旗を立てたという。
鐘崎の東、遠賀郡岡垣の波津海岸は神功皇后が旗を立てた「旗の浦」。対馬国一宮、海神(わたつみ)神社には神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として「旗八流」を納めた。そして神功皇后は筑紫の宇瀰(うみ)で、譽田天皇の寝屋の周りに同じく「旗八流」を立てたという。
これら筑紫に遺る「幡(はた)」の伝承が豊前への連鎖をみせている。周防灘に面した豊前の沿岸域に「幡」地名と「幡」の神社群がみられる。築城の赤幡郷に「赤幡神社」。そして、和名抄には築城の広幡郷に「広幡社」、築城の湊、綾幡郷には「綾幡社」の所在が記される。
また、綾幡社は「矢幡神社」とも呼ばれ、古く「やはた神」の宮趾であったという。「矢幡、やはた」は八幡とも記されて、この社は八幡神の顕現の霊地ともされる。のちに「金富(きんとみ)神社」と名を変えるのであるが、この社は宇佐八幡宮の元宮、もしくは霊地であるとされる。
そして、神仏習合が始まる頃に八幡(やはた)は「はちまん」と呼ばれたとして、この社の事象を「八幡」の名の派生とする。のちの神亀元年(724年)、宇佐神宮の造営にあたり、神託に因ってこの社で斧立神事を行っている。
これら豊前の「幡(はた)」の祭祀は、韓半島渡来の「秦(はた)」氏によるものとされ、「秦」が幡(はた)に通じる。(*1)
宇佐託宣集によると、八幡神は「我は始め、辛国に八流の旗となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身である。」と託宣して、八幡神は辛国(韓)に纏わる「八流の旗」であったという。
「八流の旗」とは大陸の軍制の象徴。そして、北方の「八旗」が軍事、政治、生産の制とされ、八旗の族は「旗人」と呼ばれ、秦(はた)氏が旗人であったという。秦氏は「旗」の大義のもと、多くの渡来氏族をとりこんで、八流の旗から「八幡(やはた、はちまん)神」を生成している。(*2)
そして、秦氏の族、辛嶋氏が宇佐へ八幡の祭祀を持ちこみ、宇佐氏と宇佐八幡の神祇を生成している。古く、宇佐氏が奉祭した中津の「薦(こも)神社」は宇佐神宮の祖宮、元宇佐とも呼ばれる。その薦(こも)神社に辛嶋氏が豊前で示現した八幡の祭祀を持ちこんだとみえる。古く、辛嶋氏も薦神社の神官を務めたとされる。
また、辛嶋勝姓系図によると辛嶋氏は中津平野の東、伊呂波川の谷に入ったとされる。谷の正面に神奈備、稲積山が秀麗な姿をみせ、辛嶋氏はこの山の麓「末邑」を本拠にしている。その後、八幡神は、乙咩神社、酒井泉神社、郡瀬神社、鷹居社、小山田社を経て、宇佐神宮へ移ったとされる。
宇佐神宮の八幡神の生成は、在地の宇佐氏の地祇に渡来系の辛嶋氏が原八幡神の信仰をもちこみ、さらに、6世紀に中央より下った大神氏が応神天皇の神霊を八幡神に同化させたともいわれる。
辛嶋氏がもちこんだ原八幡神の神祇とは「旗」の祭祀。八幡信仰において、旗とは神の依り代、旗がはためく様子は神が示現する姿。八幡とは多くの幡(旗)を立てる神の姿とされる。(了)
(*1)秦氏の渡来は5世紀に始まるとされ、豊前を拠点としたといわれる。古代中国の史書、隋書には「倭国の筑紫の東に秦王国が在り、習俗は中国人と同じである。」と記される。また、大宝2年(702年)の豊前の戸籍では、秦、秦部などの秦氏族が80%を占めるとされる。秦氏はやがて、畿内へ進出、全国に広がっている。
(*2)新撰姓氏録に「山城国、広幡公、百済国津王之後也。」と広幡公を名乗る百済王族の存在が記される。広幡は和名抄にいう築城の広幡郷。「広幡社」は今は無く、戦国期の広幡山城跡の下手あたりが社地ともされる。秦氏はこれら多くの渡来氏族を取りこんだとみえる。
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