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武内宿禰と大伴金村。


 田川、糸田の金村山という字地に「金村神社」が鎮座する。金山彦命、罔象女命、埴安姫命を祭神とする。

 この社の伝承では、「斉明天皇の時代、糸田の里に来た大連の大伴金村は民が水なきを嘆くのを聞くや神祇を祀り、自ら鉄鉾を地に刺して岩を穿たしめ、水を湧き出させた。」と伝わる。糸田の田畑は潤い、豊作が続いたという。民は大伴金村を金村権現として祀り、産土神としたと伝わる。近くには「泌泉(たぎり)」と呼ばれる湧水池が在り、今も灌漑用水として田畑を潤している。

 「大伴金村」は5世紀末から6世紀にかけての大連(おおむらじ)。在位655~661年の斉明天皇の時代の人ではない。伝承には錯綜があるようだ。

 祭神の「金山彦神(かなやまひこ)」は神名の通り、鉱山を司る神である。また鍛冶や金属に拘わる技を守護する神ともされ、各地の金山神社で祀られる。糸田にも鉱山が在ったか、鍛冶集団が居たのであろうか。近くに「金田」や「赤池」などの鉱山地名が在り、東には、古く、銅を産出したという香春岳が聳える。大伴金村の伝承はこの金山彦神の「金(かね)」に纏わって生まれたものかもしれない。


 この伝承を読んだとき、筑前、那珂川郷の裂田の溝を思い起こした。那珂川郷の岩戸に日本最古とされる灌漑水路、「裂田の溝(さくたのうなで)」が在る。この水路は神功皇后が那珂川郷、現人神社の神田を潤すために造ったという。

 日本書紀によると、神功皇后が那珂川の水を神田に入れようと溝を掘らせたが、迹驚崗(とどろきのおか)で水路が大岩に塞がれる。そこで、武内宿禰が神に祈ると、雷が大岩を砕いて水を通したという。冒頭の金村神社の伝承と風情がよく似ている。こういった伝承は各地にあり、鉄器を使った古代の灌漑工事の記憶を伝えるともいわれる。


 那珂川郷の「迹驚崗(とどろきのおか)」とされる台地は、周囲30mほどの高さに切り立ち、「裂田の溝」が台地の脇を廻(めぐ)る。台上には平坦地が広がり、のちの時代、大宰少弐、原田種直が安徳天皇をこの台地に迎えたとも謂れ、安徳台、御所ヶ原とも呼ばれる。

 今は蜜柑畑ともなっている台上からは、弥生遺跡や飛鳥期の建物遺構、そして、平安から室町期に至る館の跡が検出している。弥生集落跡からは最古級の鉄器工房跡などが出土、奴国の拠点集落のひとつともされる。また、7世紀の大型建物の遺構は、661年に斉明天皇が筑紫に構えた「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」ではないかとも謂われる。

 斉明天皇は新羅に滅ぼされた百済を援けるため、筑紫に行幸したが、その後、朝倉で急死する。斉明天皇は灌漑や石造物などの大規模な工事を行い、日本書紀はこの女帝を「興事を好む」と評している。この台地に斉明天皇が在ったとしたら、裂田の溝はこの女帝の業績としていかにも相応しい。


 そして、神功皇后の伝承がこの女帝をモデルにして作られたという説がある。斉明天皇の崩御後、中大兄皇子が兵を率いて渡韓するが白村江の戦いで唐、新羅連合軍に敗北、倭国が韓半島で持っていた権益を失う。神功皇后の三韓征伐説話はこうした状況のもとで構想されたナショナリズムともされる。

 斉明天皇が神功皇后のモデルであれば、神功皇后の宰相であった武内宿禰は、冒頭の「大伴金村」あたりを投影しているとも思える。武内宿禰は5代の天皇に仕えたとされ、大伴金村が仁賢天皇から欽明天皇まで6代の天皇に仕えて、当に、武内宿禰のモデルとするに相応しい。

 江戸期の軍記物「筑後将士軍談」は高良山神籠石の由来を「武内宿禰が呉の孫権の来襲に備えて築いた。」としている。糸田の金村神社の縁起は、「大伴金村は筑紫の要害の視察のためこの地に到った。」として、この域の裏山の麓に「鹿毛馬神籠石」が築かれている。北部九州の神籠石が大伴金村が築いたものであり、武内宿禰の業績として投影されたとも思わせる。

 そして、武内宿禰が香坂皇子、忍熊皇子を討って、応神天皇を即位させる様子は、大伴金村が仁賢天皇の死後に平群真鳥、鮪父子を討って、武烈天皇を即位させ、その死後に彦主人王の子を越前から迎え、継体天皇とする事象にも重なる。(了)

 

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