神社縁起や地域伝承から歴史の謎に迫る。九州から発信しています。
古代妄想。油獏の歴史異聞
御手長の話。
宗像、鐘崎に名神大社「織幡(おりはた)神社」が在る。宗像大社に次ぐ社とされ、半島に至る「海北道」の基点、鐘崎の港の突端、佐屋形山に鎮座する。主祭神は武内宿禰。東西に住吉大神、志賀大神を配祀する。神官は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の裔とされる。
この社に「幡(はた)」の伝承が遺る。神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という竿に武内宿禰がこの社で織った紅白二本の幡(旗)をつけ、幡を振って敵を翻弄し、最後に沖ノ島にその幡を立てたという。
宗像沿岸、福津には4人の織媛を祀る「縫殿(ぬいどの)神社」が鎮座する。呉の国から兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の織媛が、その技術を伝えるために招かれたとする。兄媛(えひめ)はこの地に残り、宗像で織物を伝えたという。そして兄媛は神功皇后が新羅を征した折、船の帆を縫ったという。古代の宗像域には機織りの技術集団が在った。
九州北部沿岸には「幡(はた)」の伝承は多い。鐘崎の東、岡垣の波津(はつ)海岸は神功皇后が海岸に旗を立てたので「旗の浦」とされる。対馬国一宮「海神(わたつみ)神社」は古く、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として「旗八流」を納めた社とされる。そして、神功皇后は筑紫の宇瀰(うみ)で、譽田天皇の寝屋の周りに「旗八流」を立てている。
そして、壱岐国一宮に比定される「天手長男神社(あまのたながお)」は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の裔が「御手長」を祀るとされる。御手長とは武内宿禰が織った幡(旗)を付けた竿のこと。
また、幡(旗)を振り「御手長」を掌る神が宗像、多礼の「指來(さしたり)明神」とされる。宗像大社の対岸、多礼の「指來神社(孔大寺神社)」の縁起では、「産土神の指來明神は、神功皇后の異国征伐の折、御旗を司り給ひし神なり、故に、旗指大明神と云しを今は訛り、指來明神と云ひ、阿蘇津彦命を祀ると云へり。」とある。幡(旗)を振り、御手長を掌る指來明神が、何故か、阿蘇の神「阿蘇津彦」で、多礼の産土神であるという。
阿は「くま」とも読み「阿蘇」は熊襲ともされる。「御手長」に熊襲とされる蛮夷が重なる。神功皇后の三韓征伐において、九州中南の熊襲が武内宿禰に従ったのであろうか。のちの「隼人」が朝廷の門の衛士とされ、犬の鳴声を発して、蛮夷が天皇に従属する姿を演じたという。神ともされた「御手長」も天皇を示す幡(旗)を振る役を演じる蛮夷の兵であった。
江戸期の和漢三才図会では「足長手長」とは山の怪。諏訪の手長彦、足長彦は建御名方神に随従した先住の神であった。確かに「御手長」には蛮夷ともされる族の姿が重なる。
火(肥)の甲佐の「甲佐神社」は三韓出兵に際し、天から金甲が授けられ、神功皇后を佐(たす)けたという伝承を地名由来とする。祭神は阿蘇国造の祖、速瓶玉命(はやみかたま)の御子、惟人命。「惟人命」は神功皇后の三韓征伐に従軍し、軍功があったため火(肥)の南の管領を賜り、甲佐宮の祭神とされたという。この甲佐の「惟人命」が指來明神の阿蘇津彦命であろうか。
甲佐神社は阿蘇神社の二の宮とされる社。そして、甲佐には阿蘇神話とは異なる伝承が残る。甲佐において、阿蘇の主神「健磐龍命(たけいわたつ)」は韓半島に渡り、対馬の女性を連れ帰り、二人の間に生まれた子が甲佐明神、惟人命であると伝わる。
これら「御手長」や「甲佐明神」の伝承には、阿蘇域(熊襲)の兵が武内宿禰に従い、三韓征伐に従軍した事象が投影されているともみえる。そして、宗像大社社前の神湊、牟田尻の装飾古墳「桜京古墳」の存在に、肥(火)の系譜がみえるのが興味深い。(了)
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