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古代妄想。油獏の歴史異聞
幡(はた)の話。
韓半島には「旗」を立て、神を祀る習俗があった。蘇塗(ソッテ)の祭りは「竿や木柱を神木に見立て、鳥の羽、白紙、布を結びつけて神とし、民はこれをとりまいて歌い踊る。」という。鳥形を竿の上に立て、邑(むら)の境で邪気を防ぐソッテ信仰もこの思想。
幡(はた)や幟(のぼり)は神が降り立つ印であり、神を呼ぶ依り代であるという。八幡は海の民が船に立てた幡(はた)とも。沖ノ島の最も重要な祭りは「みなかて神事」であった。みなかては「御長手」とも書く。長手とは長い布を旗竿につけたもの。
神の降臨神事「御長手(みなかて)」は振り上げ、振り下ろすことによって霊力を発揮し、満珠、乾珠と合力して潮を司るという。幡(はた)は航海の守護神、風の神と潮の神の依代。幡(はた)が風に翻り、靡く度に神の功徳が広がるという。この御長手神事が「みあれ祭」として宗像に伝わる。
玄界灘に浮かぶ沖ノ島には沖津宮、神湊の沖、大島には中津宮、そして、田島には辺津宮が鎮座して、それぞれに田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神が祀られる。毎年10月1日には三女神の神霊が船にのり、宗像七浦から出港した船団を従えて海上を駆け、辺津宮で一堂に会して「みあれ祭」が行われる。神幡を掲げた三隻の御座船を先頭に、数百の漁船が紅白の幡や大漁旗を靡かせるさまは壮観。
宗像、鐘崎に名神大社「織幡(おりはた)神社」が在る。地元では「しきはん様」と呼ばれ、宗像に次ぐ大社とされる。織幡神社は韓半島に至る「海北道」の基点、鐘崎の港の突端にある佐屋形山に鎮座する。主祭神は武内宿禰。東西に住吉大神、志賀大神が座し、神官は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の子孫であるという。この社に幡(はた)の伝承が残る。
神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白二本の旗を竿につけ、旗を振って敵を翻弄し、沖ノ島にその旗を立てたという。その紅白の旗が織幡神社で織られたとする。
幡(はた)の伝承は九州北部沿岸に多い。鐘崎の東、遠賀郡岡垣の波津(はつ)海岸は、神功皇后が海岸に旗を立てたので「旗の浦」とされる。対馬国一宮「海神(わたつみ)神社」は神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として「旗八流」を納めたところ。そして、神功皇后は筑紫の宇美(うみ)で、譽田天皇の寝屋の周りに「旗八流」を立てる。
そして、幡(はた)の神祇は、九州北部沿岸から豊前へ連鎖している。豊前、築城の赤幡に「赤幡神社」が鎮座。和名抄には築城の広幡郷に「広幡社」、築城の湊、綾幡郷には「綾幡社」の所在が記される。これらの幡(はた)の社を宇佐八幡宮の元宮とする説がある。宇佐八幡宮の社伝では、欽明天皇32年に「広幡八幡麻呂」と称した応神天皇の神霊が宇佐に現れたとする。
「八幡」の起源については諸説ある。宇佐託宣集に八幡神は「我は始め、辛国に八流の旗となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身である。」と託宣して、八幡神は辛国(韓)に纏わるとする。「八流の旗」とは大陸の軍制の象徴。
また、満州の「八旗」は軍事、政治、生産の機能を持つ制。八旗の構成族は旗人と呼ばれ、「秦氏」が旗人であったという。秦氏とは「幡(はた)」の氏族。
韓半島渡来の秦氏は、九州北部沿岸から香春を経て、豊前へ進出している。隋書には「倭国の筑紫の東に秦王国が在り、習俗は中国と同じである。」と記している。
そして、大宝2年(702年)の豊前の戸籍では、秦、秦部などの秦氏族が80%を占めるとされる。秦氏はやがて、宇佐を拠点として畿内に進出、全国に広がっている。(了)
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