人生、50年間、生きてきました。
よくもまぁ、死なずに、ここまで生きてこられたなぁって思います。
これからあと何年、生きられるのか、分かりませんが、とりあえず前に進みます。
まだ、しばらく続く人生なのか、あるいは、わりと遠くない未来に終わる人生なのか。
よく分かりませんが、、、。
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最近、「別の見方」、「別の視点」、「別の道」、「別の可能性」について考えます。
英語で言うと、"alternative"(オルタナティブ)ということなのですが…。
僕らはいつでも、「ある見方」、「ある視点」、「ある道」、「ある可能性」に囚われているというか、縛られています。「今日は、〇〇をしなくっちゃ」、「あの人は、〇〇だから嫌いだ」、「私の未来は、〇〇しかない」、「私は、〇〇だから、✖✖しか道はない」、みたいな感じで。
「私は、〇〇が好き」、「私は、✖✖が嫌い」というのも、「ある見方」であり「ある視点」からですよね。
こういうのを、「先入見」とか、「臆見」とか、「ドクサ」とか、「思い込み」とか、「偏見」とかといったりします。こういうある種の決めつけは、人間が生きていく上で、欠かせないことではあるのですが、、、
最近、この臆見や思い込みが、すごく強くなってきているようで、心配になります。
と同時に、その臆見や思い込みが「間違い」だと思うと、手のひらを返したように、真逆の見方や真逆の視点に吸い寄せられていく人たちが増えてきているように思うのです。
「こうあらねばならない」が、一気にひっくり返って、「こうあってはならない」となるように。
「大好き~~💓」が、一気にひっくり返って、「マジ、無理~~~💦」となるように。
ある意味で、無垢な人たちであり、また、純粋(あるいは単純)な人たち…。
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10代の半ばくらいから、僕は、人間(あるいは人間社会)の「ドロドロっとしたところ」に興味を持っていました。
人間の心の闇の部分や、意識下にあるドロドロっとした無意識の部分に目がいくようになりました。
他人のドロドロだけではなく、自分自身にあるドロドロっとしたところにも関心を持ちました。
人間は、不条理なものであり、また、不可解なものであり、「それであらぬところのもの」だということを嫌というくらいに思い知ってきました。
好きの反対は、嫌いではなく、無関心だ、という話も聞きました。
心理学や哲学や社会学を学べば学ぶほど、人間は、矛盾やデタラメなところを多分に有していて、学生時代には、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という言葉に心酔したりもしました。
「好きだけど嫌い」、「したいけどしたくない」、「正しいけど間違っている」、「ムカつくけど惹きつけられる」、「見にくいけど美しい」、「近づきたいけど離れたい」、「前へ前へとバックする」、「愛おしいほどに憎らしい」「吐き気がするほどロマンチック」、みたいな、そういう「なんじゃそりゃ?」っていう矛盾的なドロドロっとした見方に、僕は魅せられていきました。(そのきっかけは、ZI:KILL~THE SLUT BANKS~CRAZEのTUSKの歌詞なんですけどね)
そういう複合的というか、複雑なものの見方が、今、急速に失われているような気がしています。
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だから、「別の見方」、「別の視点」、「別の道」、「別の可能性」について考えてしまうんです。
僕らには、いつでも、別の道があって、そこを忘れるな、と。
一番怖いのは、自分が正しいと思った道だけを「唯一の道」と見てしまうことなんです。
唯一の道なんて、どこにもないんです。いつでも、どこかに「抜け道」や「別の道」があるんです。
このことを、今の時代を生きる人は、かなり忘れているんじゃないか?!って。
あの人(集団)は好き、この人(集団)は嫌い、と単純に結論付ける人が多すぎるんじゃないかって。
推しにしても、恋人や友人にしても、内輪集団にしても、政党にしても、国家にしても、なんにしても。
ラーメンも同じです。
僕は、家系ラーメンや二郎系ラーメンのことを、「大好きで大嫌い」と思っています(苦笑)。いや、「大好きだから大嫌い」が正しいかな。単純に有名なインフルエンサーになりたいなら、今トレンドとなっている家系ラーメンを誉めまくるのが一番です。分かってます。でも、好きで大嫌いなので、あえて批判的に語ってしまいます。
国家も同じです。
僕は、「日本」のことを、とっても大好きだと思っていますが、それゆえに「大嫌い」なんです。日本という国を愛おしく思っていますが、それゆえに、それと同時に、「なんだ、この国は?!」という気持ちでいっぱいになります。そこそこ海外にも出ている人間なので、日本のよさも悪さもある程度見えています。なので、「日本、サイコー!」とは思わないし、また、「日本、サイテー!」ともなりません。いいところも悪いところもあるのが、「普通」だから。
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物事をある視点からではなく、別の視点から見てみる。
人や社会や国家を、今見ている視点ではなく、別の視点から見てみる。
ある嫌な人がいたら、今捉えている嫌な側面ではなく、別の側面を見てみる。
「こんなことをしてはいけない」と思ったとき、「それは本当にしてはいけないことだったか」という視点で捉えてみる。
「人はこうすべきだ」と思ったとき、「それは本当にしなければならないことだったか」、「別にすべきこともあったのではなかったか」という考えをつねに持つ。
そういう視点や考え方が、ある種の「多様なものの見方」であり、「別の見方をもつ」なんです。
「あの人は、ああいう人だから」(言っても無駄だ)とか、「あの集団は、ああいう集団だから」(関わっても無駄)とか、そういう思想が強くなってきているから、「分断」や「断交」が頻繁に起こるようになってきているようにも思います。
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だからこそ、「別の見方」、「別の視点」、「別の道」、「別の可能性」を常にもっておきたいのです。
大事なのは、「常に」というところです。
いつでも、僕らは「判断の間違い=誤謬」があります。
それをたえず、いつでも、自分自身でチェックしなければいけないんです。
そのチェック機能が、この十数年で一気に弱まってきているような気がします。
そして、「あいつは味方だ」とか、「あいつは敵だ」とかとすぐに決めつけて、グルになったり、敵対視したりするようになっているように思うのです。
このことって、もうずっと前にB'zの稲葉さんが歌っていたことでもありますね。
止まれないこの世界で、胸を張っていきていきましょう。
柔軟なものの見方や考え方をもってね👆
この歌の歌詞の中にも、絶対矛盾的自己同一的な箇所があります。
「くだらなかったあの頃に戻りたい戻りたくない」。
そう、戻りたくて戻りたくないんですね。







