政宗「毒殺未遂」の実母義姫、晩年は幸せだったか 元仙台市博物館長が山形で講演
河北新報配信
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孫らと交流を持ち晩年は幸せとあるが、 1614年に兄の義光が亡くなり、 1622年に内紛により最上家が改易された。 義姫は行き場を失って、 我が子伊達政宗を頼って仙台城に行った。 この頃義姫は既に75歳で目や脚がだいぶ衰え、 仙台城に来た翌年1623年に76歳で亡くなった。 義姫は兄義光が亡くなり、 実家の最上家が内紛で改易され、 没落していくのを見てかなり落胆したことだろう。 果たして晩年は幸せだったんだろうか・・・!?
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大河独眼竜政宗で、岩下志麻さんの義姫が「最上の家をどうして助けてくれなかった」旨を叫んだ際に、成実役の三浦友和さんが委細経緯を話すとこが印象に残ってます。実家は無くなったものの、孫に囲まれ(牟宇姫の話は初めて聞きました)幸せだったのは間違いないかと。
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毒殺未遂は創作と言われてるけど、その後政宗が豊臣秀吉の軍門に下だり、政宗が乳母の片倉喜多を蟄居させるのと同時に伊達家を出奔してるので、 こうした政宗の態度や行動に抗議する意味合いが有ったのかもしれない。
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本人の幸福度と必ずしもイコールではないけれど 息子政宗からは愛されていたんだろうな、と 若林城跡のすぐそばに今も残る菩提寺と 保春院前丁という地名を見ながら思う。
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毒殺未遂のすぐ後からしばらく政宗と親しく手紙を交わしてる証拠が見つかってる。毒殺は創作か弟の小次郎の死亡を偽装するためという説が近年出てきてる
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お家騒動ですよね、昔は多かったんですね 多分 政宗も そんなこと 水に流してたと思いますよ、 その当時は当たり前のことだったのかもしれませんからね。
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